第二章 第二話
通されたのは広い畳の間だった。緋蝶は緊張しつつ、部屋に入る。
雫花帝に失礼にならないような
〝主上は御簾の中にいらっしゃるから、近くまで行って正座して、両手をついて頭を下げてください。主上と直接話ができるのは、大臣や側近などの限られた方だけなので、その方の指示に従ってください。決して勝手に
「緋蝶様、主上が顔を上げよと
ゆっくりと顔を上げると、正面に御簾が垂らされていて、その
「本来なら、主上にお目にかかる
苑紫が御簾に向かって頭を下げた。直接雫花帝から言葉を頂くなんて、
「……ようこそ、緋蝶。もっとこちらに近づいて、よく顔を見せて」
落ちついた大人の女性の声が、御簾の向こうから聞こえた。
東雲に目をやると、彼が顔を
「まあ、
斜め後ろに座っていた東雲に目をやると、彼は顔を上げた。
「お言葉、
東雲が再び頭を下げると、ややあって御簾の中から声がした。
「いいでしょう。聞かせてちょうだい、東雲」
許可が出た事にほっとする。雫花帝と話すなんて恐れ多くて言葉も出ないと、さきほど東雲に相談していたのだ。許可が得られれば、東雲が説明すると約束してくれていた。
「まず緋蝶の母親は、主上の妹君とは名前が違います。そして……」
東雲の話を一通り聞き終わった雫花帝が、静かに声を上げた。
「わかりました。では、緋蝶。
「ですが、緋蝶は……」
「主上のお言葉です。緋蝶様、前へどうぞ」
御簾の前に座った苑紫が、
(貴族のお
目を白黒させていると、東雲が息を吸い込んだ。
「主上、恐れながら、緋蝶は
「
苑紫の声に殺気が込められていると気づいて、はっとした。
「お待ちください。わたしが一人で参ります」
声を上げるのは人生で最大の勇気がいった。
それでもこのままでは東雲がまずい事になりそうだ。だから勇気を
「東雲様、大丈夫です。直接、人違いだと説明して参ります」
「……わかりました。御簾に入ったら、すぐに跪いて頭を下げるんです。いいと言われるまで顔を上げてはいけません。話す時は、まず主上のお言葉を聞いてからです」
「どうぞ」
苑紫が御簾を上げてくれる。中に入って、言われた通りにすぐに跪いて頭を下げた。
心臓は痛いくらいに大きく
それでもここで
「顔を上げて、緋蝶」
目の前にいたのは、美しい女性だ。
年は四十歳を
この方が雫花帝かと驚くと同時に、彼女の
てっきり雫花帝一人だと思っていたので、子どもがいた事にびっくりした。
(主上の子どもかしら……?)
「初めまして。わたくしは
ふわっと花が
見た目はか弱そうな印象を受けた。とても一国を預かる
見とれてしまいそうなほど
「初めまして、緋蝶と申します。恐れながら、わたしは主上の
「……撫子はもともと皇族らしくなかった」
ふいに少年が言葉を発したので、驚いて彼を見つめた。
(なに、この子……。撫子様を知っているような口ぶりよね。でも、撫子様が
「着物の仕立てをして生計を立てていたというのも、撫子らしいな。
少年の言葉に、山吹がそっと
「撫子が刺繡と仕立てをした着物で、わたくしは
言葉に
「身分が違う。雫花帝の妹と、下級の武官だぞ。どうしても婚姻したいなら、出ていけと言った言葉に後悔はない。あのまま大内裏で婚姻させても、きっと苦しんだだろう」
少年の言葉はどうにもおかしかった。いまの言葉をそのまま受け取ると、彼が婚姻に反対して、撫子達を大内裏から追い出したようだ。しかし彼女達がここを出たのは、この少年が産まれるずっと前のはずなのにと、首を
「どうかしたの?」
「すみません。さきほどからこちらの方が言われている意味がよくわからなくて」
子どもでも貴族なのは確かだろう。だから言葉には気をつけた。山吹がゆっくりと微笑む。
「緋蝶。この方が見えますか?」
変な問いだと思ったが、相手は雫花帝なので失礼があったら首が飛ぶと
「はい」
「どんな姿をしていますか?」
「十歳くらいの子どもです。髪は短くて
「この方が言っている事が聞こえる?」
目だけをそっと上げる。山吹の表情は、まるでほっとしているように見えた。
「はい、聞こえます」
「そう。見えるし、聞こえるのね。わたくしにはもう、声しか聞こえなくなってしまったわ。この方の姿を最後に見たのは、半年も前なのよ」
思わず首を傾げた。山吹が何を言っているのかわからなかったからだ。
「申し訳ございません。よく意味が……」
「苑紫、許します。入ってきなさい」
山吹が声をかけると、御簾がわずかに持ち上がり、苑紫が静かに入ってきた。
「何でございましょう」
「ここにいる人達の名前を言ってみて」
(名前って……いったい、何がしたいんだろう)
やんごとなき身分の方なので、とりあえずは成り行きを見守った。
「ここにいらっしゃるのは、主上と緋蝶様です」
苑紫が目で
「もう一人いらっしゃいますよ」
おずおずと声を上げ、山吹の隣に座る少年を手で示す。なぜ苑紫は彼を無視するのだろう。
「……そこにいらっしゃるのですか?」
苑紫が手で示した方を
「もしかして、見えないんですか? 目がお悪いんでしょうか。そこに子どもが……」
御簾の中はそう広くはない。ろうそくのおかげで明るいし、少年は堂々と座っている。
いくら目が悪くても、見えないはずがないのにと
「わたくしも見えないわ。この方が見えているのは、あなただけよ」
山吹が静かに声を上げた。信じられなくて、少年に目をやる。
「そんなはず……だってそこに……」
「もういい。山吹。男は
少年が年に似合わないような苦い表情で、苑紫を手で追い
「かしこまりました。……苑紫、下がりなさい」
山吹は女帝だというのに、さきほどからずっと少年に敬意を払っている。
その様子に、思わず目を
(いったい、どういう事なの? 苑紫様はどうしてこの子が見えないなんて言うの?)
知り合ったばかりだが、苑紫はまじめそうで
苑紫が出ていったのを確かめて、山吹がこちらに目を向けた。
「この方の姿も見えて声が聞こえるのは、特別な女性だけなの。────女帝か、皇族の血を引き、女帝となり得る資格を持った女性だけなのよ。この方が見えて声も聞こえるというのなら、あなたは
「……どうしてもお言葉の意味が理解できません。そもそもこちらの方はどなたですか?」
少年がふっと微笑んだ。見た目の
「僕は
(でもでもでも、苑紫様は彼が見えないみたいだったわ。主上も声は聞こえているけど、姿は見えないって
混乱している中で、少年が小さく息をついた。
「新しい女帝候補は、
「ば、馬鹿って……!」
「じゃあ、いまお前が置かれている
「……主上や、苑紫様があなたを見えないっていうのは、本当だと思います。二人の視線はあなたからそれているから。あなたが本当に竜神様だとしたら、姿が見えるわたしは……」
口にしてから、何度も首を横に
「でもまさか母さんが皇族だなんて。だって
「撫子は事情があって、子どもの
山吹が
「緋蝶、わたくしはここ何年かずっと体調が悪くて、最近は雫花帝の務めを果たすのに
「問題……ですか?」
「ええ。……この国で百年ほど前、長い日照りが起こった話は知っていますか?」
「はい。有名な話なので」
「百年ほど前、皇族の
さらりと口にした言葉に、少年……竜神がむっとした。
「それでは僕がただの女好きみたいだ」
「本当の事でしょう?
にっこり笑った山吹に、竜神が
「余計な事は言わないで、さっさと話を進めろ」
「はい。……でも姫はむざむざ生け贄になるつもりはなかったの」
初耳だった。話で聞く姫は、生け贄に名乗りを上げ、国を日照りから救った
「そうなんですか?」
「ええ。もちろん民や国を救いたいとは思っていたそうよ。だけど生け贄として身を
「取り引きって……いったいどんな?」
「
「何度言い直しても、悪口にしか聞こえないぞ」
竜神がふてくされた顔をした。
「あら、失礼しました。……そういうわけで、
竜神がゆっくりと立ち上がった。
「僕の願いは秘密だが、あいつの願いは教えてやろう。国が日照りで
竜神が何かを思い出すように遠い目になって、話を続けた。
「あいつは
竜神はそう言ったあとに、ふとこちらをじろじろと見つめて、ため息をついた。
「だが、今度の女帝候補はあいつに似ず、馬鹿なようだな。こいつでは、僕の願いは叶えられないぞ。山吹、さっそく女帝教育をしろ。僕の話についてこられるように知識をたたき込め」
話がどんどん進んでいくのに気づいて、
「待って待って、待ってください!」
片手を挙げると、竜神は
「わたしが皇族の血を引いているかもしれないというのは理解しました。でも、女帝候補なんてとっても無理です。わたしは国政の事も大内裏の事も何も知らないんです」
「そんな事はわかっている。だから
「花賢師?」
竜神がそんな事も知らないのかと言いたげな顔をした。
「雫花帝の為に作られた後宮と、
聞き慣れない言葉と、見聞きした事もない大内裏の話に、ついていくのがやっとだった。
竜神はこちらを気にした様子もなく、どんどん話し続けた。
「花蕾東宮を育てるのが、貴族達の中から選ばれた花賢師だ。彼らはそれぞれ得意な分野を持っている。雫花帝となる為の必要な知識を彼らから学べ」
竜神にそう命じられたが、混乱しつつ首を横に振った。
「花賢師……? その方達から女帝としての教えを
竜神が
「
山吹は
「親類にも女の子どもはいないから、いまのままでは
竜神が腕組みをした。
「もう一度言うが、お前にはこれから雫花帝として必要な教育を花賢師達から受けてもらう。お前が雫花帝としてふさわしいと僕が認めたら、お前は晴れて皇位を継ぐ」
「皇位を継ぐとか、女帝としての教えを授かるとか。何度も言いますが、そういう事はわたしには無理です。読み書きもやっとなんです。このまま帰らせてください」
頭を
「帰ってもいいぞ」
思わぬ言葉に、
「ただし、その場合お前の命はない」
「そんな
「僕は神だ。僕の姿を見て声を聞くという
あまりに堂々と言われたので、一瞬そうかと
「当然じゃないと思います。わたしは見たくて竜神様の姿を見ているわけではないので」
「いいや。僕は神だから、この
「さようでございます。竜神様」
にっこり笑った山吹を見て、思わず青ざめた。
「じゃあ、わたしは帰れないって事ですか?」
「だから帰りたければ帰れ。ただ、神の姿を見たという無礼を働いた罪で死ぬだけだ。打ち首がいいか?
あまりの事に
「……つまり、わたしは
「まあ、そうともいう。
「────嫌です」
そのひと言に、竜神の目つきが
「なんだと?」
神を相手に口にしてはいけない事だったかもしれない。それでも言わずにいられなかった。
「わたしには雫花帝なんて務まりません。いまからどんなに勉強したって、国を立派に治めたりできないと思います。そうなったら苦しむのは、この国に住む人達ではありませんか?」
つたなくても自分の思いを伝えたくて、必死になった。
「わたしのせいで
まっすぐに見つめると、竜神は楽しそうな表情になった。
「なるほど。僕に意見する気か? いい度胸だ」
「逆らうつもりはありません。ただ、そんな大役を背負えるだけの能力が、わたしにあるとは思えないだけです」
竜神がくっと口元をつり上げた。
『あの姫の血筋の女は、みんな度胸がいい……』
ふいに聞こえたのは、子どものものとは思えない低い声だった。まるで頭に直接
『
突然の言葉に目を見開いた。竜の姿におののきつつも、声を上げる。
「本当ですか? もしかして、居場所がわかるんですか?」
『ああ、わかる』
「では教えてください!」
『ただでは教えられぬ。……そうだな。竜神の
「そんな……!」
『一月後に花蕾東宮の位を授ける
たとえ命はないと言われても、断るつもりだった。雫花帝になって、国を治めるなんてとうてい無理な話だ。しかし竜神の言葉に、決心がぐらつく。
(竜神様はわたしの居場所と名前を知っていた。その力があれば兄さんがどこにいるのか本当にわかるのではないかしら。兄さんがいなくなって二年。探しているけど、
竜神に目を向けた。部屋いっぱいにとぐろを巻いた竜は、実体はないようで
(兄さんが帰って来ないのは、きっとあの時
考えていると、再び竜神の声が聞こえた。
『緋蝶よ。お前が花蕾東宮としての知識を習得したら〝雫花帝にとってもっとも必要な事は何か?〟を聞くぞ。私が納得する答えを考えておけ』
その言葉を残して、
「……竜神様は帰られたようね」
山吹の声にはっとして彼女を見つめた。
「緋蝶、最近雨が降らなくなった事に気づいている?」
ふいに問いかけられて、驚きつつも
「はい。働いていた屋敷に野菜を売りに来ていた農家の方が、雨が降らないせいで農作物の
山吹が辛そうに目を
「もう民にも
山吹は一つ息をついて、話を続けた。
「でも竜神様はあなたを連れて来ないからお
竜神の姿を思い出す。神の意志一つで、これだけの
「緋蝶、
山吹の表情が、ふいに
「突然の事で混乱していると思うわ。だけど、これだけは伝えておくわね。新たな雫花帝を
信じられないような話だったが、山吹は本気のようだ。
「竜神様は緋蝶を連れて来た
姿勢を正した山吹が頭を下げた。
「主上! 頭を上げてください。
「いいえ。……わたくしはもともと身体が弱くて、いまはもう雫花帝としての務めを果たせなくなってしまったの。子どもも男の子一人しか産めなかった。私がもっと
再び頭を下げた山吹に何と言葉をかけていいかわからない。一月と十日、雨が降らなかったせいで、農作物の収穫が半分になった。これがずっと続けば確かに国の存亡に
「……すみません。
断るつもりだった。女帝なんて重責を
しかし山吹の姿を見て、この国の未来の
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