第七章

第七章

数日後。

由紀子が、夕方になって、もう自宅へ帰ろうかと思った時の事である。

また四畳半から、咳き込む声が聞こえてきた。由紀子が急いで四畳半に飛び込むと、水穂さんは横向きに寝て、激しく咳き込んでいた。枕に敷いた白いタオルが真っ赤に染まっている。

「水穂さん大丈夫?」

声をかけてもせき込んだままで何も反応もしない。

「水穂さんほらしっかり。」

急いで体を抱え起こし、吸い飲みをとって、薬を飲ませようとするが、咳き込んでいるせいで薬は口に入らなかった。由紀子がああどうしようかと考えていると、杉三もそれに気が付いてやってきた。

「おい、どうしたんだよ。またおかしくなったのか。」

「ええ、どうしよう。だって、最近はずっと安定していたのに。」

杉三が尋ねると、由紀子はそういった。確かにこの数週間、一度も発作を起こしたことはなかった。

「まあしょうがない。今まではそうかも知れないが、今はそうじゃないんだから、今の事だけ考えよう。とりあえず、、、。」

と、杉三はそういうが、ほかに何か考えられそうな手立ては、思いつかなかった。

「杉ちゃん、今日は日曜日で、お医者さんはお休みよ。」

「そうだっけねえ、救急車で運ばせるのは、絶対に避けたいので、、、。ほら、病院たらいまわしにされるとかわいそうだからさ。」

杉ちゃんの言う通り、水穂さんの持っている歴史的な事情のせいで、救急搬送するのは文字通り絶対に避けたかったのであった。

「あたし、沖田先生に連絡してみましょうか?」

「そうだねえ。でも、沖田先生が来る前に現状を癒さないと。よし、こうなったら、こうしよう。あの、口の利けない何とかという男に来てもらおうぜ。」

杉ちゃんの、決断は速かった。

「でも、中山さんも忙しいかも知れないし、、、。」

「バカ。そんなこと言ってられないよ。直ぐにやってもらおうぜ。こういう時は、直ぐに来てくれるだろうよ。よし、すぐ電話してきてもらおう。」

「杉ちゃん、無茶なこと言わないでよ。だって、電話では、連絡ができないでしょ。」

由紀子の言う通りなのだが、杉三はそれを無視して、

「うるさいなあ。とにかく、電話をしてみようぜ。こういう時は電話してみるのが一番早いんだ。いいから、とにかく電話してみてくれよ。」

と言い張るのだった。由紀子はきっと中山さんは、電話を敷いていないのではないかと反論しようと思ったが、電話というものはなくても、ラインという連絡手段があると思いつく。

「わかった。たぶん電話は持っていないと思うから、ラインで電話してみるね。」

と、由紀子は急いで玲のラインの無料通話機能を使って、電話してみた。日頃から電話を使う事のない人だから、たぶん、でないだろうなと思ったが、

「はい、何でしょうか。」

と、出てくれたのは博君の声だった。

「あ、あの、すぐに来てくれますか!水穂さんがまた発作を起こして、大変なんです!お願いします!」

由紀子が急いでそういうと、

「あ、はい!わかりました。じゃあ、ちょっと待ってください。急いでいきますから!」

という声がして、ラインの電話はぷつりと切れた。

「来てくれるって。びっくりした。信じられなかったわ。」

「まあいい、とにかく来てもらおう。このままにしておくのもかわいそうだから。」

杉三が、水穂さんの背中をさすりながら、そういった。その間にも水穂さんはずっとせき込んだままだった。

「ほんとに、来てくれるのかな。」

由紀子はそこが不安だった。由紀子も実はあの時の、岳南朝日新聞の記事を、読んでいたのである。由紀子は、その組織について調べたことはなかったが、でも、若しかしたら中山さんがあの宗教団体とつながっていたとのではないかという不安は、取れないわけではなかった。理由は、何だかよくわからない。でも、つながりがあったのではないかと直感的に思ってしまったのである。よくわからないけど、女の勘というのは、そういう事である。

数分して、ガラガラと製鉄所の戸が開いた。由紀子は急いで玄関先まで走っていく。

「こ、こんにちは。」

玄関先で、博と玲とがちょっと驚いた顔をして、そこに立っていた。

「あの、すみません!急に呼び出したりして!すぐにこっちに来てくれますか?」

由紀子は早く二人に入ってもらおうと、緊迫した顔でそういった。二人は、あ、はい分かりましたと

言って、直ぐに靴を脱いで、四畳半に向かう。

「こっちです!」

由紀子は、二人を四畳半に案内した。ふすまを開けると、杉ちゃんに背中をたたいてもらったり、さすってもらったりしながら、咳き込んでいる水穂さんの姿が見えた。

ふいに玲さんの右手が動いた。

「な、何を言っているんだよ。」

と、杉三が言うと、

「そこをどいてくれと言っています。」

と博が通訳した。

「そこをどく?」

杉ちゃんが、繰り返すと、玲は黙って頷いた。はいよ、と杉三が水穂さんから離れると、玲さんは、水穂さんの体を抱きかかえた。そして静かに背中をさすっていく。人が見てはいけないと天童先生は言っていたけれど、玲さんは、今回そういう事は一切言わなかった。

静かに玲さんが水穂さんの背中をなでていくと、だんだんに咳の音量が小さくなっていくのが、みんな確認できた。そう、一寸疑っていた、由紀子でさえも。

やがて、咳は止まって、水穂さんは静かに眠ってしまったのである。玲さんは、水穂さんの体をそっと布団に横たえてやり、かけ布団をかけてやった。

「ほえ、すげえ。よくやったな。こりゃ薬飲んでもだめかと思ったのに、こんなに簡単に解決してしまうとは、、、。」

杉三が、ぽかんとした顔でそういうことをいった。

「あたし、超能力が存在するってあんまり信用しては居なかったんですけど、本当にあるんですね。びっくりしてしまいました。」

由紀子もそういっている。玲さんは、また右手を動かした。二人が顔を見合わせると、博が、

「いいえ、超能力なんかじゃありませんよ。単にヒーリングのテクニックです。それだけだと思ってください。」

と、玲さんはいうのだった。

「ヒーリングのテクニックか。なんだかあんまり大したものじゃないってことか?それにしてはすごすぎるなあ。」

「あたしたちができない事をこうして解決してしまう訳だから、其れはすごいことだわ。超能力というより、魔法と言ったほうがいいのかもしれない、、、。」

杉ちゃんと由紀子はそういう事を言っていた。

「いいえ、魔法でも超能力でもありません。ただのテクニックに過ぎないんですから。」

玲さんは、指文字でそういっているが、杉ちゃんも由紀子も驚きを隠せない顔だった。

「あの、すみません。」

と、急に博がそういう事を言い出した。

「今の事、どこかの新聞社にでも投稿してもよろしいでしょうか?」

「は?」

と杉ちゃんが素っ頓狂な声を上げた。

「投稿って何をするんですか?」

由紀子が聞くと、

「はい。新聞社にですよ。今のヒーリングの事、ちゃんと書くんです。それで、あの悪質な宗教団体とは無関係で、効き目は其れなりにあるってことを、ちゃんと知らしめたいんです。」

と、博は言うのだった。それではやっぱり、この人は、花野井と関りがあったんだなと由紀子は思ってしまう。

「それでは、水穂さんの事を書くんですか?」

由紀子は急いでそう反論すると、

「いや、名前とか、そういう事は、伏せておきますから、どうしても、中山さんの事を、ちゃんと潔白だと知らしめたいんです。だって、こんなにすごいことができるんですから。水穂さんの事、助けてあげられたんですから!」

と、博はそういった。

「よしてください!水穂さんの事を書いたら、水穂さんの事がばれてしまう。そんなことをしたら、水穂さんもかわいそうすぎます!」

「由紀子さん、それはどういう事ですか。水穂さんの事がばれてしまうって、水穂さんも何かいけないことをしたんでしょうか!」

由紀子は急いで反論すると、博も負けじといい返した。すると、玲さんが、ふいに指をそっと動かす。

「何ですか、玲さん。」

すると玲は、静かに指文字を動かす。その中に、博も通訳できない単語があった。一応、指文字は平仮名五十音を片手の動きで表現するものであるから、それは間違いなく音を表しているのだが、その言葉がなんという単語を意味しているのかは、博は分からなかった。

玲さんはもう一回それを指で示した。

「おい、何のことを言っている。通訳してくれよ。」

と、杉三が、そうそそのかした。博はとりあえず何という単語をしゃべっているのか、わからないけど、通訳してみる。この単語はたったの二文字しかない。でもその二文字は本当に重い、重い文字。

「え。」

博は、その通りに通訳した

「た。」

となるけれど、それがどういう意味なのかは不詳である。

「それ、どういう意味なんですかね。」

「やめてください!どうか其れだけは、それだけは!それだけはやめてください。水穂さんにこれ以上、つらい思いはさせたくないのです!」

由紀子さんは涙を流してそう反論する。隣にいた杉ちゃんが、

「だから、それをばれるといけないので、やっぱり水穂さんの事は、新聞には書かないでやってくれるか。僕たちは、それを可哀そうに思ってこうして面倒見てやっているけどさ、外へ出てみろ、こんな穢い人間の世話をしようなんて、誰も思いつかないよ。みんな、そういう身分だというと、一目散に逃げていくんだよ。そういうもんさ。それは口の利けない、お前さんだって似たようなもんだよな。だから、新聞に公表するのはやめてもらえないか。頼むよ。」

杉ちゃんの言葉がよくわからなかった。玲さんはその言葉の意味を知っているのだろうが、博はその意味を知らなかった。でも、博は、今の雰囲気で、その言葉の意味を聞いてはいけないような気がした。よく、最近の若者は空気を読まずに、すぐに自己主張するので困るなという愚痴を年寄りたちが話すけれど、博は、そういう事は嫌いだった。だから、自己主張は、今はしないほうがいい。今ここでは黙っていたほうがいい。そう思った。

隣で由紀子さんが泣いているのが見える。彼女は、その単語について過剰に反応してしまう癖でもあるのだろうか。いや、そんなわけないよな。そういう特定の単語について、反応するようなことはないだろうし。

「そりゃそうだよな。由紀子さんの言う通りだと思う。僕も、水穂さんの事は作文には書いてもらいたくないし、投稿してもしてほしくないね。」

と、杉ちゃんも言っている。なんでみんなそういうことを言っているんだろうか。僕は、そんなに悪いことをしてしまっただろうか。いや、そんなことはない。僕は、そういう悪いことをしたつもりはない。だって、あの宗教団体が起こした風評被害から、玲さんは正当だと主張して何が悪いのだろうか。其れはいけないことなんだろうか?もし、それがいけないことだというのなら、おかしな話だ。

「みなさんどこか変ですよ。俺はただ、玲さんが正当であって。あのインチキな宗教団体と違うんだという事を書きたいだけなんです。その何が悪いというのでしょうか?」

「正統ね。だけどな、いくら正しいと伝えようとしても、身分とか貧困とかそういう事によって伝わることはほぼないと思っておくといいよ。そういう事ってな、世の中で一番無駄なだけだからな。」

博の反論に杉ちゃんがそう答えを出した。そんな、無駄何て、、、博は、そういわれてどういえばいいのかわからなくなってしまった。

「わかんないなら、答えを出すのはやめときな。答えなんて、どうせつまんないものだけだから。」

杉ちゃんはそういうことを言っている。それでは、杉ちゃんの言い分が正しければ、答えを探すなということか。いや、正当な話なら、みんな聞いてくれるはずだ。それはみんな同じなのではないか。だって、世の中って、いい人のほうが、悪い人よりはるかに多いんだから、、、。

「とにかく、水穂さん何とかしてくれてありがとうございました。これ、お礼にお納めください。」

由紀子さんが、また、茶封筒を玲さんに渡した。玲さんは受け取るのを渋っていたようだが、博は受け取った方がいいよと言った。多分、中に入っているのは紛れもなく、三千五百円だろうから。玲さんは、それを受け取って、領収書を書き、由紀子に手渡す。

「今日は突然呼び出してしまったりしてすみません。本当にありがとうございました。水穂さん、おかげさまで、やっと楽になってくれたみたいで、本当にありがとうございます。」

由紀子と杉ちゃんが二人に頭を下げ、お礼をした。ありがとうございましたと、二人はにこやかに笑っていたので、まだよかったのかと博も思った。

「それでは、僕たち、退出してもよろしいでしょうか?」

玲さんは指文字でそう示した。杉三達が顔を見合わせたので、急いで博は、退出しても良いかと言っていると通訳した。

「はい、とりあえずありがとうな。」

と、杉ちゃんが言った。由紀子も

「ありがとうございました。」

と礼をする。それでは、と、玲さんは博にもう帰ろうと促して、立ち上がったのであった。博は、あ、ああといいながらいそいで立ち上がる。

「ありがとうございました。本当に助かりました。」

二人のその言葉を聞きながら、玲さんと博は退出した。帰り道、その日は、バスを待っていると遅れてしまうといけないので、タクシーを使って移動したのであるが、帰りのタクシーの中、博は何も玲さんと言葉を交わさなかった。その代わり、玲さんの事を紹介する文書について、一生懸命考えていた。玲さんは、それを心配そうに眺めていたが、博は平気だった。そうしなければ、玲さんの価値が、落ちてしまうのではないかと思ったからだ。今は、インターネットとか、そういう物を使えば、新聞に投稿なんかしなくても、すぐに情報を発信できる。そこだけは便利な世の中であった。いろんなSNSもあるし、掲示板のようなものもあるし。それをするのに年齢制限や、表現の制限があるわけでも無いので。

玲さんの自宅前でタクシーは止まった。玲さんと別れて、博はすぐに歩道橋を渡って自宅に帰った。そして直ぐにタブレットを立ち上げる。ツイッターでは、140文字しか投稿できないので、それではあまりにも少なすぎる。フェイスブックのようなSNSでは個人情報が漏れやすいことで有名だし、検索エンジンに引っかかりにくい。個人情報はあまり公開することなく、比較的大量の作文が書けてしかも検索エンジンに引っかかりやすいものは無いか。博は探してみると、NOTEというものがあった。これであればだれでも気軽に作文などを投稿することができて、しかも検索エンジンに引っかかりやすいというのだ。そのサイトの説明をしっかり読んで、博は、投稿してみることにした。NOTEというサイトは、12歳以上の人でなければ使用できないことになっていたが、高校生の博には、そんなことはへっちゃらだった。寧ろ、年齢を詐称してもいいのではないかと思ったくらいだ。

急いでそのサイトにユーザー登録をし、アカウントを作ってしまうと、博は、急いで玲さんを弁明する作文を書き始めた。まず、玲さんという直伝靈氣を正確にならった人がいること、そしてそれは、患者さんの心を癒してくれるほどの、ちゃんとした治療法であること。水穂さんという名前は出さなにしても、重い病気で苦しんでいる人がいて、その人の咳の発作と止めることが出来る事、そして、花野井という、悪質な宗教団体とは無関係であること、を、書き込んだ。それら全部を書き込むと、結構な文字数になってしまったが、幸いNOTEというアプリには、文字数の制限はなかった。

最後に博はこう文書を書き終えた。

「世界には、悪質なヒーリングというモノも数多くありますが、こうして一生懸命ヒーリングをやっている方もおられます。どうか、その方たちの活動を、阻害するようなことはやめて下さい。お願いします。」

これで、どんな反応が返ってくるか、博は見てみたかった。

次の日、学校から帰ってきた博はタブレットを開いてノートにどれだけの反応があるか見てみることにした。

しかし、NOTEは何も反応はなかった。

その次の日も同じだった。

博がいくらNOTEに書き込んでも、それを支持する反応はない。

「なんで誰も、いいねもコメントもくれないのだろ。」

博は、おかしいなと思った。

みんな、余りにも無関心だ。

「玲さんの事を支持してくれる人は誰もいないのだろうか。」

博は、ちょっと新聞を読んでみた。まだ花野井の事件に関する記事で新聞は所狭しと埋まっていた。テレビをつけてみると、花野井の悪事の数々を報道番組は大げさすぎるほど大げさに報道している。確かにいろんな事件を起こしてきたのは悪いことかもしれないけれど、そんなに報道しなくてもいいのではないかと思ったくらいだ。そんな細かいことまで報道して何になるんだろう。何処のチャンネルも、そういう番組ばかりだった。こんなに報道が過熱しているのなら、確かに、博が書いたノートは、無意味であるといわれても仕方ないなと思われた。

皆報道をとおして情報を得るのだろう。でも、こんなに悪いところが数々報道されて、こういう風駒待ってしまう人もいるのではないだろうかと博は思う。それは、報道が善なのか悪なのかというよりも量が多すぎて処理しきれなくなり、ついには詰まってしまったのと同じような気がしてしまうのだった。

とにかく、これでは、いくらNOTEというサイトに反論を書いてもだめだなあ。それでは、何もできないじゃないかと博はがっかりとため息をつく。

どうして皆そう他人の悪いことばかり報道するのが好きなんだろう。

そうでなくて、被害を少しでも小さくするのが報道というものではないかと、博は、今の世の中に対して、憤りを覚えてしまったのだった。



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