第八章
第八章
その日、ものすごい大きな台風が日本にやってくるとして、テレビでは、特別警報が出る前に、早く避難するようにとか、大災害に備えて、食料などを準備しておくようにとか、そういうことをまるであおるかのように報道していた。そんなことをいっても、たぶん、こっちには来ないだろうと、ほとんどの人は、のんきに買い物したり、食事をしたりしていた。
博たちの住んでいる町も、台風が直撃するという情報が入っていたが、みんな、今回の台風も、そんなに大したことはないと思って、避難をしようという気にはならないようだった。テレビでは、多くのアナウンサーが、早く避難をするようにと、盛んに報道していたけれど、みんなそのような危機意識は全くない様子だった。
そして、その日の午後。午前中は、まだ、静かな雨が降っている程度だったが、午後になると、いきなり空が夕方のように暗くなり、ザーッと土砂降りの雨が降ってきた。風も吹き始めた。ピューピューというよりは、ごうごうと呻るような風で、それが余計に雨を横殴りにさせ、傘を差せないほどの大雨になった。多くの店は、午後になって営業を取りやめ、病院も早めに閉院するなどの処置をとった。多くの人が、自宅に戻って、待機することになったが、自宅に居ても、爆風と言えるその風のせいで、雨戸を閉めても、外れてしまうか、頑丈なものは、バタバタと大きな音を立ててなるようになった。やがてテレビも、不要な外出は禁止とか、できるときはすぐに避難をと盛んに呼びかけるようになった。
終にその日の夕方、富士市内の放送アナウンスで、間延びしたおじさんの声でこんなことを呼びかける声が聞こえてきた。
「潤井川が決壊し、氾濫危険水域に達しました。川の付近にお住いの方は、直ちに避難してください。」
と、同時に、テレビでは静岡県に大雨特別警報が出たと報じた。これでさすがに、普通の人たちも危ないと思って、近くの学校とか、公民館に避難を開始したのであった。歩いていく人、クルマで行く人など多種多様で、道路は、ごった返していた。
そんななか、博は一人で家にいた。雨戸を閉めておけば大丈夫だと思っていたから、それだけしいて、テレビを眺めていた。博の父は、ちょうど長崎に出張に行っていて、特に影響の受ける場所には居なかった。母親も親戚の家に行っていて、親戚の家は高台にあったので、影響は受けなかった。家でテレビを見ていた博に、まだ使える電波で、母から電話がかかってきた。
「な、なんだよう。」
博が慌てて電話に出ると、
「博、すぐに小学校か中学校に避難しなさい。でないと、潤井川が氾濫する恐れがあるんだって。お母さんたちのほうは、たいしたことはないけれど、そっちは川のそばだから、困るでしょ!すぐに行きなさい!」
と、電話の奥から逼迫した声が聞こえてきた。一体何だと思って、博は、テレビのチャンネルを変えてみると、静岡県に大雨特別警報という字幕が出てきたので、びっくり仰天した。これはやばいなと思い、お母さんのいう通りにすることにした。たぶん、お母さんだって帰ってきたいと思うのだが、親戚のおばさんの看護で、直ぐにかえれないから電話してきたんだろう。
「わかった。避難所の小学校に着いたら、またラインでもして、連絡するから!」
「道中、気を付けていくのよ!若しかしたら冠水しているかもしれないから、足元に気を付けていきなさいね!」
「わかった!」
お母さんはそういうが、外を見ると、道路は冠水していなかった。よし、今だと思って、博は電話を切り、スマートフォンと充電器をもって、外に出た。食料をもっていくとか、そういうことは、考えられなかった。
外へ出ると、雨が瀧のように流れている。それでもまだ歩けそうだと思った。ふいに向かいの家を見ると、まだ明かりがついていた。玲さんは、まだ避難していないのだろうか。それなら、早く連れ出していかなければならないと思った。博は、雨でびしょぬれになった歩道橋を、傘を指さずに走った。もう風がすごくて、傘何て持っていたら、かえってアブナイ様な気がしてしまった。
歩道橋を走って、玲さんの家にたどり着くと、玄関の明かりもまだついていた。それでは、玲さんは、一日ここで過ごそうとしているのだろうか。そんな無茶なこと、できるはずがない。インターフォンを押しても、玲さんは反応しないのは知っている。だから、玄関のドアをじかにたたいたほうが早い。博はまるでドアをけ破るようなつもりで、玲さんの家のドアをたたいた。
「玲さん!玲さん!」
それでも反応はなかった。確かに声帯を失ったとなれば、声を持たないのは当然だ。よし、と思って、博は、ドアノブに手をかけた。すると、ドアは施錠していなかったようで、簡単に開いてしまった。玲さんはこんなに防災意識が乏しい人だったのかと思いながら、博は、勝手にその家に入ってしまう。
「玲さん!玲さん!ほら、特別警報が出たと言っているんですから、一緒に逃げましょう!」
と言って今の中に入った博だが、玲さんは、居間の中で何か書いているだけであった。
「そんな、書き物何ていいですから、すぐに逃げましょうよ!早くしないと、潤井川が氾濫危険水位を超えて、ここも流されてしまうかも知れないんですよ!」
玲さんは、指文字を動かした。
「そんなことしても無駄って、、、。そんな、無駄なことではありませんよ。自分の命を守ることがどうして無駄になるんですか。直ぐに逃げましょう。ここは危険だから!」
玲さんはまた指を動かしたが、
「大丈夫ですよ。俺一緒にいますから、玲さんの事は通訳しますよ!それでいいじゃないですか。玲さんは、俺の通訳通りに動いてくれればそれでいいんですよ!」
と博はそれをやめさせた。
「とにかくですね。ここでは、鉄砲水がやってくるかもしれないんです。だから、すぐに逃げましょう!安全のために。」
二人が、そうしゃべっている間にも、雨の音はどんどん強くなるばかりだった。やがてそのうち、天井に弦下がっている、電球がチカチカし始めたので、玲さんも覚悟を決めたらしい。博の顔を見てしっかりと頷いた。
「じゃあ、行きましょうね!」
博はそういった。玲さんは、また指文字で何か言ったが、博はそれには答えることができなかった。
二人はとにかく、家を飛び出して、急いで歩道橋を渡り、小学校のあるところまで走った。道路は冠水していなかったし、避難所に向かう車で、大渋滞になっていたから、歩いて行った方がかえって早く着くと思われた。博と玲さんは、クルマの間をかき分けるように走った。まるで空襲があって、炎から逃げ惑う人にそっくりだった。もう夜も暗くなりかけていたから、時折車にぶつかったこともあったが、その運転手に怒鳴られても追いかけられることはなかったし、車から出る事すらできないほど、道路は混雑していた。二人とも、マンホールの中に落ちることも、転ぶこともなく走って、やっと、避難所である小学校、むかしの言葉で言えば、防空壕のような場所へたどり着く。小学校は、確かに、高台の上にあるので川から離れていると言えば離れていた。
学校の正門にたどり着くと、警備員が、入り口で待機していた。ちょうどたどり着いた人たちがマイナンバーカードを持って、名前や所番地などを確認し、それが終われば避難所となる学校に入ることができるというシステムになっているらしい。なんだか、防空壕に行く前に、関所があるように見えた。
博は、急いで玲さんと一緒に、警備員のいるところに行った。
「あの、僕たち。」
「君たちは、どこから来たのかな?」
警備員は脅かすように言った。
「はい、中丸から来ました。小澤博と、中山玲です。」
博がそういうと、
「何か身分証明書を持っているかな?」
という警備員。博は、ここで初めて生徒手帳を忘れてきたことに気が付く。仕方なくスマートフォンに保存しておいた、保険証のコピーを提示した。それは、有料サイトに身分証明書認証が必要だったから、撮影しておいたのである。
「わかった。それでははいりなさい。」
と、警備員は変な顔をして、というよりひどく威張って、博を中へ入らせる。
「待ってください。この中山玲さんも一緒に入れてやってください。」
博は急いでそういった。玲さんが持っていた身分証、障碍者手帳を提示した。それを見て警備員は、こんなのが入ってこられたら困るという顔をする。
「一体言葉は通じるのかね?」
「はい。僕が通訳しますから、大丈夫です。」
そういう警備員に玲さんは申し訳なさそうに礼をする。博は玲さんをかばうように言った。
「そうか、それならこの人の言っていることを、間違いなく通訳することができるというんなら、入ってもいい。ただでさえ、皆怖がっているんだから、その中に障害者という足手まといが入ってきたら、大変迷惑だからね!」
そういう言い方をされるのは何か不公平だと博は思うのだが、とりあえず中に入らせてくれるというのだから、玲さんと二人で中に入った。
二人はとりあえず、学校の校舎の二階にある教室へ通される。一階は水が来たら危ないというので、二階以上に避難するように言われていたのだ。
中はいろんな人たちでごった返していた。身分にも経済力も関係なく、家を失った、あるいは失ってしまう可能性のある人たちが、いつ家に戻れるか、いつ水が引くかという事ばかり話していた。臨時で置かれていたテレビには、絶えず台風の事ばかり知らせる報道番組ばかり流れていた。そして、台風が、次々に日本の大都市を破壊し続ける映像を映し出して、そこから逃げようとしている人々の姿が映されていた。そして、それにおびえ、そとの雨におびえ、いつ自分たちも台風に殺されるのかをおびえている人々が、大量にいた。
「あ、中山玲だ!」
一人の小さな男の子が、玲さんのほうを見て、呟いた。
「ほう、アンタが噂の超能力のある、中山玲さんかい。」
その男の子の父親とみられる若い男性が、そういうことを言い出した。
「あんた、いわゆる、超能力あるんだったらよ、この水害を其れで止めることはできる?」
その男性は、言いがかりをつけるような言い方で、玲に言った。
玲が、急いで首を横に振ると、
「へえ、出来ねえってのか。それでは、たいしたことないじゃないか。それなら、一般的にいる、口の利けない奴らと同じようなもんじゃないかよ。それなら、ここにいると足手まといだからさ、ここじゃなくて他の避難所に行ってくれないか。俺たち、自分の事で背一杯だからよ!」
と、その男性は言った。まるでゆすりでもかけるようだった。すると、隣に座っていた女性が、
「あんたさ、そういう超能力でお金儲けてるんでしょ、だったら、それで、自分のことくらい何とかできるんでしょうよ。あたしたちは悪いけど、そういう能力は持ってないの。あたしたちは、あたしたちの事で精いっぱい。普通の人にできないことができる人は、とっとと出てって!」
という。その隣にいた男性も、
「普通の人助けて御金儲けたんなら、お前、自分のことはやれるよな。きっと、ご飯なんか食べなくても生きていけるとか、そういうことだってできるんだろうよ。お前、口は利けないが、それ以上の超能力があるんだからな。お前は、俺たちの受ける援助なんか、必要ないんだ!」
と乱暴な口調で言った。いつもなら、笑顔で挨拶してくれる近所の人たちなのに、災害時にはどうしてこういう風に敵対意識を持つんだろう。博は、憤りの中で、こぶしを握り締めた。
答えはすぐわかった。この人たちは、もし家を失った場合、出来るだけ多くの支援物資をもらいたい、という思いがあるのだ。それを、障害者という自分たちより劣った人間が、一緒に貰うというのが、悔しいというか、憎たらしい思いがあるんだろうと思う。それは、どんな人間でも必ず持っている。自分だけが、我先に誰よりも早く生き残りたいという希望だ。希望というのはそういう感情だ。その中に他人という文字は含まれない。
「なあ、早くほかへ移ってくれませんか。ここにはもう俺たちの食べるモノしかありません。あなたのような人に、与えるようなものは一切ありません。お願いします!」
もう外は夜になっていた。
「あたしたちの生活に助けてもらわなきゃ生活できないくせに、いざというときにおこぼれをもらおうとするんなんて、ひどいにもほどがあるわよ!」
二人の若い人たちはそういうことを言っている。それを見ていた子供たちは、大人のすることが面白いと感じたのだろうか。やがて、手をたたいてこうはやしはじめた。
「出てけ!出てけ!出てけ!出てけ!」
きっと子供たちは、テレビゲームも何もなくて、つまらない避難生活としか思っていないのだろう。多少感性のいい子供なら、家を失うという事の甚大さがわかると思われるが、戦争や災害を知らなすぎる今の子供たちは、そういうことを考える能力は退化している。
「あ、こいつ、死んじゃえばいいんだよ!そうすれば俺たち、助かるじゃん!」
ちょっと、体の大きな、子供達の中でリーダー的な子がそういった。博は図体ばかり大きくなりやがって!と怒鳴りたかったが、玲さんに止められてしまう。
「おーい、おもしろいじゃん!からかってやろうよ!ほら、みんなやってみよう、死ね!死ね!死ね!死ね!」
リーダー的な子がそういうと、子どもたちはみんなおもしろがって、手をたたき、はしゃぎ始めた。それを止めようとする大人は居なかった。大人たちも自分たちの家をもうすぐ失うという衝撃に耐えられず、外面では平静な顔しても、自分の不安をコントロールするだけで精いっぱいだったのだ。だから子どもたちは、さらに面白がって、手をたたきからかうのである。
「死ね!死ね!死ね!死ね!」
玲さんがくるり!と後ろを向いた。
そして、さっと学校の出口に向かって走りだす。
「ちょっと待ってください!どこに行くんですか!」
博はその後を追いかけたが、玲は振り向かず、黙って出て行った。その後ろから、邪魔がいなくなってくれてよかったと安堵する大人たちと、あはははいい気味!と言って馬鹿笑いする、子どもたちの声が聞こえてくるだけだった。
「ちょっと玲さん、どこに行くんですか!これだけ雨がすごくて、ほかに行ける避難所何てどこにもありませんよ!」
博は、学校の廊下を走っていく玲さんにそういうのだが、玲さんは何も言わなかった。
「落ち着いてください!多少の事だったら俺が話しますから、戻りましょう。それいいでしょう。ほかに安全な建物などどこにあるんですか!玲さん、落ち着いてください!」
博は玲さんの手を引っ張って止めるが、玲さんはやはり何も言わないで廊下を走り続ける。
「玲さん!」
博がそう叫ぶと、声がつぶれて咳が出た。
玲さんはようやく止まって、指文字で何か言った。それを見たとき、博は、玲さんがある覚悟を決めているという事を知って、驚きを隠せないが、同時に自分もあることを思いつく。
「わかりました。玲さんがそうするなら、俺も一緒に行きます!俺だって、どうせつまんない勉強をやらされて、どうせ試験のいい点を取れない人間は見せしめにして、学校の先生や無理解な親に怒鳴られるだけの人生しかありません。玲さんがそのつもりなら、一緒に俺もいかせてください!」
博はそういって、今度は自分が玲さんの手を引っ張って、外へ出た。
そとは、酷い雨だった。もう道路は冠水し始めている。風も強く吹いていて、いくつかの屋根瓦が道路に落ちてくるのが何とか見えた。街路樹は倒れており、店の看板も、テレビのアンテナも、道路になぎ倒されている。博は玲さんの手を引っ張って、倒れた店の看板の隙間を通り抜けて走った。玲さんにもし声を出すことができたなら、大声でどこに行こうと言って、抵抗するはずだろうが、玲さんは、それができないせいか何もできなかった。
前方からメリメリメリメリ!という音が聞こえてきた、街路樹が倒れてきたのだ。次に後方からもバキバキバキバキという音が聞こえてきた。電柱が倒れたのである。
「ああどうしよう!どこにも行けない!」
と、博は思わず叫んだが、街路樹が完全に地面をふさいでいるわけではなく、近くの住居のブロック塀に引っかかって、隙間ができているのが見えた。
「玲さん!イチかバチかやってみますから、ちゃんとついてきてくださいね!絶対手を離さないでね!」
博はそう叫んで、玲さんの手が自分の中にあるのを確認して、
「突撃開始!」
と金切り声で叫び、その木とブロック塀の間を通り抜けた。そのあとは、もうどこを走っているのかは分からず倒れた電柱や、電線を踏んづけて、靴もどこにやったかさっぱり忘れて、走りに走って走りぬけた。そして、玲さんと一緒に小さな山門をくぐって、石段を登っていく。唯一感じていることは、玲さんの手が自分の手の中にあること。それだけであった。
石段は、もし勘定できるのであったら、100段近くあった。それを上ると天国への階段という俗説があったが、それがまさしく天国への階段のように見えた。そして、最後の一段を上り終えると、真っ暗な中に、小さなお堂があるのが見える。幸いそのお堂は、普段は施錠されていたが、今日は強風のために壊れていて、ドアは開けっ放しだった。博は、その中に玲さんと一緒に飛び込み、開けっ放しになっていたお堂のドアを閉める。
「ここだったら、安全です。川もないし、山も近くに在りません。」
博はそういって、二人とも暫く呼吸を整えるために黙る。
ふと、後を振り向くと、一人の小さな観音像が、博たちを眺めていた。博はあまり宗教的なものはあまり好きではなかったが、この際、この観音様に助けを求めてもいいのではないかと思った。
「観音様、俺たちを守ってください。台風が去るまで、ここに居させてください。」
博は合掌し、そうつぶやいた。暗闇の中、玲さんも、両手を合わせているのが見えた。
その間にも、台風は横殴りの雨を観音堂に打ち付ける。ごうごうという大風も容赦なく観音堂を打ち負かす。しかし、博たちは、なぜか観音堂が揺れたとか、そういうことを感じたことはなかった。だんだん、雨や風が、観音堂に打ち付ける音が、小さくなってきた。そう、これは台風が上陸した証拠なのだ。上陸すると、台風は、精力が弱まり、雨や風も小さくなる。
観音堂に避難して何分経ったかわからないけど、雨の音も風の音も次第に小さくなっていった。
そして、雨の音は止まった。市の放送が、大雨特別警報は解除されたというアナウンスを流している。
「観音様、俺たちを助けてくれてありがとうございました。」
博も、玲さんも両手を合わせて、観音堂を後にした。
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