第15話 草木

 地上は夜も夜だというのに、地上は嫌気が差すほどに明るく、私は辟易とする。擬似太陽はその輝きを成金の愚者のように見せつける。一生、付き纏うのだろう。夜無き地下都市の輝きから逃れるのは、私が死んだ時だろう。


「あなた、一人でここまで来たの?」


 イヴの問いかけに私は頷く。ジャイディーの送迎を断って、私は一人、イヴの居る遺体安置所へと足を運んでいた。窓から差し込む陽光が私を焼き付ける。彼女はデスクから適当な椅子を見繕って私に座らせた。彼女はそれから資料を漁ったり、コンピューターになんらかの操作を行っていた。


「ミレイナ・クルトのことについて聞きたいの」と私は話す。


 コンピューターに取り付けられたファンが騒々しい音を立てていた。電力は無限に供給できるとはいえ、電子機器には寿命がある。彼女のコンピューターはその寿命をとっくのとうに迎えているようだった。


「草と木って、どっちが生物学的に進化しているか、ご存知?」とイヴは急に私に尋ねる。「何の話?」私は思わず顔をしかめて、答えた。そうすると彼女はクスリと笑って答える。


「答えは草よ。草は木に比べてずっと世代交代の期間が短いの」

「生物学的進化と世代交代のスピードになんの関係があるのよ」

「あら。想像力に乏しいのね。植物に限らず、ほとんど全ての生き物は生存競争を生き残り、子孫を残すことを目的としている。草も木も、寄生虫も人間も。

 そのために生物は様々な工夫を施す」


 レウコクロリディウムはカタツムリを操って、その触覚を芋虫に擬態させる。そうすることで鳥にわざと捕食されるように仕向けるのだ。寄生虫は鳥の体内で産卵し、糞とともに排出される。そうすることによって広い地域に繁殖範囲を広げるとされている。


「気持ち悪いわね」

「けれど生命の神秘よ。神秘っていうのは醜いわ。

 さて、草はすぐに枯れることで世代交代の期間を木よりも短くしている。そのため、環境の変化に適応しやすいのよ————これは人間にも言えるかもね。人間は適応化によって生存競争を生き抜いてきた生き物よ。生きるために他の生物を食い尽くし、生きるために自然を破壊し尽くし、生きるために生殖し、挙げ句の果てには、生きるためだけに、地上に発電機を立てて、地下にはご立派な都市まで作り上げた。

 人間にとって一番の生物的特徴を挙げるのならば、この異常と言えるほどの生存適応力と言えるわね。いや、異常ではなく、狂気と呼ぶべきかもしれない」

「何が言いたいのよ。私が聞きたいのはミレイナ・クルトのことであって、生物学の講義なんかじゃないわ。そもそも、地上に生物なんて殆どいないしね」

「全くいないわけではないでしょう。地上を直接見たことはないけれど、生態系のシステムは保たれているはずよ。そうじゃなきゃ、世界は不毛の大地になっている。人間の前に姿を現さないだけで————いいや、無駄話はやめにしましょう。私だって、暇じゃないのよ」


 彼女はそう言ってようやく、コンピューターから目を離した。後ろで結んでいたゴムを解いて頭を軽く振る。それから前髪を軽くかき揚げ、私の前に座った。赤毛は陽の光に反射して私の目には黄金色に見える。赤毛が光を強く反射しているのだ。光り輝いて見えるからこそ、その分影も濃いものだった。


「ミレイナ・クルトとはそこまで長い付き合いじゃないわ。彼女はただの少女よ。スラムで捨てられていたところを、たまたま自警団の正義心に救われただけの」

「捨てられていた?」

「別に、珍しい話じゃないでしょう。この地下都市だって治安の良いところがあれば、悪いところもある。安全装置のイカれた粗悪な拳銃を振り回すような奴ら、純粋な力のみが有無を言う世界。そこで生まれ落ちる人間だって居るわよ。ただの捨て子よ」


 私は黙った。別にそれにショックなど受けない。

 暴れても、もがいても逃げ出すことのできない世界がある。「お前さえいなければ」と言い聞かせあって過ごす世界がある。けれどそこが特別悲惨だとは思えない。それは私とは別の世界の話であって、私には全く関係がない。関係のない世界に実感はもちろん、共感をすることなどできない。


「彼女を知ったのはここだったわ」


 そう言ってイヴは、私の後ろを指さした。「自警団の一人が勝手な正義感に浮かれて、きまぐれで持って帰ってきたのよ。世話も教育もできないのにね」

 デスクの引き出しから箱を取り出す。そこにはペンのような細長い紙巻が入っていて、彼女はそれに火を付けた。「煙草は貴重品のはずよ」「自作している。建物の裏でね。それぐらいしか娯楽がないのよ」と煙をくはりと吐いて、彼女は話を続ける。


「ボロボロの子宮とバラバラな花弁をむちゃくちゃな手術で人の形にしたのを覚えているわ。私は解剖医であって医者ではない。壊すものであって、治すものじゃない。彼女の裸を見たことはある? 肩から腰にかけて、歪な手術痕が残っている。

 消化器官のどこかに問題があるみたいで、一度に多くの食事は摂れない。精神的ストレスの影響か知らないけれど、味覚は麻痺している。子供なんて産めな——」

「——私が聞きたいのはそんなんじゃない」

 ピシャリと言葉を切ると、それから彼女はひとつ微笑んで「でも、生きている。彼女はこの世界に適応している。繰り返すようだけれど、人間における最大の生物学的特徴は、狂気的な適応能力なのよ」

「彼女は死んでいるようなものじゃない」

「死んでいるようなもの、じゃなくて死んでいるのよ、とっくのとうに」

「狂っているわ。おかしいわよ、そんなの」

「この世界じゃおかしくない方がおかしい、でしょ」

 

 そう言って彼女は煙を燻らせる、甘い香りが鼻腔を刺激する。


「私とミレイナとの付き合いは短くないけれど、彼女は実際死人よ」

「けれど、ジャイディーは『彼女は泣いていました』って言っていたわよ」

「さあね、そんな場面、私は見てないわよ。

 彼、妄想癖が激しいし、嘘だったんじゃない。いない息子を創り上げるくらいだし、流していない涙だって、流させるでしょうね」


 いない息子? イヴの言葉に私は喉を詰まらせる。

 ——世界は無意味ではありません。たとえば私には息子が居る。私にとってそれはかけがえの無い大切なものだ。決して無意味ではない。記憶の中の彼の言葉が私の脳に響き渡る。背筋がそおっと凍るような気持ちに襲われる。


「いない息子ってどういうことよ!」

「さっきも言ったわ。そして、もう何回も言われたでしょう?

 この世界でおかしくない方が異常なのよ。ジャイディーの息子は今から五年前に死んでいる。妻もね。地下都市の天井が滑落して————」イヴはパン、と鳴らして両手を閉じた。「ぺちゃんこになったわ。悲劇なことにね」


 彼はそこから目を背けているだけ。一度気をおかしくしてからはずっとあの、まるで人間のフリをし続けるロボットね。と彼女は微笑んでそう言った。


「……人生って悲劇ね」と、長い沈黙をもって、私は細い声で、呟くように言った。その声は震えていた。もしそれが本当ならばこの世界には何一つの救いがない。死んだ目をしながらイヴは笑っていた。一時的な快楽に身を溺れさせて、溺死を図っている。


「この世界に希望なんて何一つ無いわ。この世界に意味なんて無い。全部虚無よ、虚無」


「私は……」と言葉を詰まらす。何を言うべきかはわかっているはずだが、それに踏み切る勇気が掴めない。自分は間違っていることをしているのかもしれない、という不安もある。まるで、暗闇の中で歩かされているような。


「私は……」もう一度、言葉に出そうとするが、そこから続かない。私にはイヴの考えが全く正しいように思えるからだ。本当ならば反論などしたくない。反論には痛みを伴う。そして反論することは、今までの自分を否定することにつながる。

 甘い香り。イヴが吐いた煙はゆっくりと天井へと登っていく。そうして、その煙は窓から差す疑似太陽の光に照らされて、キラキラと光り輝いていた。その一連の揺らめきに、私は心を奪われる。


「私は……世界が無意味じゃない、って信じたい。どこかに、陳腐な言葉だけれど希望があるって信じてみたい。今は何を信じて良いか、わからないから」

「そう。そうして、勝手に信じていればいいのよ」


 イヴは気だるげにそう答えて、またタバコを吸う。「勝手にすればいい」と、心底嫌そうに言葉を吐く。赤毛が僅かに揺れる。初めて会った時には気がつかなったが、彼女の目は燻んでいて、それから淀んでいる。それはまるで地獄を九圏、全て見て廻って来たかのような目だった。そこから正気は感じられない。何も無い。


「あなたは過去に、何があったの。イヴ?」

「何もかもよ」


 彼女はそう言って、それから何一つ答えることはなかった。ただただ時間だけが流れる。それは五分後のことかもしれないし、三時間後のことかもしれない。なにせ、イヴのいるところには時計が無い。だから、時間感覚が狂いやすいのだ。

 私は思い立ったことがあってふと立ち上がった。アイザキに会いに行こうと思ったのだ。アイザキの墓を見たからといって自分の中で何かが変わるわけではないだろうけれど、ただ、なんとなく寂しかったからだ。


 そう、私は寂しくなったのかもしれない。ミレイナ・クルトも、ジャイディーも、イヴも何処か信じることができない。ずっと頼りだったアイザキもなくなってしまった。物心ついた時から両親はいない————孤独だ。私が遺体安置所を離れて、共同墓地へ向かおうとした時、イヴは私を一度引き止めた。


「一つ、告白すると、私は取り返しの付かない嘘を吐いている」

「嘘?」

「ええ。吐かざるをえなかった嘘。やさしさのための嘘ってあるでしょう。私はそれを吐いてしまった。そのせいで、とんでもない絶望がとぐろを巻いている」

「それってミスラに関係すること?」


 淀んだ目が私を見つめる。イヴは何も答えない。疑似太陽を背に立っているため、逆光で彼女の表情がよく見えない。頷いた、ように見えた。


「ここにはもう来ない方がいいわ」と彼女は冷たい声を部屋に響かせる。長い沈黙。私は無言で遺体安置所を去った。何を考えているべきか、もはや何もわからなくなってしまった疑似太陽の輝きが都市を照らす。それが暑くて、暑くて、気持ち悪い。いったいこの世界の何を信じて生きていけば良いのだろうか。

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