第19話 ワイン
「なんか、不気味な曲ね」
「ジムノペディっていうんだよ」
私が書類を部屋ごとに分けている間、アイザキはよく音楽を流していた。自警団の一部の人間が美術や芸術関係を管理している。インターネットが滅んでからは、物理的な記録媒体について議論が大きな問題となった。デジタル・メディアは長期的な保存に向かない。ありとあらゆる情報が物理化される時代を経て、前の世代が私たちに与えた答えは、媒体を過去に逆行させてゆくこと。壁画、石板、口承文学、そういったものは紀元前のものでさえも、消滅する事なく現在に残っている。音楽はレコード・プレイヤーと楽譜を採用した。紙媒体はしっかりと引き継ぎを行えば、レコードは正しく取り扱えば、理論上、永遠に保存する事ができる。
レコードがプレーヤーの上でぐるりぐるりと廻っている。アイザキのレコードは壊れていて、ノイズは混じっているし、一度流せば、誰かが止めるまで、ぐるりぐるりと廻り続けて、二度と止まる事はない。冗長なピアノの音は冗長なまま、何処かに留まることも、どこへ行き着くこともなく、流れて行く。
「気に入った?」
「トルコ行進曲よりはマシね」
数週間ほど前にアイザキが流した曲名を取り上げる。同じフレーズが繰り返され、私に焦燥感を与えるその曲を、彼は数時間延々と流していて、私はうんざりさせられたのだ。寂しげ、とか悲しげ、というよりも、もっと別の言葉が似合いそうなその曲について、彼は仕事の手を止めて講義を始めた。頼んでいないのだけれども、まあ、彼は一度話し始めたらなかなか止まらないし、私も目の前の書類を片付けるのにうんざりしていた頃だったから、私もペンを止めて、彼の話を聞いていた。
「十九世紀、フランスの作曲家、エリック・サティのジムノペディは第一番から第三番までの三曲で構成されていて、それぞれに指示があるんだ」
「指示?」
「そう。こういう気持ちで演奏してください、ってね。
第一番は『ゆっくりと苦しみをもって』
第二番は『ゆっくりと悲しみをこめて』
第三番は『ゆっくりと厳かに』」
「……イタいわね」
「ハハハ。イタい奴だと思うよ。僕もね」
私たちは笑った。それと同時に、私たちは笑われていたのかもしれない。私たちは私たちを笑って、私たちは私たちに笑っていたのかもしれない。それくらいに、その笑いは空虚だった。けれども、そんなことどうだっていいのだ。久しぶりに笑えたんだから。
ジムノペディが終わらない。
次に目を覚ました時、どうやら私はソファで眠っていたようだ。部屋の間取りに既視感を感じるも、馴染みのある場所ではない。ああ、ここはミレイナ・クルトのビルの一室か、と気づいた時、遠くでその、ミレイナ・クルトとイヴの声が聞こえてきた。けれども、私の居る部屋に入ってこようとする気配がない。
彼女たちが何を話しているのかはわからないけれど、こちらには聞きたいことが多くある。と、思いベッドから起き上がろうとした。けれどもたった一つの違和感が私のバランスを崩す。私は小さな悲鳴をあげて、そのまま床に激突してしまった。
悲鳴と激突の音を聞いたのか、ミレイナがこちらの部屋に入ってきた。彼女は私を見下している。いつ見ても冷たい表情をしている彼女だけれども、今日は一層冷たく感じた。ああ。私は全て失敗してしまったんだな、と悟った。
「何が、ありましたか?」
「こっちの台詞よ」
私はそう言って、左手で右肩を指差した。そこから伸びているはずの右腕は消えていた。どうりで不格好にソファーから転がり落ちてしまうわけだ。私はソファーにしがみついて、緩慢に立ち上がる。けれども、バランスが取れない。ふらついて、どすんと、ソファーの真ん中に座り込んでしまう。
なくなっていたのだ、右腕が。まるで、初めからなかったかのように。ショックは無い。ただ、薄暗い喪失感が私を貪っている。けれども、目の前の人間に悟られるのは嫌なので、強がりとして一つ、おどけてみせる。じゃなきゃ、もう、心が壊れてしまいそうだった。
いいや、とうに壊れたいたのかもしれない、心は。本当は。
「あなたの右腕は手遅れだった。切断しなければ、あなた自身の命に危険が及ぶ。
ジャイディーは己の目をえぐり取った後、あなたの拳銃で自殺した。ダエーワは死んでいた————私たちは混乱するばかりです」
「私の説明を聞いたからといって、何も解決しないわよ」
私は正直に今までのことを伝える。私の右腕の経緯も。ジャイディーの死も、ダエーワを追った結果も。一つ一つ、つまびらかに説明していった。けれども、彼女は口をへの字にしたまま、うなずきもせず、声もあげない。無理もないことなのだろう、彼女が、それに納得がいかないことは。事実、私も何一つわからない。追わなければいけない存在が死んでしまった。事件は解決したけれども、謎はいまだ全てが謎のままだ。
私はため息をつく。頭が重く、難しいことが考えられない。この事件に関われば関わるほど、泥沼の中に足を取られているような気分になる。その比喩でいけば、私は口や、鼻、それから耳に目の穴に泥に入って、全てを失って、溺死するのかしら。愉快ね、それって。なんて冗談を言っても何一つ解決はしない。事態は好転しない。何も動かない。
天井に付けられたシーリングファンを私は眺める。それは秩序正しく回転を続けていて、止まる様子がない。それならば、永遠に見ていられるのかもしれないわね。と私は思った。いかんせん、彼女の部屋には物が少なすぎる。ファンぐらいしか見所の無い部屋というのも、なかなか無い。
「イヴが、さっき居たでしょ。彼女はどこへ行ったの?」
「あなたに会いたくないそうです」
「そう、そうでしょうね。
他の自警団に協力は頼めないの? 私たち三人じゃ、もはや手に負えない」
「……悪気があって言うわけではありませんが、自警団には他にも多くの案件を抱えています。ミスラは数多くある『手に負えないもの』の一つにすぎない」
「ハハ。そう」
私はその存在意義を殆ど失くしてしまった右肩を慰めるようにそっと撫でた。丁寧に縫合されているのが私にもわかる。痛みは無い。腕を失くしたのを見たら、あの屠人は私を嘲笑うだろうか。思うだろうか、罰が下ったと。なんでもいいか、もはや。結局、私たちは、ただ悪戯にジャイディーを殺し、名前も知らぬ人間を殺し、右腕を失って————その対価として得るものはなにもない。
「イヴが言っていたことは正しかった。ダエーワなどというものは存在しない。あの機械が、人間の作り上げた道具が、人間に牙を剥いている、と。彼女の言葉は正しかった」
「ミスラは破壊できないの?」
「それをしたとして、殺人事件が収束する保証はありません。それをしたとして、それによって起こる二次災害の責任をいったい誰が取れるというのですか?」
「それは……」
私は言葉に詰まる。過去も同じ問答をして、答えられなかった。そして、今も答えられない。地下都市の存続に関わる殆どの設備や機械が、ブラックボックスの中に隠れてしまっている。たとえ電気師でも、その闇の中に手を入れることなどできはしない。
もしかしたら空が落ちてくるかもしれない。地下へと空気が送られず、酸欠で地下都市の住民が一人残らず死んでしまうかもしれない。ありえない話ではない。現に、排気ダクトが壊れて住む事のできなくなってしまった区画も存在するのだから。
考えれば、考えるほど、自分たちの置かれている境遇の悪さを自覚させられる。ヒーローが活躍するストーリーは悪役があってこそ成り立つのだ。しかし、今の私たちにはそれが不在している。進むべきが閉ざされてしまっていると、考えてもいいかもしれない。「この世界を救って見せたい」と夢を語る青年のいる世界に魔王がいないのならば彼が英雄になる事は絶対にありえない。いいや、魔王はいるのか。ミスラと呼ばれる機械。しかし、私たちはその神の恩恵を得て生活している、かもしれない。
「ねえ、ミスラは私たち電気師を殺そうとしている?」
「ミスラはただの道具のはずです。そんなことはありえない」
「道具、道具っていうけれど、なんのための道具なのよ。ねえ、いったいミスラってなんなの? なぜあれは私たちを監視しているのよ?」
「————わからない、と前に言いました。何年も資料を漁って、様々な専門家を呼んで、その結果として、何もわからなかった。何一つ。ただ、それは巨大な木のように地下都市に情報網を敷き、人間の方へと電波を飛ばしている。何をしているか、はわかっています。けれども、何故、そのようなことをしているかは」
ミレイナ・クルトは一度言葉を詰まらせる。「全くわからない。何も、見当がつかない。あまりにも絶望的だ。と、私はそれを聞いて思った。もう全て投げ出してしまいたい。
私はもう一度、右腕のあったところを撫でる。あれを、ミスラと名付けた人間は気が狂っていて、それからユーモアがあるのだろう。私は目を閉じて、ダエーワとジャイディーの死体を思い出す。あれが神の名前を持つものの仕業であるのならば、なんという皮肉だろうか。あれが神の皮を被った悪魔の仕業ならば、いかに生温い所業だろうか。このまま、進んでいけば、私も、ミレイナ・クルトも同じ目ように死んでいくのだろうか。一つ一つ、思い出していく。名も知らぬ電気師のことを。アイザキのことを。
ミレイナ・クルトが不意に私の目の前にグラスを突き出す。中には赤い液体が入っていて、果実が発酵したような匂いが私の鼻をつく。
「高級品じゃない」と私は怪訝な顔をする。
「イヴが持ってきてくれました。すでに半分ほど、飲まれていましたけれど」
赤い液体がゆらゆらと、揺れている。
「もう、諦めてしまいましょうか」
彼女は笑って、そう言った。なかなかに笑わない彼女が、その時になって、乾いた笑いを浮かべた。日の光に当てられて、彼女の顔に暗い影を落としている————ああ、この世界はなんと醜いことだろう。いくら頑張ったところで、その結末がこれだなんて。その酩酊を受け入れて、世界は無意味であると、受け入れてしまえば。まどろみの中に、私の身を、委ねてしまえば、世界は幾分か生きやすくなるのは間違いないかもね。
だ、けれども。と私は自分の思考の中に、幾分かの余白を与える。
「世界は無意味ではありませんよ」とジャイディーは笑って答えた。
自分には息子がいて、それが生きる希望なのだ、と。そのことについてイヴは、彼の息子はすでに死んでいる、彼は幻想を見ているにすぎない、と言っていたけれど、じゃあ、ジャイディーはただの狂人で、彼の人生のほとんど全てが幻想の上になりたった虚無である、と断じることができないでいた。虚無である、と断じた途端、彼の人生は無化されるのだ。それは嫌だ。と私は思う。理由や根拠などは無い。けれどもそれらの外側にある何かが、それを否定したがっている。わがままかもしれない。
かもしれないけれど、もしここで、諦めてしまえば、事件のために行った行動も、犠牲も全て、無意味にすることにはできない。何か、あるはずなのだ。どこかに、答えが。希望か、何かが。たとえ、私が地球で最後の一人になったとしても、諦めなければ、意味というものを 掴めるのではないだろうか。
「————いいや、それは嘘ね」
私はそう言って、ワインの入ったグラスを床に置いた。 甘美な誘いだが、これを受け入れることはできない。それは、とても私らしい。私らしいっていうのは、間違い続けた私の事だから、これもきっと間違っているのでしょう? ミレイナ・クルト。私と、あなたが似ていると言われるのならば、あなたはきっと、私と同じ事を考える。
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