第5話 ミスラ
ミレイナ・クルトは私を収容所で私を着替えさせ(私の服では無いが、デザインは似ていた)から市役所のような場所に移動させた。建物の中は人気がほとんど無い、遠くからなにかの書類作業に没頭する、制服を着た男女が数人見えるが、広すぎる空間にその人数は不似合いのような気がした。
二つ、気づいた点。施設内のどこも灯りが灯っていないこと。それから、誰かと通話するような声が聞こえること。
照明が壊れているのは、この地下都市ではさして珍しいことではなかった。疑似太陽が休まず光り続けているので、電気が消えていたとしても真っ暗になることはない、窓がある限り。けれども、彼女に促されるまま歩いていた道中、窓の無い長い廊下にさえ、ひとつの電気も生きていないことには驚かされた。まるで、光りを嫌う吸血鬼を思わせるような光景に、私は言葉を失った————ミレイナ・クルトとは言葉を交わさなかったので、その表現は正確では無いかもしれない。ただとにかく、私は呆然としたのだ。まるで自警団が、見えない何かに怯えて、目立たないように、目立たないようにと、息を潜めながら生きているかのようだった。
「逃げようと思えば、いつでも逃げられたはずですが」
「逃げようって……いったい何から?」
ミレイナ・クルトは私を建物内の一室に通された。そこには大きな机と、四つ分の椅子があった。壁には大きな窓がひとつ付いていて、そこから人工樹が顔を覗かせていた。風が無いのだから、おそらく私の見間違いなのだろうが、葉がふわりと一度、揺れたような気がした。私の嘲りの言葉は、彼女の眉ひとつ動かさなかった。
彼女は何事もなかったかのように私に事件当時の状況を尋ね、それを一つ一つ丁寧に聞き返して、書類のようなものを作っていった。私と彼女はその間、一度も目を合わせることない。とても奇妙な空間が生まれている。お互いがお互いの目を手で覆いあっているような。気まずい沈黙が続くが、両者ともに譲るところがない。
「セリア・ラーレン。あなたはどう思いますか?」
「どう思う、というのは?」
「電気師というものは、突発的な殺人を犯してしまう————しかもそれが連続して起こり、最後は自殺する————苛虐的な思想を育む職業ですか?」
どんなに未来に悲観的になったって、誰かを殺して自分も死のうとなんて、思うわけがない。たとえ電気師という多くの地下都市市民の命に関わる仕事だとしても。はっきり言ってしまえば、そんな気狂い染みた行動を起こそうとなんて間違っても思わないし、思いつきだってしない。
電気師という仕事は、そういう悲劇的妄想ではなく、虚無に襲われる。気力が削がれていくのだ。この仕事は安定であって達成では無い。延命であって、治療では無い。だから、自殺はともかく、他殺することはありえない。
「精神的な病に苛まれて、他人を殺める? それが職業共通に集団で? 考えられないわ。そんな道理が通ってしまうのならば、どんな推理だって出来ちゃうでしょ。あくまで私の主観的なイメージだけれど、クレメンテさんはおどおどしたところはあったけれど、『これから死ぬ』って感じは全くしなかった。私には、とても彼がアイザキを殺して、自殺したなんて信じられない」
「そのイメージは、正しいでしょうね。
人間は死ぬ前に多くのサインを残す動物です。
たとえば、『あの行動を今、思い返してみれば、彼の死を暗示していたのではないか』そういう徴候があなたの中にひとつもないのならば、彼はあなたと会った時、死ぬつもりがなかったと、仮定してもいいでしょう」
目の前の彼女と行う会話は、何処かチグハグだった。答えの無い禅問答を繰り返しているのではないだろうか。私はどこか心がざわつく気持ちだった。アイザキを殺したのはクレメンテではなく、私ではないだろうか、と疑っているのでは無いだろうか。それはとんでもない誤解だ。しかし。
「……疑っている?」と私は訊ねる。
「疑っている、とは?」
「あなたはアイザキを殺したのはクレメンテさんだと私に報告した。けれども今、彼を犯人と考えることは難しい、そんな態度で私と会話をしている、気がする。『逃げようと思えば、いつでも逃げられたはずですが』と言った理由は、私のことを、真犯人だって疑っている、そうなんじゃないの?」
それを聞いた彼女はかすかに笑った。会ってから初めて、その無表情な仮面が剥がれた。私はその笑みが憫笑に見えて口をへの字に曲げてみせる。ミレイナ・クルトは一、二秒まぶたを閉じたかと思うと、は私の瞳をまっすぐ見つめる。
「そう。どうやら、誤解をさせてしまったようですね。自警団はあなたを疑っているわけではありません。疑いようもなく、ナタリオ・アイザキを殺したのはクレメンテ・ビジオです。しかし、私たちはその裏側を知っている」
「裏側?」
「ええ、そのために私はいま、あなたを探っている。あなたが信用に足る人物かどうか————そして、あなたはどうやら、本当に何も知らないようですね。可哀想に」
私は「可哀想」と言われ、思わず立ち上がり、怒りをあらわにしてしまう。
「ちょっと。裏側とか、知らないとか、可哀想とか。好き勝手言わな——」
私の台詞の途中で、彼女は自分の拳銃を腋の下にあるホルスターからゆっくりと抜き出して、私の方に向けた。私は反射的に腰に手を伸ばすが、間に合わないし、そもそも持ち物を没収されていて、ホルスターなんてものが腰にぶら下がっていなかった。銃声が鳴り響いて、私は死んだと思った。しかし、銃弾は自分の耳の横を走って行ったようだった。暗転。しばらく耳鳴りで、立ちくらみのような症状に襲われた。視界がゆっくりと回復する。瞳を開けるとミレイナ・クルトはホルスターに銃をしまっていた。
「後ろを見てください」
私は彼女に促されるまま、後ろを振り返る。後ろの壁には銃痕が残っていて、ほのかに火薬の臭いを感じ取る。コンクリート壁に穴があいて、穴の縁が、ミルククラウンのようにめくれ上がっている。一部、ぼろぼろと、小片となって剥がれ落ちた。私は、そこに違和感を感じた————コンクリート塊に、どうやって捲れ上がるような痕が出来上がる? 私はそう思って、穴のそばへと近寄る。私はそれを覗いた。覗いてしまった。
壁は確かにコンクリートだが、ただのコンクリートではない。薄く、中は空洞になっていて、そこから緑の基盤とカラフルな配線が、穴から顔を見せる。まるでコンピュータの回路のようにそれは入り組んでいる。私は衝動的に穴に指をつっこんで力任せに引っ張ると、壁はミシィと音を立てて裂けて、割れた。埃が舞う。
異質さに私は身震いする。
基盤だけではない。カメラが、マイクが、アンテナが。それからいくつもの名の知らぬ多く機械が基盤のような鈍い緑色をした板には張り付いている。張り付いて、私を監視している。思わず、言葉を奪われる。壁一面に埋め尽くされた数多もの機械。
「————これは……動いているの?」
「いいえ。ただし、今は。これは建物の電気を寄生虫のように貪って活動していました。だから、この建物に電気は通していません。気づいているでしょう。この建物に明かりがひとつも無い事。それは点けないのではなく、点けられないからです。
この建物に電気を通してしまえば、我々は監視される」
「監視って何から?」
ミレイナ・クルトは少し考えてから、開口する。巨きな瞳。世界の守護者。番犬。監視者。偉大なるリーダーであり、残虐な独裁者でもある。それは時に様々な名前で呼ばれていたようだった。
彼女はいくつかの単語を羅列しながら彼女は最後にそれを「ミスラ」と呼んだ。
ミスラ。
千の耳と万の瞳を持って世界を監視するとされる、古き神格。司法神、戦神、それであり、守護神。
ミレイナ・クルトは、カハリと溜息を吐いた。煙を吐くような溜息だった。彼女は部屋の窓を開ける。眩しい疑似太陽の光が部屋の中になみなみと注がれる。ゆえに暗い影を落とした。それを見て私はミスラが太陽をも司る事を思い出した。
「この地下都市は<ミスラ・システム>による徹底的な監視社会だったようです。壁という壁、床という床に監視の目を張り巡らせて————」
彼女は一息ついて、私に告げた。
「————そして、規範から外れた者に神罰を与える」
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