第22話 遅すぎた

 ゆっくりと悲しみをこめて、私は、自分の目の前に立つミレイナ・クルトの胸を拳銃で撃ち抜いた。


 彼女が驚きの顔で、私の方へと振り返る。白いシャツが血潮で赤く染まっていく。口をパクパクと金魚のように開けて、何かを話そうとしたが、音は何一つ聞こえない。戸惑いの表情の彼女を私はもう二、三度撃った。


 瞳が熱い。それから、蠢いている、何かが、私の眼球の中で。


 わからない。なぜ。殺している、私が、彼女を。私のやるべきことはなんだっけ。一度に多くのことが起きすぎて、私は私を見失う。見失って、倒れていた彼女を私はしばらく、ぼうっと、見ていた。

 犯されていく。凌辱されていく。精神が。瞳が熱い。抉り取ってしまいたくなるほどに。眼球の内側で、蟲が蠢いているのだ。のたうちまわっているのだ。カタツムリに寄生するレウコクロリディウムのように。


「あ……ああ! ああ!」


 気づいた時には全てが遅すぎた。

 もう、後戻りのできないところまで来てしまった。

 私は彼女を殺してしまった。自分の意思でミレイナを殺してしまった。

 世界は怠惰や無常ではなく、どうしようもないほどに、残酷であると、気付けなかった……ああ。私は、全てを間違えてしまったのだ。


 ジムノペディが流れ続けている。



 膝枕をされている。目を開けると、イヴが私を見下ろしている。


「ひどい顔をしているわ」


 イヴがそう言った。そう言った彼女の方も、ひどい顔をしている。ここまでにあったことを、よく思い出せない。今まで経験するべきだった全ての悲劇が、私たちに降り注いだような気分だった。笑いたい、けれど、涙しか出ない。

 私たちはイヴの死体安置所にいた。それまるで、洞窟だった。ミスラの監視から逃れるために、無理やりにでも用意したようで、小さなランタンの炎の灯りを覗いて、何一つ、この部屋には光源が存在しなかった。それからジメジメとしている。

 不快だ。けれども、そこならばまだ、私は私でいられる。


「……イヴ。あなたは私たちを騙したのね」

「騙すつもりではなかった。騙さざるをえなかった……」

「真実を知らなければ、私たちは幸せに死ねるから? あなたは自分の意思で私たちを騙したの? それともミスラに言わされていたの?」

「両方よ。私も、ミスラも同じ答えを持っていた。そこにある違いは悪意の有無だけ」


 彼女は苦虫を噛み潰したような顔をしてから、何も答えなかった。ああ、もう、私だって、どうでもいい。もう、何も無い。取り戻せない。悔しい。けれども、ああ。ああ。もう、ダメなのだ。死者は生き返らない。敵いっこ無い。

 ミスラは名前の通り神だった。ミスラは意思を持っている。それから、イヴの話のとおり、人の思考を操ることができる。前頭葉の刺激を利用して。具体的にどうするかは、わからないけれども、私は私の意思で、ミレイナを銃殺してしまった。


「前頭葉のチップなんて、必要なかったんでしょ?

 ただ、私たちを安心させるためだけに、<チャイルド>なんて造語を作り出して」

「ええ」そう言ってから少し溜めて、「そうよ」と脱力させるように言った。

「ダエーワという悪役も存在しないのね?」

「そういう『追わなければいけない存在』さえいれば、あなた達はミスラから意識を逸らす。ミスラに悪意を抱くことはない————つまり、天罰を受けずに済む」


 ミスラは自由に人間を操ることができる。きっと、そうせざるを得ないために造られたのだろう。人間を制御すれば、地下都市は完全な管理社会にすることができる。暴動を抑えることも、社会的不安も解消できる。明確な権力者の居た時代に、ミスラを利用して、人々を操作していたのだろう。そういう時代があったって、別に不思議では無い。だからこそ、人類は破滅の方向に動いているのだけれど。


「ミスラは人間の意思を、前頭葉の電気信号から感じ取ることができる。もちろん逆も——つまり、ミスラから人間の前頭葉へと電気信号を送ることで、擬似的に、人間の意思を操ることができる。理屈では、そういう風になっている」

「そんな生易しいものじゃないわよ」


 私は頭を抱える、自分の肌を確かめるように。私はまだ私なのだろうか。自分の内側がいまだに信じられない。私の意識の外側から、私の意識の内側を覗かれて、支配されているような、筆舌に尽くし難い、あの感覚は。


「意思を操るんじゃない。最初から、自分の意思なんてものはなかった。そう気付かされる。人間は、所詮、獣だ。機械だって。いや、もっと酷くて、矮小で、醜い——いいや。もう、わからないや」


 思考がまとまらない。これ以上考えることに、私は理由を見いだせない。今の自分の意識が、思考が、本当に私のものかどうか、わからなくなってしまった。もしかしたら、私の今までの人生はすべて、ミスラによって統制されていたものだったのかもしれない。


「全てを忘れて、何もなかったと、おとなしく。静かに。そうすれば、ミスラは私たちをやさしく見守ってくれる。危害を加えることはなく」


 彼女は私の目を見て、そう言った。目を逸せない。逸らす気力も失せている。

 私たちは罰を受けたのだ、神を殺そうとした人間が天罰を受けるように。神は人間の敵に成り得る、逆もまた然り。それはたとえ、人間が神を作ったとしても。


「全て、忘れてしまいなさい」

 イヴが優しく囁いた。

「私はあなたを許せない」

「……ええ、わかっている。けれども」


 それは最悪の目覚めだった。

 何もできない。擬似太陽な煌々と私を照らす。時間の感覚が狂いだす。ソファにぐったりと背中を押し付けて、コンクリートの壁を、ぼうっと、眺めているだけしかできない。時計は未だに壊れたままだ。時計の短針は三を指している。いつも、いつも、ずっと。狂いだす。世界がぐるりぐるりと廻り出す。私の意識がねじれていく。音の出ない筈の、壊れたラジオから例のジムノペディがノイズ混じりに流れ始める。音が飛んだり、落ちたり、コンクリートに反響したり。これを聞いているのは私なのか、ミスラなのか。これを利かしているのは私なのか、ミスラなのか。


「止めてくれ」


 幻肢痛に苛まれる。全ての音が不協和音に聞こえてくる。鎮静を唆す曲が、私の神経を尖らせ、痛みを与え、憔悴させる。消えてくれ。誰かラジオを止めてくれ。音のしない方へと、誘蛾灯に誘われる蟲のように。寄生虫に犯されたカタツムリのように、足を動かす。片腕を失ったせいでバランスを崩して、醜く前のめりに倒れてしまう。


「止めてよ」


 私は泣きながら、笑ってしまう。私が私を笑っている。渦巻いていく。私は逃げ出すように、ベランダの方へと向かって這い出す。青々とした空が清々しい。窓のクレセントに手をかける——いいや、それは、ダメだ。出来ない。もう、

 ジムノペディは流れたままだ。


「十九世紀、フランスの作曲家、エリック・サティのジムノペディは——」


 アイザキはそう言いかけて、これ、前も言ったような気がするな。と首を傾げながら頭を掻いた。愛想笑いをする彼の一方で、私は何も出来ずに彼をただただ眺めて居る。


「ジムノペディはさ。第一番から第三番までの三曲で構成されていて、それぞれに指示があるんだ——」


 知っている。それは前にも聞いたわよ。と言おうとしても、何も言葉が出てこない。悲壮感の溢れるピアノの音色が、流れ続けては止まらない。決して。


 ゆっくりと苦しみをもって

 ゆっくりと悲しみをこめて

 それから。ゆっくりと厳かに。


 もう十分苦しんだ。

 もう十分悲しんだ。


 あとは、厳かに。


 ゆっくりと、厳かに。


 ゆっくりと、厳かに。


 けれども、いったい、何を?

 その疑問について、誰も答えることはない。誰も話さない。時間は何にも関せず流れていくように、私の疑問は置いてけぼりのまま、私の周りの人間は、めいめいがめいめいの方向へと消えていってしまった。父母も、アイザキも、ジャイディーも、ミレイナも。


 ——私と外に出ませんか?


 と、死んだ彼女の声が聞こえる。もはや、現実と夢の区別も、私と私以外の区別も消えて無くなってしまいそうだった。もし、私を含めた、地下都市の住人の全てが、無自覚の中で、ミスラの命令のままに動いていたのだとしたら。自意識というものが、ミスラによって作られていたものだとしたら、世界の意味ってなんだろう。私たちは何のために生きていけばよいのだろうか。

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