第17話 水

「どうして屠人なんかを助けたのよ」


 私は不満げにアイザキを責めた。屠人を匿い、自警団に付き出さなかった彼に、私はその行動の理由を尋ねずにはいられなかった。けれどもアイザキは曖昧な返事をしてその場を乗り切ろうとしているのだから、気に食わない。


「いずれ、恩を仇で返されるわ」

「まあ、そうかもね」


 そう言って笑う彼の感性を私は理解できない。恩を仇で返されたとして、いったい誰が笑うのだろうか。普段から病的なお人好しだと感じていたけれど、ここまで来ると、あまり看過することなどできない。別室で寝かされている、片足の屠人はアイザキ曰く、電気師に成りすましていたという。その行為は一つ間違えれば、世界を破壊してしまうではないか。私たち電気師はあるものを維持する事はできても、壊れたものは治せない。


「抗生物質、いくらか借りるね」

「……もう、勝手にすればいいわよ」


 そう言い放って一人げんなりする。居心地の悪さを感じて私は部屋を出ていく。背後から「ごめんよ」と話すアイザキの声が聞こえたが、私は悪意を持ってその声を無視した。自分の心の奥底から沸く黒い感情。それを何処かで発散させたいという気持ちと、そういった感情が生まれた自分に戸惑いを覚えている。脳内に霧がかかっているようだ。何かが頭の中に巣食っていて、屠人を、アイザキを口汚く罵っている。


 殺してしまえ! 燃やしてしまえ!


 脳内で誰かの声が反響する。頭が痛くなる。その原因はわかっている。あの屠人だ。奴さえいなければ、私たちは出来るだけ平穏に暮らすことができたというのに——そう考えた時、私は無意識の内に奴が寝ている部屋のドアノブに手をかけていた。拳銃の冷たさに触れて私はハッとした。私は今、何をしようとしていたのだろうか?


 疑似太陽が私の前に影を作っている。


 私は今、何をしようとしていたのだ? それを深く考えることはしたくなかった。深くため息をついて、踵を返す。そうよ、それでいいのよ。と私は私に言い聞かせる。私は階段を降りて、誰も使っていない別の部屋に逃げ込む。ドアを開けると埃の臭いがした。ひどく荒れはてている。割れたガラスが散乱したままだった。そこで私は一人泣いていた。アイザキが私の知らないところへと行ってしまうような気がして、私は泣いた。


 自分が今まで考えたことすらなかった殺意、これが自分の頭に巣食っていることに気が付いて、自己嫌悪になって泣いていた。私は屠人を受け入れることはできない。


 その結果、私は奴を殺めてしまったのだろうか。人を殺してしまった、という罪悪感を私は感じることができなかった。地下都市に深く馴染みすぎて、人間が持つべき道徳観や感覚が麻痺してしまったのかもしれない。何も感じなかった。赤く染まった白いシャツを私は見つめる。さっさと家に帰って、シャワーを浴びて、清潔な服に着替えなければいけないね。と私は私に話しかける。


私は私に話しかける。誰かが私の中にいるかのようだった。思考が拡散して、乱反射して、まとまらない。こういうことは過去に何度だってあった。と、思いながらも、その過去とやらについて、何一つ具体例も説明もすることができない。


「アイザキ。いたのね」


私はアイザキ——正確にはアイザキたち——の墓の前に立っている。それは三方一メートルほどの立方体で、底面を別とした、すべての面に人間の名前が刻まれている。そういった立方体がいくつも並んでいる。この敷地は霊園と呼ばれていた。地下都市が誕生してから百数十年もの前から、今までの全ての亡骸がここにたどり着く。ここに棄てられると考えてもいいかもしれない。


私は一つの立方体の前に立っている。なぜ、私は彼の墓の前に立っている? 理由を辿ろうとしても、まとまらない思考のせいで、何一つだって考えられない。私はいったい、彼の墓の前で、何をしようとしたのだろうか。


わからない。


次第に思考は後退してゆく。

ここは、何処なのだろうか? なんのためにここに居るのだろうか。


「いったい何しに来たんだい。セリア」


 気がつくとアイザキの声が聞こえた。私はゆっくりと顔を上げる。それはこっちのセリフよ、と私はせせら笑って、そう答えた。私はここにいったい何をしに来たのだろうか。一秒が一時間のようにも一分が一瞬のようにも感じた。アイザキは何も答えない、何も話さない。何も起こらない。ただただ時間だけが過ぎていく。


 段々と無感覚になってゆく。屠人に噛まれた腕のところが赤く腫れる。赤く腫れたかと思うと膿んできて。膿んだかと思うと、腐り、そしてボロボロと朽ちて地面へと落ちてゆく。私の血肉はコンクリートに焼かれ、煙を上げる。私は死体に成り下がる。土へと還る。万物はそうして流転していく。

不変の事実など世界には存在しない。通底する基盤や土台などもこの世界にはない。流体の上に世界は経つ。永遠に続くシステムというものは幻のことなのだ。


「いったい何しに来たんだい。セリア」


 アイザキはもう一度、私に訊く。私は何も答えることができない。思考は完全に散乱しきってしまった。もう何も考えられない。「拳銃についてなんだけどさ」アイザキは唐突にそんなことを言った。「安全装置を外せば、すぐに撃てる状態にしてほしいんだ。どうも最近、この辺りは物騒なようだから」

「ええ……そう、するわね」


 私は頷いて遠くを見る。同じようなやりとりをこの前もした気がする。いいや違う。気がする、ではなくて、したのだ。アイザキはおそらく知っていたのだ。ミスラシステムのこと。それから電気師殺しが多発していること。何もかも知っていたのだろうか? わからない。けれども目の前の彼は何かを知っている。私たちの知らない何かを。けれども、死人は語らない。私がいくら声をかけたところで、彼は意味のある言葉を吐きやしない。あなたは亡霊だ。アイザキ。まやかしだ。まやかしは、亡霊は、死は。それらすべてが無意味なのだとしたら、ミスラが生まれた意味とは。


 そうして、私は朽ちていく。血肉が削がれ、意識を弄ばれ、感覚は虚偽へとすり替わられる。アイザキはたしかに目の前にいる。しかし、それは本当にアイザキなのだろうか。私がそう思って、アイザキの顔を見ようとしても、目のピントが合わない。それはアイザキのようなもの、であって、アイザキではないのかもしれない。アイザキだと、私が判断するための最低限の構成要素をまとめられたようなものだった。


 ならばこれはきっと悪夢なのだろう、と思った途端に目が覚める。見慣れた視界、見慣れたソファー、見慣れた天井。ここは私の家だ。私はいつの間に、自室へと帰ってきていたのかしら、と思って立ち上がろうとすれば、左手から鋭い激痛がする。大きく腫れ上がったその腕の頂点には不気味な噛まれた痕が出来ていた。


 頭は痛いし、腕は腫れていて最悪な気分だった。屠人に噛まれてしまえば、なんらかのウィルスや菌が私を蝕むのはわかっていた。消毒して、下手くそに処置を施し、それから抗生剤を服用する。肩は重いし、眠気が襲う。時計を確認すれば、あと二時間でミレイナ・クルトのビルで集合しなければならない時間だった。足元がふらつくし、風邪をひいているかもしれない。けれども、だからといって休むわけにはいかないのだ。今日を逃せば「ダエーワ」の手かがりは失せてしまうかもしれない。ジャイディーも、ミレイナ・クルトも電気師ではない。電気師ではない人間が地上を考えなしに歩けば、地下に戻れなくなるかもしれない。体調は最悪だが、目前にはゴールがあるのだ。


「……クソが」


 私は腕に包帯を巻く。

 片手で巻くために不恰好になるが、仕方がない、ないよりはマシだと思う。包帯の上からオーバーコートを羽織る。上着を着る電気師は珍しくないからそこまで目立つことはないだろう。鏡で自分の姿を確認する。かはり、と喉の奥を擦らすようなため息をこぼす。


 重い足を引きずって水でも飲もうかと台所へ向かう。シンクの底には数日溜まった皿が置かれていて、水に浸されていた。蛇口から出る水は、その皿があろうとなかろうと何一つ変わりはしないのだけれど、それはおそろしく不衛生に見えたので、私はコップをそのままシンクの底に置いた。私は無意味に皿に溜まった水を排水溝に流して、それが流れるさまをただただ、眺めていた。

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