第20話 瞳

 ミレイナ・クルト。私と、あなたが似ていると言われるのならば、あなたはきっと、私と同じ事を考える。


「あなたは諦めてない」


 私は彼女の目を見た。彼女は初めてそこで目を丸くした。まるで、思わぬ反撃を受けたかのように。ミレイナ・クルトが私をよく理解できる可能性があるのならば、私だって彼女を理解できるのだ。あなたと私はまるで点対称のような関係なのだ。立場は真逆だが、私とあなたは似ている。私が諦めていないのならば、彼女だって諦めていないはずだ。


「ええ」とミレイナ・クルトは笑うのをやめて、そう答える。そこには静謐さと諦観が空気となって漂っている。窓から差し込む疑似太陽の光に、私は目を細めた。光彩陸離たるきらめき。彼女の顔がそれに照らされて、やさしく——それでも、ゆっくりと悲しげな表情をしていた。


 私たちはよく似ている。その理由はわからない。たとえば、悲観主義的なものの見方、つまりは同じ世界の感じ取り方を採用していて、どちらも抗いがたい力に抑圧されている、という境遇は似ているかもしれない。ちょうど、呉越同舟という言葉がぴったり似合うのかもしれない。どこに属しているか、何者であるかは、まるで大風に吹かれ船が転覆するような、目の前の危機に比べれば些細なことなのだろう。あるいは、彼女と私が共有した悲しみ。失ってきた者たち。理由はどうだって良い。そこまで、重要では無いのだ。

 とにかく、よく似ているという事実だけは否定しがたい。今の私は。右腕を失ってしまった今の私は、そのことについて、受け入れなければならない。

「ミスラを、破壊します」とミレイナは息を吐くようにそう言って、笑った。


 私の人生を物語に例えるのならば、これは佳境に入っている、と思っている。先ほどのジムノペディに例えるならば、第三番に入ろうとしているところだ。これから大盛り上がりをするのだろう、クライマックスが訪れる。世界は炎に包まれていて、薬物でも飲み干したのでは無いか、というくらい明るい顔をして、踊り出し、ダンスホールの隅でオーバードースを起こす男女。


 何一つ、確かな答えは得られなかった。第二のダーエワがどこかで潜伏していて、こっそりと私たちを監視していたのだろうか。それとも、蔓延する狂気的な空気が、文字どおり誰かを狂わせてしまったのだろうか。あるいは、ミスラシステムという仕組みそのものが寿命を迎えて、人々の不都合なことを起こしていたのか。


 イヴはミスラが人を操ることも可能だと言っていた。ミレイナがミスラは地下都市に生きる全ての人間を監視しているといった。それぞれ、そうする理由には何一つ答える事のできなかった————けれども、今、そんなことはどうだってよい。幕を閉じなければならない。包丁を用いた殺人事件が多発しているから、この世の全ての包丁を炎で溶かして、使えなくしてしまえ、と言わんばかりの暴論だ。けれども、それ以外に方法は残されていなかった。私も、ミレイナも、今は亡きジャイディーも、私が名前を知らない数人の自警団メンバーも、ミスラを利用した殺人を防ぐために、努力はした。けれども、何一つ、実を結べていない。無意味に終わってしまったのだ。

 だから、もう、壊すしか無い。二度と、ミスラが人を殺めないために。


 ミスラは自警団役所の地下にある。と、ミレイナは私に話した。けれども今の私にしてみれば、それは逆ではないだろうか、と思う。ミスラは役所の地下にあるのではなく、ミスラの上に役所があるのだ。遠く昔にミスラを見つけた誰かが、その上に役所を建てると決めたに違い無い。もっと大きい視点で考えてみれば、地下都市の中にミスラがあるのではなく、ミスラのために作られた地下都市なのかもしれない。


 ——この世界がおかしいのは、この世界を作り上げた神様が狂っているかららしいわ。


 私は、誰かに言った一言を思い出す。もしかしたら、本当にそうなのかもしれない。何か、この世界に対して、とてつもないほど、大きな違和感を感じている——なぜ、ミスラは地下にあるのだろうか? 神は天上へ祀られる。にもかかわらず、なぜ地下の地下に彼女は在るのだろうか。まるで地下の地下が天だと、いうかのように。


 私はほぅ、と息をついた。その行動自体に意味はないのだけれど、そうしなければ、心は休まらない。自警団役所は常に誰かが中で作業を行っている。地下都市に生活する人々は、生まれてから一度も外に出た事がない人は多い。ゆえに、時間帯という概念が希薄なのだ。時間帯、という概念は外に出る電気師にしか通用しない概念といえる。もちろん、彼らにも時間という概念はある。この違いはつまり、三十分間とか、四日間、二年間といった、時間の定量的な把握であって、「今何時?」というような概念は存在しない。おそらく、電気師と自警団の中継役ぐらいだろう————おそらく、受付時間内、あるいは受付時間外というたった二つ。


 そういうわけだから、自警団たちは常に働き続ける。地下都市の治安を守るため、あるいは各々の人生を消費するために。そんな彼らからしたら、私たちは社会の破壊者だ。屠人が私の右腕を奪っていったように、私たちも社会からミスラを奪おうとしている。ミスラが何かもわからずに。


 役所の明かりが灯らないのは、ミスラによる情報の収集を妨害するためだ。と、私は改めて気づかされた。けれども、人々はそれに対した不便を持ってはいない。疑似太陽が窓から顔を覗かせて、私たちを照らす。光が強ければ強いほど、濃い影を落とす。私たちは、その濃い影に身を潜ませて、できるだけ誰にも見られないように、長い廊下や階段を歩き続ける。その間に、私と彼女は言葉一つ交わすことはなかった。だから、私は、彼女のビルで話したことをぼんやりと思い出していた。


「ミスラを破壊するって、どうやって?」


 その部屋はシーリングファンが回っていなかった。それは、この部屋に電気が通っていないからなのか、それとも天上から外れかかって、配線が見えているほど壊れてしまっているせいだからなのか、それは誰にもわからない。


 松葉杖を渡され、三十分ほど歩かされて、私はミレイナが普段から使用している部屋へと戻って来た。ここでなら、ミスラを介して盗聴されずに済む。この際だから白状してしまうけれども、そんなことを気にしなければ生きていけないなんて、気が狂ってしまいそうだ。けれども、それももうすぐ、終わりを迎える。


 生活感はうっすらとしか感じることができなかった。机と椅子、ベッド、数冊の本、山積みになっている紙束。配給で配られている石鹸。「あなた、本当にここで生活しているの?」と私は思わず質問すると、彼女は一瞥もせずに「ええ」とだけ答える。私はもう少し追求したかった、けれども、彼女の生活習慣やら、健康なんかを私が気にするのも変な話だと思い、素直に引き下がる。


「それで、ミスラを破壊するって、どうやって?」

「配線を数本切ってしまえばいい」

「……簡単に言うけれどね、あれほどの重要なマシンはリスクヘッジが為されている——つまり、数本切った程度じゃ、稼働にさほどの問題はないのよ」


 発電機を始めとする、人間の生死に関わる機械には予備の回路がいくつも備わっている。だからこそ、屠人が銅線を一本や二本盗んだとしても、私たちはいまだに地下都市で生活することができている。


「バケツいっぱいの海水を用意して、部屋に撒き散らすほうがいいと思うわ。そうすれば、海水が基盤にゴミが付着して、使えなくなると思う。さすがのミスラも、浸水については想定していないはずだし」

「誰にも見咎められずに、海水をどうやって運びこむつもりですか」


「それは」といったところで、私は言葉を詰まらせる。私は手を上げて、彼女の意見に賛同した。二本や三本切ったところで、ミスラは止まらないだろうけれど、二十本や三十本なら、話が変わってくるだろう。そういうことで、話に決着がつく。


「それは、思った以上にいい考えなのかもしれないわね」


 私は彼女の意見を認めた。そもそも、何本切ったところで、計画に支障はない。私たちが重要視しているのは、誰にも見咎められずにミスラへ近づき、それから誰にも見咎められずに姿を眩ますことだった。ミスラは表から秘匿されている存在ゆえ、地上の発電機のようにこまめなメンテナンスがされているわけではない。逃亡までの時間的余裕は十分あり、さっさと行方を眩ませてしまえば、誰にも咎められることはないだろう。


 いろいろ考えてみたが、ナイフ一本で十分だ。人間を殺す事に、大掛かりな仕掛けが必要無いように。何かの終わりとは、常に突然で、あっけなないものだと、私はアイザキやジャイディー、その他もろもろの死を見て、理解した。死というものは常に悲劇的というわけでも、絶望に満ちているわけでもなく——ただ、ただ、無情なのだ。ミレイナは私に一本のナイフを渡すと、私の目をじっと見た。


「……ねぇ、いつも思うんだけれど、私の目の中には風車でも回っているの?」

「いいえ、特には別に。ただ……」


 いつもの愛想のない様子から、少しだけ色がついたような答え方を彼女はした。本当にただの偶然なのだろうけれど、彼女のその行動に私はアイザキを思い出させた。彼もよく、私の瞳を見ていた。


「私の一番好きだった人は、私の瞳が好きらしいわ」


 ポツリ声に出す。声に出して、自分の間違いに気づく。正確に言えば、私の一番好きだった人の一番好きな行為が、それだったのかもしれない。私のことを一番好きな人が? わからない。今となっては自分の気持ちがわからない。確かめる術も失ってしまった。


 自分の誤りに気づいた時には、私はいろんなものを失いすぎていたのだ。

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