第16話 屠人

 共同墓地へと向かうためにはスラムを通らなければいけない。遠回りはあまりにも時間がかかってする気にはならない。たとえ、スラムが屠人共のたまり場だとしても。


 奴らは独自のコミュニティーを都市内で形成している。ゴミ溜めや地獄の終着点とも揶揄されるそのコミュニティーでは自警団が独自に違法と定めている、ドラッグやアルコール、娯楽品などが流通している。

 流通している、というのは自警団によって配給されるのではなく、何かと何かを交換しなければいけない、つまり、物々交換をしなければならないということだ。このコミュニティーの中で、電気師は上客のうちの一人だった。私たちが取り扱う銅線などの資材は、私たちしか管理することのできないし、この都市で整備されている上質な銃や道具を持っているのは、電気師を除けば、強く対立する自警団しかいないからだ。


 彼らは地下都市にポツリポツリと点在している。地下都市の壊れたところ、といえば良いだろうか。電気の通らなくなったところ、換気システムが崩壊して、汚れた空気が蔓延しているようなところ。そう言った、誰も住みたくないようなところで暮らしている。もし、地下都市の表舞台に現れようとするのならば、自警団によって——殺されてしまう。無情にも。自警団が屠人を毛嫌いする理由はわからない。けれども、強いて挙げるのならば、彼らはコミュニティーを崩壊させるベクトルを持ったムーブメントなのだ。自警団と屠人は対立の関係にある。ちょうど、スーパーエゴとイドのように。


 ゴミ溜めに足を踏み入れると、腐臭が私の鼻をつく。路傍に棄てられた死体の傷口は緑色に変色していた。熟れていて、どろりとした液体が混凝土の道路に一本の筋を描く。屠人どもの訝しげな視線を感じる。電気師はいつだってそうだ。彼らは死人よりも生きている人間にしか興味がない。おそらく死の先にはなにも無いことを知っているのだろう。

 私は軽い嘔吐感を覚えるが、それを極力顔に出すまいと務めた。ここは地獄だ。地獄は弱い人間から死んでいく。彼らはイドだ。老若男女問わず、死んでいくものを殺す。生きるために殺す。それが彼らに与えられた唯一の道徳だから。どうせ死ぬのならば、自分のために死んでくれ、と彼らは懇願して、それから殺すのだ。


 私が目的とする人間は時間を問わずにいつも決まった場所にいる。赤いサンルーフの下には濃い影を落とされていて、その人間はその闇に身を潜めている。彼はいつもと変わらずに、あぐらをかいて座っていた。右足の付け根からは伸びるものが何もなく、ボロボロの包帯がちぎれそうになって、醜い断面がちらりと顔を覗かせていた。


「ラーレンか。アイザキはどうした?」


 しゃがれた声が私に囁いた。私は「死んだわよ」と一言。それを聞いた屠人は顔を俯かせて、うな垂れた。彼には名前が無い、ゆえに私は彼のことを屠人と呼んでいた。この屠人は電気師の真似事をして、足をモーターに巻き込んで失った。その発電機は二度と使えなくなり、ブレードはただただ空転している。

 死んで当然だった。誰だって文句は言わない。勝手な理由で電気師に成りすまし、右足を失い、地下都市民の生命線を破壊したのだ。それを助けたのがアイザキだった。なぜ彼が屠人を助けたのかはわからない。今となっては永久に謎になってしまった。


「なぜ、そんなことを伝えた?」

「なぜって、通りすがら、ここに来たからよ。彼はこの先の共同墓地で眠っている」

「最悪だな。……誰に殺されたんだ?」

「……どうして、殺されたなんて思ったのよ。私は『死んだ』としか言ってないわ」

「最近、殺しが増えている」

「そんなのは日常茶飯事でしょ」

「そうじゃない。電気師、屠人、自警団、関わらず、だ。集団墓地に死者を運んでいる人間をよく見かける。今まででに無いペース、誰も彼も狂気に障ったようだ」

「……アイザキは別の電気師に殺された」


 私がそう答えると彼は「残念だ」と一言言ってから、また俯いた。ぼさぼさの髪の毛が揺れるたびにそれは悪臭を放つ。ぺとり、と一滴、体液が道路にシミを作った。


「もう、ここに来ることは無いわ。誰もね」


 私がそう告げると、彼は驚いた顔をして私を見上げる。深く刻まれたシワ。白みだらけの髪の毛に、残っている方が少ない黄ばんだ歯。全てが私にとって不快だった。


「それだと俺は死んでしまうが」

「私は私の面倒しか見ることができないの」


 途端に屠人は奇声をあげて、牙を向け、こちらに飛びかかってきた。まさか右足の無い彼が、こんなに機敏な動きができるとは思わず、私は尻もちをつく。彼は私の上に馬乗りになる。私はすぐに顔を隠すが、とても力では敵わない。顔を思い切りぶん殴られ、殴られたところから熱さを感じる。顔を隠していた腕が剥ぎ取られて、醜い顔がこちらを血眼になって睨みつけていた。鼻の曲がりそうな悪臭。


 私は左手で彼の顔を殴ってやろうかと思ったが、それは屠人にとって取るに足らない一撃だったようで、簡単に捕まれ————彼は私の腕を噛んだ。脳天を突き抜ける痛みに私は思わず悲鳴を挙げる。たとえ声をあげようが、涙を流そうが。誰かが私のことを助けることなど、この地域ではありえない。そのことを私は知っている。知っているけれども、悲鳴を上げずにはいられなかった。その悲鳴に負けないほどの大声で、彼は粗野な言葉をもって私をどなりたてて、責め立てた。「お前が悪い」「屠人は全員死ねって言うのか」


 そうね、死んでしまえばいいじゃない。普段の私ならばそう考えていただろうけれど、今の私はそんなことを考える余裕すらなかった。喉が押しつぶされて、声からかすれた空気の出る音が聞こえる。


 自分が死んでしまうのではないだろうか、という恐怖に襲われる。黒い何かが後ろから私をすっぽりと覆い隠してしまうような、そのようなタイプの恐怖。門前の虎よりも、恐ろしい何かが、しゅるりと這い寄り、私を呑み殺してしまいそうな恐怖。死にたくない。


 こんなところで死にたくはない。


 そう思ったその時に、私は私の中にある大切な何かを失ってしまったような気がした。先ほどまで痙攣していた右手が、ピタリと動きを止めて、そろりと、まっすぐ、私の腰に付けられていたガンホルダーへと手が伸びる。


 ————すぐに撃てる状態にしておくんだ。


 誰かが私に囁いた、ような気がした。火薬の臭いが鼻腔をくすぐる。

 血と唾液と粘液が混じった汚泥のようなものが、屠人の口からこぽりと、吐き出される。それは私の顔の上にぶちまけられた。


 瞬き一つせず、私はその流動体の落下を観測していた。


 それは温かった。屠人の死体が私の体の上に重なる。何も聞こえなかった。私はしばらく空を見ていた。疑似太陽がきらきらと輝いていて、私はそこから目を反らすことができなかった。太陽が魔力をもって私を強く引きつけて離さない。

 私はしばらく呆然として太陽を見ていた。


「最近殺しが増えている」


 突然、死んだはずの屠人の声が聞こえてきて私は小さな悲鳴をあげる。彼は死んでいるはずなのに。立ち上がろうとして目前がぐにゃりと曲がっていき、私は目を閉じる。平衡感覚が狂っていて、世界が急速に回転運動始めたようだった。


「お前のせいだ」と屠人が呪詛を吐く

「違うわ」と私は思わず反論する。「違う」と私はもう一度言葉を重ねる。


 死んだはずの屠人には目玉がなかった。前頭葉が流体のようにゆらめいている。「いいや、お前のせいなのだ」そう言うと彼の眼窩から、血液と脳髄が滴り落ちる。これは現実ではない、と思いながらも侵食されるイメージから逃れられない。黄色い歯が、にたり、と私に笑いかける。世界が崩壊してゆく。その崩壊に終わりはない。

 チカリ、チカリと目の前の視界は赤と黄色に点滅を続ける。気づくと屠人は消えていたが、鼻をつくような悪臭だけはいつまでも体に残っていた。


 イメージはここから崩壊が始まる。

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