第18話 墨染
「二日目のメンテナンスです」
ミレイナ・クルトは普段の淡々とした調子でそのように言った。彼女の言葉には抑揚を感じない。だからそれは言う、というよりも告げる、と言ったほうが良いのかもしれない。ただ、それは気だるい頭に響かないので、その点については彼女のことを好ましく思えた。私は疲れているのだろうか。それとも夢を見ているのだろうか。現実は間違いなく、変化している。それは劇的というよりも、波が砂をさらっていくような、比較的ゆるやかな、それでいて明らかに破滅的な変化だ。
これまでの自分と、今までの自分は違うものになっている。人間は変化する。肉体的にも、精神的にも。肉体的な話をすると、細胞死と細胞分裂を繰り返していく我々人間は、たった二年ですべて新しい細胞に変わるという。けれど、精神的な変化というものは、そこまで機械的なものではない。そもそも、精神というのはどこからどこまでのことを指すのか、誰も知らない。それから古い自分と新しい自分は水と油のようにくっきりと分かれていくものではなく、境目もあやふやで、墨と水のように混濁している。だからこそ、これまでの自分と、これからの自分がどこまで許し合えるのかが重要となるのだ。なぜなら、それらすべてが私なのだから。
短い人生の中で、このような気分になったのは二回目だった。一度目の時、私は大人になったと思って、強い自己嫌悪に陥った。たぶん、普通に生きていれば、二度目は無いのだろう。そう思わせるくらいに、この事件に関わることは、危ういものなのだろう。昔、アイザキから教わった民謡を思い出す。行きはよいよい、帰りは怖い。引き返すのならば、今の内だぞ。一度、来たならば、もう二度と戻れなくなるぞ、誰かが低い声で、私にそう囁く。いいや、それは幻聴だ。
ミレイナ・クルトが外につながるドアを開ける。その隙間から差し込む日の光に、私はとっさに目を細めた。太陽を見てしまえば、目が灼けるものだぞ、と低い声がまた囁いた。
「ダエーワの顔写真を確認しましたか?」とジャイディーが訊ねる。彼は白い防寒着を着込んでいて、腰のベルトには工具と拳銃がぶら下がっている。それらは歩くたびにからりかりと音を鳴らす。背中には昨日と同じリュックサックを背負っていて、その中には探知キットが収納されているようだった。
「けれどもこれからどうするの? その、ダエーワは、私たちの目の前に姿を現さないでしょう。発電機を投げ出してメンテナンスから逃げ出したってことは、私たちの存在に気づいたってことじゃない?」
「もちろん、ここで彼を捕らえることができれば、それはそれで僥倖です。けれども、私たちの目的はそれだけではない。事件を未然に防ぐことも私たちの仕事です。もしかしたら、彼は姿を隠して、電気師同士で殺し合いをさせようとしているかも企んでいるかもしれませんし、我々を殺そうと草むらから覗いているかもしれない」
「そのために、こうして歩き回っているわけ?」
「ええ、そうです」
昨日のイヴの話を聞いてから、私の彼に対する評価も変わってしまっていた。気づいたのだが、彼は陰謀論者的なところがあるように思える。彼が想像するのは常に彼の想像する中で最悪な状況で、それに対して大した策もなく、打ち勝てると思っている。草むらにトラバサミが隠されているかもしれない、と考えながら、このジャイディーという男はずんずんと進んで行ってしまうのだ。
「ジャイディー、そんな曖昧な作戦でどうにかなると思っているの?」
「それではセリア・ターレン。あなたは他に何か名案があるのですか。あなたは昨日と比べてずいぶんと焦っているように思えます。けれどもダエーワと我々が呼ぶ謎の男は姿を見せない。我々には圧倒的に情報が不足している。その中で私たちが出来ることはかなり限られてしまっている。その中で、事態を解決するような名案はあるわけですか?」
「そういうわけじゃ、ないけれど」
普段は温厚なジャイディーだったけれども、この時ばかりはやけに強情だった。私は激しく詰められらたことが原因で、思わず言葉を詰まらせる。
普段?
私は彼の何を知っていたというのだろうか。私は彼らと親しくしていたわけでもない、何か、思い出作りをしたわけでもない。だというのに、私は彼がそのように激昂することを予想できずに、戸惑っている。戸惑っていることに、戸惑っている。私はなんで、彼のことを知った気になっていたのだろうか? 思い上がりも甚だしい。
結局、何の収穫を得ることがないまま、夜を迎えようとしていた。
私は痛む右腕を、自戒の意味を込めて握りしめる。この一日、私の右腕はずっと傷んでいる。それから、熱を篭っていて、搔痒感を煽った。服の上から擦る。腫れ上がっているというよりも、膨れ上がっているようだった。指で押せば、弾力をもって押し返してくる。恐ろしい。何よりも恐ろしいのは自分がそれに対して好奇心をそそられているということ。気をおかしくすれば、私はそれを永遠に行っているかもしれない。痒い。掻いてしまいたい。けれども、一度、掻いてしまえば、たとえ血が出ても掻き続けてしまいそう。
ダメだ。目の前の出来事に全く集中できていない自分がそこにいる。昨日と同じことを繰り返しているのがいけないのかもしれない。電気師の後ろを尾行して、発電機に登ったのを確認したところで、その根本にキットを展開する。反応を待つ。ただ、ひたすらに待つ。キットはアンテナを振り回し、その存在を主張する。くるりくるりと回転する。寒空に消える結末を持つ白い吐息も、螺旋を描いて上へあがっていく。それは無限に回転して、無限に上昇していくのかと思えたけれども、その終焉はあまりにも突然に迎えた。
銃声と警報。
私は突然の音に背中をびくりと震わせる。
「ジャイディー!」
私たちは目を合わせて頷く。ジャイディーはすぐさま簡易キットを展開する。音程の高い電子音は、そのキットのことを全く知らない私でさえも、緊張感を持たせるようだった。思わず、肩に力が入ってしまう。
「ええ、ダエーワが現れました。キットが警告音を鳴らしています」
「方角は? 私はどうすればいい?」
痛む右腕をかばいながら、私はジャイディーに尋ねた。彼は少し思案してから、まるで、そんなことをしている暇などない、と気づいたかのようにハッとして「とにかく、ついてきてください」と一言だけ言って来た道を戻り始めた。私たちはコンクリートの整備道を駆け出す。久しぶりの運動で体力に自信のなかった私だけれども、がむしゃらに走ってみると、自分の想像より長く走ることができた。とはいえ、私と先導するジャイディーの間では明らかな体力差が存在するのは事実である。彼のほうが足が速く、少しずつ彼と私の距離は離れていく。彼はちらちらと私の方を向くが、距離がどんどんと離れていくからといって、彼がその足を緩めるわけにはいかない。
「キットは最初に行ったミーティング場所の方角を指しています!
セリアさんはあとから来てください!」
「ちょっと、一人で行くつもりなの?!」
私は手を伸ばして彼を止めようとしたが、彼は私の制止の声を一切聞かないで走り去っていく。彼は妄信的に突撃している。彼は気づいていないのだろうか? ダエーワと思われる電気師が私たちの目の前から姿を消した。もし、もしもその電気師が本当にダエーワなる存在だったならば、もう一度、私たちの目の前に姿を現れる理由はない。
息が切れてくる。悪い妄想が私の思考を埋め始める。今の今まで、彼ら自警団はダエーワの尻尾さえ掴めなかったのだろう。それほどまでに慎重な人間が、無策で私たちの前に姿を現すわけがない。
これは罠よ。
次第に小さくなってゆくジャイディーの背中に、そう言おうとしたのに、声帯から摩擦が奪われてしまったかのようで、声を出そうにも息は喉の何処も震わさず、風がかすれたような音しか口から出ない。
そして、その結末として。誰もが予想できるような惨劇となった。
————レウコクロリディウムは。
私はその誰もが予想したであろう惨劇を見る。それはかつて、ジャイディーからされた寄生虫の名前を思い出させた。私は目の前の現実を受け入れられずに、ただ、ただ呆然とする。右腕が痒い。熱を孕んでいて、それから熟している。今にも腐って、木からぽとり、と落ちてそうな林檎を想起させる。
「ジャイディー?」と、私は息も絶え絶えにそう言った。
ダエーワと私たちが呼んでいた男は、死体と化して、発電機の塔体に寄りかかっている。ジャイディーは、それを膝ついて見ている。私は彼の背中しかみえない。
男のくぼんだ眼窩の右側には水晶玉ひとつすら埋まっていなくて、影がそこに巣食っている。ただ、左の眼窩はゴムのように伸び縮みする視神系が飛び出ていて、球体が一つ宙の中を揺れていた。ふらり、ふら、と揺れていた。
私はそれを見てカタツムリの寄生虫の話を思い出したのだ。
ぽとり、と目玉は落ちて、ころりころりと転がっていく。その様子を見て、ジャイディーが無邪気な子供のように笑った。その様子が可笑しくて、滑稽で、思わず笑ってしまった、そのような、純粋な邪悪の笑い方だった。背筋が凍る。
「ジャイディー。いったい、何があったの?」
彼は何も答えない。まるで言葉を忘れてしまったかのように。彼は私を見ない。まるで、私のことに気づいていないかのように。
日はどんどんと落ちてゆく。影が差す。私はカンテラもライトも点けない。点けられない。「ねぇってば」と、私はもう一度彼を呼んだ。いいや、知っているはずだ。今、何を怒っているのか。けれども私は何も考えない。まるで思考が奪われてしまったかのように。私はジャイディーの言葉を思い出す。それは非常に鮮明なイメージとなって、私の脳を支配した。
————レウコクロリディウムは、カタツムリを中間宿主とする寄生虫の名前です。その寄生虫は最終宿主に捕食されるようにカタツムリを『操る』のです。
ダエーワなんてもの、最初からいなかったとしたら? たとえば、電気師殺人事件も、このダエーワという男の存在も、寄生虫にとっての中間宿主だったとしたら?
ほとんど全ての生き物は生存競争を生き残り、子孫を残すことを目的としている。草も木も、寄生虫も人間も。イヴはそう言っていた。アイザキも同じようなことを言っていたような気がする。けれどもいくら考えても記憶は呼び起こされない。
影が動く。
闇が私の足を掴むから、その場から離れられない。
ジャイディーはふらりふらり、と立ち上がって、塔体の方へと向かっていく。途中で死体を踏みつけても、おかまいなし、とでも言うかのように、まっすぐ進んでいく。誘蛾灯に導かれている、と私は思った。
「止まって」と私は声をかける。けれども彼は振り向きもしない。
「止まれ」と私は命令する。けれども彼の足は動き続ける。気づいた時には、全て、遅すぎたのだ。彼は塔体の中に入り、はしごに足をかける。私は叫んで、彼の肩を左手で思い切りつかんだ。彼は抵抗することなく、そのまま、後ろを振り向く形で私と対面する。
「ジャイ……————っ!」
目玉が飛び出ている。それはまるで例の寄生虫に肉体を犯されたカタツムリのように、充血していて、飛び出ていて、おどろおどろしい。いいや、言葉を重ねることにいったいなんの意味があるのだろうか。彼はもはや、彼ではなかった。私は身の危険を感じて、思わず半歩下がる。ジャイディーだったなにかは、笑っていた。笑いながら彼は、手に持っていたトランシーバーで私の頭を殴った。
頭に走る衝撃。私は耐え切れないで、足元がふらつく。ぐらり、と視界が傾き始める。そのまま、地面に仰向けで倒れる。もともと、体調だってそんなに良くないのだから、男性に鈍器で殴られれば、まあ、こうなるだろう。
なんて、混濁としてゆく意識の中でそんなことを考えていた。
彼はきっと何かに寄生されたのだ、と私は本能的に察知する。あれが、人間であってたまるものか。なんとかして、真実を解き明かしたい。そのためには、ここで立ち上がらないと。ミレイナ・クルトに助けを求めないと。そう思いながらも、意識は底へ底へと沈んでゆく。ジャイディーが私の腰のあたりを探っているのを鈍る感覚の中で微かに感じている。拙い手つき。もう、どうにでもなってしまえばよい、と思い、失う意識の中で、私は。ただ。
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