第四章 第一話
「最初に会った時以外、
空は晴天だ。竜神のお告げ通り、雨が降ったのは桜教殿に来た次の日から二日間だけだった。
それ以降は、暑いくらいの日差しが降り注いでいる。これが続けばどうなるか想像してぞっとした。雨を降らせる
「このまま儀式まで一度も会えなかったらどうしよう……。ううん、暗い事を考えては
決意して足を向けたのは、桜教殿の東にある社だった。
「月白様、いらっしゃいますか?」
鳥居をくぐって階段を上がり、社に向かって声を上げたが、返事はなかった。
毎日社を
「もしかして居留守を使っているのかしら。だったら、社にいるはずよね」
そう思って社の戸の前まで来たものの、どうにも足が進まない。
竜神を祀る場所だけあって、社は神聖な
「無断で入るのはどうも気が引けるわ。でも入らないと、話もできないし……」
どうしようと考えていると、ふいに
「うわっ! やめて!」
男の声だ。何事かと社をぐるりと回って、声がする方へ急いだ。
社の裏には小さな池があって、その
「やめてくださ……!」
水際でじたばたしているのは月白だ。何をしているのかと目をこらすと、月白が動いた
竜神は月白の身体をドンッと押したり、くすぐったりしている。
「何をしているのかしら」
子どもの姿の竜神と十五歳の月白なので、最初は二人で
しかしすぐに
「やめてくださいって言ってるじゃないですか! 竜神様!」
「
「俺は遊びたくないんですってば!」
月白の嫌がっている表情が遠くからでもわかった。それを見てふとおかしな事に気づく。
「あれ? 月白様は
不思議に思ってよくよく見ると、月白の視線は竜神がいる方とは違うところに向いているのに気づいた。竜神が
それなのに月白は両手を
竜神が
「どうしてお前の一族は、みんなそんなに
竜神の声は面白がっているように聞こえた。
(そうか! 声は聞こえても姿が見えないから、
「ほらほら。ちゃんと僕の姿が見えないと、また池に落ちるぞ」
月白は
「向かって右よ! 大きな木の前にいるわ。池に突き落とそうとしてる!」
月白は
姿は見えなくても
「こら、緋蝶! 教えるなんてずるいぞ!」
竜神がすぐに立ち上がり、
「月白様は見えないんでしょう。それなのに、池に落ちるように押したりして。弱い者いじめしないでください」
「霊力を鍛えてやっているんだ。皇族の姫以外で
相手は竜神だが、そんな言い分には腹が立った。
「それは言い訳にしか聞こえません。だって顔が楽しんでいるように見えます」
「え? 竜神様は楽しんでるの?」
月白がきょとんとしているので、思わず竜神を指さした。
「ええ。楽しんでますよ。性格悪そうな顔で!」
竜神が
「
「……それは、竜神様が怒られるような事ばかりしていたからでは?」
思わず口にすると、竜神が
「まあ、そうともいう。……しょうがない、月白。
月白は声はしっかり聞こえるらしく、びくっとした。
「ええ!? 最近ここに来る回数が多くないですか?」
月白は明らかに嫌がっているのに、竜神はまったく気にした風はない。
「
月白がぐっと言葉に
「じゃあ、また明日な」
「待ってください、竜神様。本当に
どうやら月白は、毎日とんでもない目にあっているようだ。
「だから言っているだろう。暇な者同士遊ぼうって」
二人の話を聞いていて、
「月白様はわたしに教えを
竜神がふーんと
「月白、教育で
竜神が問いかけると、月白が彼の声がした方を向いた。
そしてこちらにも視線を向けて、ふてくされたような顔になる。
「……そうです。毎日教育をするので、竜神様とは遊べません」
竜神が口を
「つまらん。教育中はさすがに邪魔できないが、
強い風が
「竜神様はいつも
呆れたように声を上げると、月白が目を丸くした。
「いなくなったのか?」
振り返って頷くと、月白が満面に
「やったー! やっといなくなった、これでゆっくりご飯を食べて
両手を挙げて喜んでいた月白だったが、はっとしてこちらに目を向けた。
身長はそう変わらない。
「あの……礼を言うよ。竜神様の居場所を教えてくれて、ありがとう。おかげで、今日は池に落ちずにすんだ」
(あら、案外素直なんだわ)
思わず心の中で感心して、目を
「月白様。その言い方だと、昨日までは池に落とされていたんですね」
「だって声はすれども姿が見えないんだ。どこから来るかわからないから防ぎようがなくて」
口を尖らせた彼は年相応で何だか親しみやすい感じがした。嫌っているはずなのに、それでもこうして礼が言えるのは、心根は正直で
だったらと、月白に向き直ってにっこり笑った。
「さっき、竜神様と毎日教育するって、約束してくださいましたよね」
「それは……」
「取り引きしましょう、月白様」
「取り引き?」
「わたしは竜神様が見えるので、近づいてきたらお知らせできます。教えを授けてくださるなら、竜神様がいたずらしないよう見張ります。だからお願いします!」
頭を下げると、月白がしばらく考えるそぶりをした。
「……さっき儀式で失敗したら、わたしの命はないって言ってたけど、どういう意味?」
「ご存じないんですか?
月白が
「俺は撫子様の
「えっ? どうしてそんなでたらめな話が? わたしはもともと東雲様のお
東雲の屋敷であった
「……というわけで、誤解を解こうとして
話し終えると、月白の目が点になっていた。
「俺が聞いていた話とずいぶん違うな。
月白がはっと口元に手を当てた。暁と月白は幼なじみだと聞いていた。
暁は山吹の
しかし話してみると、月白は裏表がなさそうな少年だ。幼なじみを思いやる優しい気持ちも
「わたしに教えを授けてください。気に入られていないのはわかっていますが、わたしも命がかかっています。それに竜神様も教育の時は邪魔しないって
「……仕方ないな。教えてやるよ」
「はい!」
● ● ●
「うまーい!」
月白の声に、緋蝶は思わず微笑んだ。日課となりつつある昼食会に、新しい仲間が増えたのだ。苑紫が作った料理を勢いよく食べている月白に、東雲が
「
「ちゃんとしなきゃいけない時はできるよ。任せといて!」
東雲はまだ口を開こうとしたが、両手でそれを押さえる。
「大目に見てください。今日は初めて月白様が昼食会に顔を出したんですし。それに苑紫様の料理はびっくりするぐらい
「月白、
苑紫が月白が食べ終えた皿を片付けながら、声をかけた。
「ええーっ。剣舞って苦手なんだよな。そもそも剣術が苦手だし。俺は弓の方がいい」
「弓がお上手なんですか?」
「そうだよ、緋蝶。百発百中なんだから。今度見せてあげる」
「剣舞の練習に来ない
食べかけの皿を取り上げられようとして、月白が
「やるよ、剣舞の練習。儀式で成功しないと、緋蝶がまずいんだろ。剣舞は苦手だけど動きを合わせるぐらいできると思う。緋蝶、俺の
にかっと笑った月白の頭を、橙幻がぐりぐり
「可愛いな。月白は。どう? 女の子の
東雲が眉根を寄せた。
「
「占術の教育はどうだ? 儀式までに準備は間に合いそうか?」
「多分
月白がちらっと目を向けたのは、桜教殿の北にある建物だ。そこには蔵書室がある。
東雲が心配そうな顔付きになった。
「緋蝶、暁にはまだ会えていないんですか?」
「はい。最初の日に蔵書室で会ったきりです。いつ行ってもいらっしゃらなくて」
苑紫が腕組みしてため息をついた。
「暁は剣舞の練習にも来ない。儀式まで一度も練習に来ないならまずい事になるだろう。見かけたら引きずってでも連れてくるんだが……。月白、暁と仲がいいだろう。どこにいるんだ?」
「それが最近俺も見てないんだ。会えたら、緋蝶に協力してって言おうと思ってるんだけど」
月白は最初に敵意を向けてきた時とは別人のようだ。
竜神のいたずらに相当困っていたらしく、助けた事に本当に感謝してくれていた。
それに緋蝶が自ら女帝に名乗りを上げて大内裏に押しかけてきたという話を聞いて、うっかり信じたらしい。緋蝶をずうずうしいと誤解し、幼なじみの暁が女帝制度に反対しているのも相まって、
「緋蝶、誤解しないでほしいんだけど、暁は悪い奴じゃないんだ。ぶっきらぼうだし口は悪いけど
暁とはまだ数えるほどしか会っていないし、話も少ししかした事がない。
蔵書室で会った時は
ただ確実なのは彼から教育を受けられなければ、自分もこの国も終わりだという事だけだ。
食事が終わり、花賢師達がそれぞれの仕事の為に席を立った。
緋蝶は最後に残った苑紫が皿を片付けようとしているのを見て、
「苑紫様、お手伝いします」
「いや、女帝候補にそんな事はさせられない」
「自分で食べた物ぐらい片付けます。料理の腕は苑紫様にはとてもかないませんが、片付けは得意です」
微笑むと、苑紫が困ったような顔をしつつも
「では、食器を下げるのを手伝ってもらおうか」
「はい」
食器と膳を手早く重ねて持ち上げる。自分の頭よりずっと高く積み上がっているので、落ちないよう
「力持ちだな」
「こういうのは、力はそんなになくても大丈夫なんです。慣れと要領です」
最初は落としたりして𠮟られていたが、いつしか片付けの名人と言われるようになった。
苑紫も残りの食器を持って立ち上がる。外に出て、苑紫と並んで
「何かおかしいですか?」
「そうやって、いつも慌ただしそうに働くところが、撫子様によく似ていると思ってな」
撫子とは母の事だろう。
「母をご存じなんですか?」
「ああ、
兵部省とは軍政を
「私が八歳の時だ。当時十八歳だった撫子様が
(きっとそれが父さんね。
父と母はどのように知り合って、どのように
「撫子様は、ずっと
いつも冷静
「母は元気でしたよ。毎日よく
もう八年も前に
「母は働き者でした。得意の
人違いだったと竜神が解放してくれればいいが、姿を見たのだから
「緋蝶は撫子様によく似ている。顔立ちも性格も。撫子様も、自分の事は自分でやると言って、てきぱき動かれていた。……大丈夫だ、緋蝶は撫子様の
苑紫が微笑んだ。
「私は子どもの頃に撫子様に
「ありがとうございます。苑紫様」
力強い言葉は
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