第四章

第四章

その数日後のことであった。

伊能蘭は、ちょっと用事があって、隣の沼津市まで出かけていた。用と言っても大したようではなく、すぐに済ませて、富士駅行きの電車に乗った。

電車は空いていた。どうせ富士を走る電車なんて、ただの田舎電車で、大してお客さんも乗っていないのだ。それだけははっきりしている。まあいつも通りか何て考えて、蘭は電車に乗っていた。暫くして、車内アナウンスが流れて、富士に到着した事に気が付く。駅員さんにお願いして、電車から降ろしてもらい、そそくさと、富士駅のホームへ出た。そして、駅員さんにお礼をいい、後は車いすを動かして、富士駅の外へ出る。

用事が済んだのが、矢鱈早かったのだろうか。まだ、お昼前に富士駅に到着していた。駅前の商店街は、狭い店ばかりなのであまり好きではなかった。たぶん、家に帰っても、アリスから、邪魔だから、一寸外へ出ててとか、言われるんだろう。助産師の仕事をしていると、営業時間は何時から何時とか、そういう規則正しい営業は出来なくなるのは、蘭も知っていた。

しかたない。バラ公園で時間をつぶすか。そうするしかほかにないなと蘭は思って、バラ公園に行くことにした。確かバラ公園にはカフェがあって、そこには、食べるモノもあるし、少なくとも、商店街にあるカフェよりも、広い場所が用意されているということは知っていた。

とりあえず、駅から、バラ公園のほうへ移動していった。バラ公園は、車いすで数分。直ぐにたどり着ける。

直ぐにバラ公園の正門から中に入った。何かしら季節の花が楽しいめるようになっているとはいっても、この時期に咲く花と言ったら、椿くらいだった。あちらこちらに椿が植えられているが、蘭は椿という花がすきではなかった。なんだか、花ごと落っこちるので、縁起が悪いように見えるので。

確か、カフェは、バラ公園の一番奥にあったなと思いながら、蘭は、公園の中を移動する。

バラ公園は人通りの少ない公園でもあった。というのも、近隣に遊園地ができてしまったので、利用者が激減しているのである。来ているのは年寄りと、ちょっと事情があって遊園地に行けない人位なもんだろう。そういう訳だから、このバラ公園にいる人の半数ぐらいは障害者であることが多かった。

「ほら、見て。花が咲いてる。」

暫く公園の中を移動していると、あれ、聞き覚えのある声がする。誰の声だと思ったら、あれれ、由紀子さんの声ではないか?

「赤い椿よ。きれいねえ。もうちょっとしたら、水仙とかエリカの花が見られるわ。」

そう言って、ガラガラという音も聞こえてきた。誰かが、手押し車でも押しているような、しずかな音。

前方から、大きなリアカーのような形をした、手押し車が現れた。手押し車というより、寝たきりの人間を運ぶ寝台車とおなじくらいの大きさだった。分厚い板を箱状にして作ったもので、四つ、木製の車輪がついている。まるで牛車のような木製の軛に手をかけて、由紀子さんがそれを押しているのだった。

そして、その箱のような部分に乗っている人物は、、、?

「おお!水穂じゃないか!」

蘭は思わず声を上げた。それに乗っているのは、間違いなく水穂さんだったのである。

「よかったよかった。お前、やっと外へ出られるようになったのか!」

手押し車は蘭の前で止まった。

「ええ、まだ短時間なんですけどね。少しだけ、散歩に出たいって、水穂さんがいうものだから。」

「お前やっと、そういう事いうようになってきたのか!杉ちゃんの話ではもうだめだとか聞いたけど!良かった。本当に良かったよ。この調子で、元気になってくれ、頼むから。」

由紀子がそういうと、もし、蘭が車いすでなかったら、もう飛び上がって水穂を抱きしめるようなつもりで、蘭は喜びを表した。

「まあ、でも短時間ですよ。三十分したら、もう帰るのよ。少しずつ慣らすんだって、言われているからね。」

「少しずつって誰にそんなこと言われてるの?」

蘭がそう突っ込むと、由紀子はまずいことをいった顔をした。同時に水穂さんがかるく咳をする。由紀子は急いで彼にタオルを手渡した。いつも通りに、水穂がせき込みながら、口元をタオルで拭いた。でも、なぜか、タオルは白いままで、赤くはならなかった。

「おい!どういうことだ!お前、今までとはぜんぜん違うじゃないか。今までは必ず咳き込んだら血が出て大変だったのに!」

蘭は驚きを隠せない。

「何かあたらしい薬でも試したのか?それが劇的に効いたとか、、、?」

「違うよ。お前は、本当にうるさいな。」

水穂は、由紀子にタオルを返しながら、ちょっと煩わしそうに言った。

「いや、教えてくれ。お前がそんな風に外を散歩するなんて、ほんとあり得ない話だと思っていたから!何か新しい薬を試したんだな!それは何という薬で、どういうときに使うんだよ!」

「蘭もおかしいな。蘭が病んでいるわけじゃないんだから、そんな事知らなくてもいいんじゃないの。本当に余分なことばっかりして。」

蘭は、まだ興奮したまま、水穂に言った。水穂はそう答えてまた咳き込んでしまう。

「いや、余分な事じゃないよ。お前と同じ病気の人が、それを知ったら喜ぶよ。だから教えてくれ!

頼むから!」

全く蘭も困ったものだ。そういう時はすぐに興奮して、ワーワー騒ぎ立てる癖があるのだ。そして知らなくてもいい情報まで知ろうとしてしまう。まあ理論的に言えば、水穂の言い分のほうが正しいが、そうはいかなくなってしまうのが蘭だった。

「蘭さん、薬なんか使ってないわ。ある人が、超能力みたいなもので、状態を良くしてくれたのよ。」

由紀子が、蘭の興奮ぶりに圧倒されて、ちょっと弱気になってそういった。水穂は言わなくてもいいじゃないという顔をしたが、咳に邪魔されて、それは言えなかった。

「超能力?なんだそれ?そういう物に頼ると、お前、おかしくなってしまうぞ。それよりも、なにか医療を受けたほうがいいんじゃないの?」

蘭は心配そうに水穂の顔を見た。確かにせき込んではいたが、タオルは、いつまでも白いままだ。

「どういうことだ!お前若しかしたら、新宗教にでもだまされたか!」

「まあ、違うわ!先生はそういうものとは一切関係ないって、そういったわよ!」

由紀子も、蘭に言い返した。蘭は、水穂が持っているタオルをしっかり観察する。

「でも、お前、それが出ないってことはよくなっていることだよな、、、。」

蘭は、もう一度、タオルを見つめた。

「一体どういう事なんだよ。誰が水穂をここまでよくしてくれたんだよ、、、。」

「蘭さん、本当に、心配のしすぎね。あのね、中山先生っていう、直伝靈氣の先生が、水穂さんに施術して楽にしてくれたの。蘭さんに言うと、すぐにそんなものはやめろとか、そういうことを言うから、なかなか言えなかったのだけど。」

確かに、蘭が、そういう物を嫌う性格であることは、由紀子も水穂もよく知っている。またそんなモノはやめろという、言葉が返ってくるはずだと予測したが、蘭の口から出たのはこんな言葉だった。

「れいきか、、、。そうだよな。だってお前、何をやったって良くならなかったもんな。若しかしたら、お前を治すのは、そういう物でないとだめじゃないかって、前々から思ってたんだよ。」

「あら、蘭さんがそんな事いうなんて、、、。」

由紀子は、思わずそういうことをいった。

「でも、お前、良かったな。こうして散歩にも出てくれて、本当に良かったよ。僕、何か目からうろこ落ちたわ。それよりさ、その直伝靈氣の先生ってのは、どんな人物で何処に住んでいるんだ?」

ああ、また余計なことをいう。と由紀子は思った。

「ちょっと僕の方から、お礼を差し上げたいが、それでもいいだろうか?」

「うるさいな、お前。本当に余分なことばっかりするんだから。」

水穂にちょっと強く言われて、蘭は、ちょっと頭を垂れた。でも、すぐに立ち直って、

「でも、その施術者は、中山というんだな?」

蘭はそう聞いた。

「そうよ、でも蘭さん、電話してお礼をすることは、やめて頂戴ね。中山先生、指文字と筆談でないと、言葉が交わせないのよ。」

由紀子がそういうと、蘭はなるほどという顔をした。

「そうか、そういう訳アリの人だったのか。それなら、うちに来てくれるお客さんを癒してもらえないかな?原因不明の症状があるが、医学的に言ったら、全く正常というお客さんは僕のところには多いのでね。それにどうしても立ち向かっていかなきゃいけないから、青龍とか、観音様のようなものに頼らなきゃいけないので、彫ってほしいという人が本当に多いんだよ。」

「もう蘭さん。悪いけど、あたしは連絡係じゃないわよ。そういう事は、蘭さんが自分でやってよ。」

蘭がまた変な話を始めたので、由紀子は嫌そうに言った。

「どうやって連絡を取ったらいいんだ。電話ができないのなら、、、。」

「だったら、ツイッターで検索してみればいいでしょ。あたしたちもツイッターで知ったのよ。ツイッターで中山と検索すれば出るわ。」

由紀子がそういうと、蘭は、

「なるほど!そういう事か、有難う!」

と直ぐに車いすのポケットからタブレットを取り出して、ツイッターで調べ始めた。

「おいおい蘭。調べるんだったら、こんなところではなくて、どこか建物の中でしなよ。」

水穂に言われて蘭はそうだったっけねと考え直す。

「わかったよ。またこうして、公園でお前の顔を見せてくれよな。」

そういう蘭だが、水穂は、答えなかった。答えの代わりに咳が出て、由紀子がもう帰ろうかと水穂

に促した。

「ごめんなさいね蘭さん。もうこれで我慢して。水穂さん、連れて帰らなくちゃいけないから。」

由紀子は、そういって、手押し車の軛に手をかける。

「あ、ああ、すまん。また来てくれよ!頼むよ!」

そういう欄を無視して、由紀子は手押し車を引っ張って、製鉄所に戻っていってしまった。蘭は、あーあ、もっとお話ししてみたかったのにな、と思いながら、目的のカフェに行った。


その日も、博は玲の家で、また打ち合わせというものをやっていた。最近は学校から帰ってきたら、すぐに玲の家に寄っていくのが日課になっている。学校での勉強より、玲さんの通訳として、一緒に行動する方が、よほど自分にとっていい行事になっていた。

「この間の人、良かったな。すごく僕たちの事、信頼してくれていた様だね。」

博は、玲に指文字でそういった。水穂さんの事はまだ覚えている。あんなにきれいな人が、こんな近くにいたなんて信じられないほど、水穂さんはきれいな人だった。

「あれから、もう三回くらい施術に行ってるよね。行くたびにすごく喜んでくれて。次は、来週の土曜だったね。忘れないようにしなきゃ。」

博は、タブレットの手帳アプリを開き、予定を確認した。

手帳アプリを閉じたとき、タブレットから鳥の声が聞こえて来た。

「あ、誰だろう。」

慌てて、メールアプリを開き、受信箱を確認してみると、

「すごい!一気に二つも依頼が来てる!何々、一人目の方は、介護で肩こりがひどいので、それを何とかしてくれか。そして、二人目の方は、足を痛めてしまったという、、、。それに、二人とも、明後日やってくれと。ちょっと無理なお願いかな?」

博がいう様に、メールは二通一緒に入っていた。明後日は平日だった。玲もタブレットを取って、メールの内容を確認し、

「吉原と今泉では、比較的近いですね。」

と、指文字で示した。

「それでは、午前中に今泉に行って、午後に吉原に行くようにしましょうか?」

「うん、そうしましょう。俺、バスがどれくらいあるか調べてみます。もしかしたら、カフェかどこかで待たなくちゃいけないかもしれないんで。ほら、一時間に一本とか、二本くらいしかバスってないから。」

二人は、指文字を使って、そんな会話をした。音声が何も聞こえてこないのに、会話が行われているというのは、なんだか不思議なものであった。

「でも、あんまり依頼が殺到すると、博さんも学校が。」

玲は心配そうに言ったが、

「いや、俺、学校よりも、、通訳していたほうがずっと楽なんで。」

と、博はにこやかに笑った。

「それに、一日か二日欠席したって、何も変わりせんよ。玲さんは、だって俺の通訳がないと、クライエントさんと話が通じないでしょう。筆談ノートを大量に買うのも、なんだかお金がもったいないし。」

玲はそれ以上いわなかった。

「じゃあ、そうしましょうか。明後日、バス停まで行きましょう。」

博は其れで決行してしまうことにした。

さて、その明後日。

博と玲はバスに乗って、今泉に行った。その人の家は、バス停からすぐのところにあった。大して

大きなわけではないが、普通の一戸建てで、普通に暮らしているのかなと思われたが、ところどころ掃除が行き届いていないところがあり、やっぱり病んでいるのかなと思われる家だった。

博と玲がインターフォンを押すと、やってきたのは、中年のおばさんで、ちょっと疲れているような雰囲気がある人だった。

二人は、すぐに居間に通される。

玲が博の通訳に頼りながら、何について悩んでいるのか聞くと、

「ええ、認知症の母を介護しているのですが、最近、通っている施設から、文句を言われることが多くて困っています。」

と、おばさんは、二人に困っていることを話し始めた。肩こりがするのはもちろんなのだが、それよりも、悩んでいることを聞いてほしいという意味で、二人を呼び出したのだろう。二人は、おばさんの話を長々と聞いた。博は、まだ介護というのは縁がないと思っていたけれど、このおばさんのお母さんのように、突然夫をなくし、そのショックで認知症を発症してしまったというのはあり得る話だなと思った。もう元にもどることはないが、出来る事なら、もう一度お母さんと呼べるようになりたいと、おばさんは泣く泣く話した。二時間近く、おばさんの話を聞いたあと、玲が、おばさんの肩に手を触れ、肩こりの痛みを和らげた。それが終わるとおばさんは、少し母と向き合ってみようという気になれましたといい、二人に謝礼だけではなく、趣味で作ったという、カップケーキまでくれた。

次の家は、吉原にある家だ。この家は一戸建てではなく、小さな集合住宅であった。依頼をしてきたのは、一人で暮らしている、若いお姉さんで、ある日通勤している時に、駅の階段から滑り落ちてしまったという。確かに彼女の右足には、包帯が巻かれていた。一見すると大して大けがではなさそうだが、非常に激烈な痛みがあるという。特に会社で仕事をしていると、どうしても上司から、若いくせに何をしているんだと、無理解な嫌味をいわれるので、若いという事は大損であると、彼女は言っていた。慰めてくれるひともいないから、自分で癒していくしかない。でも、その方法もよくわからないので、相談したいと彼女は言っていた。それを話してもらった後、玲はお姉さんの包帯で巻かれた足に触れる。それを数分間やると、なぜかお姉さんは痛みが取れたといった。これでやっと、痛みから解放されたので、また元気に会社にいけます。とお姉さんは、にこやかに言って、二人に、ほんのささやかなお礼と、会社で作っているという、手すきのメモ用紙をそれぞれにくれた。


「すごいもの貰ったじゃないですか。こんないいものたくさんもらっちゃって。うれしいですね。」

帰りのバスの中で、博は、もらったものを見ながら、玲と顔を合わせてにこやかに言ったのである。

「大したことじゃありませんよ。」

玲の指文字はそんなことを言っていた。

「全く、そんなこと言わないでください。玲さんは十分すごいことやっていますよ。ああして二人の人を、癒してあげる事だって、出来るんじゃないですか。其れでやれるんですからすごいですよ。いいなあ、俺も、そうやって何でもやってあげられる人になりたい。」

「そんなことないですよ。」

玲は、指文字でそんなことをいった。

「いいなあ。俺にもそういう超能力が使えたら、俺、何でもやれちゃうんじゃないかな。俺改めて、なんだか玲さんに直伝靈氣を習いたい気がします。」

其れは悪気はなく、本気でそういっただけなのだが、玲は、ちょっと悲しそうな顔をした。

「どうしてそんな悲しそうな顔をするんです?俺はただ中山さんに習いたいと思っただけですよ。」

玲は、黙って首を振った。

「だって、玲さんはいろんな人を其れで助けられるじゃありませんか。それ、うれしくないんですか。それだって、素晴らしいことじゃないんですか?それを俺が習ってはいけないのでしょうか?」

博が思わずそういうと、

「いいえ、其れはしないほうがいいですよ。習ってもそんなことばっかりですから。」

玲は、しずかに指文字を動かした。

「でも今だって、ちゃんと他人を助けてる。」

博がもう一回言うと、

「いいえ、助けているのではなくて、こういう特殊なところで生きている人間を理解してくれる人たちの中で、生きているんですよ。」

玲は、そう指文字で示した。

「よ、よくわからないなあ。だって、玲さん、水穂さんを助けてくれたし、今日だって、ほかの人たちを二人も助けることができたじゃないですか。それ、何もうれしいと思わなかったんですか?」

博がそういうと、玲は黙って首を横に振った。

「いいえ、こういう人は役に立たないほうが、平和だという事ですから。博さんも学校さぼらないで、シッカリ勉強してくださいね。」

玲さんにそんなことをいわれるなんて、博はちょっとがっかりしてしまった。そんなこと、一番いわれたくないセリフだったのに。

それでは、玲さんは、自分のしていることに誇りというか、素晴らしさは感じていないという事だろうか。

其れでは、何だか、自分を卑下しすぎているような気がする。

「どうも変ですよ。玲さんにとって、この仕事は天職みたいなものだと思うけど、違うのかな?」

そうこうしているうちに、車内アナウンスが鳴った。富士駅にバスが到着したのだ。








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