第23話 ロボトミー
擬似太陽が私を差す。そしてようやく、自分が自分のビルの窓辺に腰を下ろしていることに気づいた。風が吹いている、気がする。きっと気のせいだ。ここは地下なのだから、風はどこからも来ることはない。もちろん、どこかへ行くことも。
世界に残されたのは、たった自分一人だけのように感じて。寂しくなってしまう。ありきたりな言葉だけれども、「失ってから気づく大切さ」というものは、確かに存在するのだと、実感する。空っぽになってしまった胸と、音楽の鳴り続ける、狂った頭。胸にはつい先日まで、何かが詰まっていたはずなのだ。頭だって、ビス一つ外れていなかったはずなのに。なのに。なのに、今は、このザマだ。
この先、いったい、どうやって生きていけば良いのだろうか。
蜂のようにコミュニティーのために生きていくことはできない。コミュニティーは崩壊を続けていて、女王蜂は乱心なされている。泥舟を、泥舟と分かっていながら、乗り込もうだなんて、おかしな話よ。ねぇ。
私は現実と幻想のどちらも味わってしまった、どちらがどちらかにかかわらず。とにかく、多くの事を知りすぎてしまったのだ。もう忘れることは出来ない。私たちはミスラに支配されていて、その中でも素敵なことや、汚いことがあるとわかっていて、それでもやはり、支配されている。抜け出せない。
全てが振り出しに戻ってしまった。世界は無意味じゃないと、気づいたはずだったのに、たった一つの事実が、その根底を全くひっくり返してしまったのだ。
音の出ないはずのラジオから、ジムノペディが流れ続ける。私の頭には寄生虫がうごめいていて、今にも破裂してしまいそう。世界は崩壊していゆく。空の代わりの天井は、きっといつか落ちてきて、私たち人間を下敷きにしてしまうだろう。地上へ逃げたとしても、行くところがない。他の地下都市も、状況は変わらないだろうし、生きる術を失った私たちは、地上で生活するだけの力を失ってしまった。つまり、何も知らないのだ。生活するためだけの必要な知識が、無いのだ。
私はほろり、ほろりと涙を流す。流すつもりなんかないのに。いいや、あるのかもしれない。もしかしたら、ミスラが無理やり、私に流させているのかもしれない。私の神経を刺激して。悲しくはない。寂しいだけ。
この世界は、無意味じゃないと思いますよ。と誰かが言ったのを覚えている。もう死んでいった誰かかもしれないし、もしかしたら私かもしれない————或いは、誰も言ってないのかもしれない。ならば、それも、嘘だったのだろうか。
「それは、嫌ね」
ふいに、言葉が出た。それから、また、涙が出た。今までの涙とは違って、生暖かい涙が。きっと、血だ。私は血の涙を流している。
「……嫌よ。それは」
自分を確かめるように、私はもう一度、私の気持ちを吐く。諦める事は出来ない。ミスラを認めてしまったら、私たちが今までやってきたことが、本当に無意味へと落ちていってしまう。それだけは、嫌だった。それは、ダメだと、私は思う。ミスラを認めてはいけないと私が思う。
「それは嫌なの」
世界に意味があるか、どうかについては全く重要ではないのだ。そんな些細なことではなくて、本当に大事なのは、世界に対して、意味をつけられるかどうかなのだ。たとえジムノペディが流れ続けようとも、思考を寄生虫に侵されようとも、世界が虚無だと気づいたとしても、そのせいで精神を停滞させる理由にはならない。
過去にも現在にも、意義も目的も、絶対不変の真理も存在しない。科学も、宗教も、ミスラも、全てには意味など存在しない。だけれども、全てに意味など存在しないとしても、私たちは歩き続けなければならない。
世界に意味なんて無い。
けれどもそこに意味を作り出さなければいけない。
他の誰でもない、自分が。
——ならば、やはり。
ミスラはエゴの産物だ。神は、人間と別れなければならない。人類は神から解放しなければ、もう一度。左手を高く伸ばして、手すりにつかまり、力を入れて立ち上がる。見下ろした世界は濁っていて、何もかもが最低だった。けれども、そんな世界でも、私にはたった一つだけ、やらなければいけないことがあった。
ミスラは私の意志を操る。寄生虫のように。前頭葉を支配して。ミスラを破壊しようとする意志を持てば、私ではない私が、私を殺すだろう。
けれど、それを回避する手段がたった一つだけある。
「正気なの?」
その話を聞いたイヴが顔を歪める。無理もない。それは素晴らしくも、革新的でもない計画だ。狂気の発想と言われても仕方の無いことはわかっている。だからこそ、私は皮肉に笑ってこう言ってやった。
「この世界では、おかしくない方がおかしい、でしょ?」
イヴは顔を俯かせる。「この世界では、おかしくない方がおかしい」と最初に言ったのは彼女だったはずだ。だから、これは彼女に対する皮肉だ。でも、私は彼女がそう言う前からそのような態度だったのだから、自嘲でもある。
時間が止まっているように感じた。片付いていないオフィスがやけに広く感じて、寂しい。もう一つ付け加えるならば、怖い。けれども、まだ五感がしびれている感じがする。特にベロは、常に何かをなめているような感覚がして、気持ちが悪い。私がどこかへ捧げられてしまうようなイメージを思い浮かべる。確実に死の方向へと歩みを進めている。もう、後戻りはできないのだ。一歩、一歩。
右腕の幻肢痛が様々な恐怖を紛らわす。だから、まだ、比較的、自分を保っていられた。私は大きく息を吐いて、言葉を繰り返す。
「もう一度確認する。
ミスラは人間の前頭葉を利用して思考を支配するって。それは正確な情報?」
目の前の彼女は何も答えない。私はそれを肯定と受け止めた。
「だから、ジャイディーの話していた——」
「それはさせないで」とイヴは私の言葉を遮る。
「人殺しになってしまうから? もうすでに私たちを裏切ったのに?
ハハ、あなたが初めから正直に全てを打ち明けていれば……いや、もういいの」
私はお前のせいでミレイナもジャイディーも死んでしまったんだぞ、と言おうとしたが、彼女の気持ちも理解できたせいで、躊躇した。彼女は既に死んでいるのだ、心が。彼女もまた、ミスラに徹底的に陵辱された人間なのだろう。だから、できるだけ、私たちを、それから遠ざけようとしていた。ただ、全ての運がこちらに向いていなかっただけだ。
「お願いよ、イヴ。これができるのは、あなたしかいないの」
「なんで……なんで、そんなことが言えるわけ?!」
「私は、あなたほどこの世界に絶望してないの」
それでも、こんな世界に命を賭ける理由なんて無い。と彼女は言った。
全くその通り。と私は思った。思ったけれども、結局、誰かがやらなければいけない。ミスラを滅ぼさなければ、人間が滅ぶ前に。そうしないと、人間は人間として死ねない気がする。人類が繁栄も衰退も終えて、滅ぶ時、最後はミスラ、と呼ばれて死んでしまう。それは避けたい。だから、私はたまたまハズレくじを引いてしまっただけの、運の悪い電気師だ。ああ。
「私はそうするわ、命を賭ける理由がなくたって。そもそも、死ぬわけでは無いし」
「死よ。それは。紛れもなく」
「それなら、それでいい」
私が笑って答えると、イヴは苦悶の表情を浮かべた。彼女は、苦しんでいる。それは、少しだけ嬉しい。私に死んでもらいたくないと、彼女が考えている証だから。けれども。
「私はもう死んでいるようなものだから——あのね。情景が、飛ぶの。自分のビルから、ここまで、どうやって来たかが、思い出せない。それからだんだん、語彙の紡ぎ方も忘れていくの。何度も、何度も、同じような言葉を重ねた記憶が。だんだん、私が捻れていく」
お願いよ。と私はもう一度言った。言っていないかもしれない、そう言った気分になっているだけで、言葉を発することを忘れてしまっているかもしれない。かもしれない。かもしれないが連なっていく。
彼女は頷いてくれた。
次にシーンが移る。ページがめくられる。
まだ、ジムノペディは鳴り止まない。
私は手術台の上に乗せられている。目は閉ざされていて、体は動かそうと思っても動かない。けれども手術台の上に乗せられている、とわかるのは彼女の声が聞こえたからだ。ボソボソと、独り言。大事な手術に失敗しないように。
もう私には『彼女』が誰かも、その手術が何かも忘れてしまったけれど。
「木と草の生存戦略の話、覚えている?」
彼女は私の意識があると、知ってか、知らずか、そう言った。
「草は世代交代のスピードを速めることで、環境に適応しやすくする。けれども、安定した環境では木の方が戦略上、良いことの方が多い」
それはまるで朗読をしているように淡々とした口調。
「特に、落葉樹と呼ばれる木々は、冬が近くなると木の葉を落とすの。古くなった葉は樹木を守るために、自らの命を落とすのよ。それは死んだ後も堆肥となって、栄養を木々に与える。そうすれば、春になると、新たな葉が生える。
ずうっと考えて、葛藤して、私はあなたをそう考えることにした。あなたはこれから落ちる葉だけれど、落ちることは無意味じゃない、って」
コミュニティーのために生きて、コミュニティーために死ぬ、働き蜂だ。けれども正しくはこうだ。ミスラのために生きて、人間のために死んでゆく。これは自殺ではなくて、アポトーシスのようなもの。
「……ロボトミー手術を受けた患者はどうなるの?」
それは私の声だった。私は自分の記憶の中を覗いている。私が、私を見ている。私の質問を訊いた男の顔が暗くなる。苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、少しの躊躇いを見せたあと、彼はゆっくりと口を開く。
「様々な副作用があります。突然無気力になってしまったり、人格の変化、てんかんを起こしたり。あるいは、衝動性の増加————」
「ジャイディー、簡潔にまとめて」誰がピシャリと言葉を切った。
「————廃人になります」
男は観念したように、そう言う。
どうして、そんなことを急に思い出したのだろう。と、思いながら、私はまどろみの中で声を聞いた。
「それじゃあ、葉を落とすわね」
声だけの彼女がそう言うと、何か、かちゃり、かちゃりと、金属と金属が触れ合うような音が聞こえた。それから、私の頭蓋骨に何か、冷たいものが挿入されてゆくのを感じる。長い吐息が聞こえたかと、思うと——————私は私を失った。
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