第3話 イノセンス

 風力発電機のメンテナンスと言っても、大きいタワーに登って目視で確認するわけではない。まずタワーに登る前に地上付近にあるメインキャビネットを開き、発電制御盤から発電データを確認し、発電効率が極端に落ちていないか、しっかりと運転しているか確認する。それから昇降機とはしごを使ってタワーを登って、ブレードの裏側にある空間、「ナセル」と呼ばれる発電機の心臓部へとやってきた。


 嫌な話。人口の減少は遺された世代にとって致命的な問題だ。これらの風力発電機が開発された時代に、いったい何人の人間が事業に関わっていたのだろうか。きっとたっぷりと人員が裂けたに違いない。文明が最大まで発達した時、地球人口は二五〇億人を突破したという記録が残っている。現在の人口は三〇〇万人。少なく見積もったとしても、八〇〇〇倍違う。私たちが三人ならば、彼らは二四〇〇人というわけだ。お手上げ。それに、いくら愚痴ぐちを言ったところで現状に変化はない。


 ナセルの中で私は、発電機の回転数に関わる増速機や発電機、発電機を冷やす冷却ファンの異常がないかを確かめ、ヨーと呼ばれる制御装置の試運転を行う。「ピー」と高い電子音とともにかすかな揺れを感じた。潤滑油じゅんかつゆを刺して、それから工具箱から布を取り出して清掃を行った。

 この一連の動作で二時間。アイザキなんかは一時間半で終わるけれど、とにかく発電機一機に掛ける時間は決して少なくない————だから三人で五十機など、気の長くなるような話なのだ。私は発電機二機の点検を終えて、一度食事休憩を取り、それからもう三機点検すると、三人で約束した時間になってしまっていた。


 すっかり日は落ちてしまって、手に持っている懐中電灯の電源を消してしまえば、自分の姿だってわからないくらいになってしまった。足場は舗装されていた道路、ところどころコンクリートが剥げてしまっていたり、穴が空いていたりして、私は用心しながら夜道を歩く。時計を確認すると夜中の二十三時。作業は明日も持ち越しだろう。音のない宵闇よいやみの中を私は一歩一歩、確かめるようにして歩くと、ポツンと明るく光っている場所を見つけた。

 合流地点でアイザキが待っていたのだ。私の方に気づくと手を振る。私は手を振り返して彼の方に近づいた。


「何基終わった?」

「五基よ」

「いいペースだ。こっちは七基。クレメンテさんも僕と同じくらいの手際の良さだと考えれば、二〇基終わったわけだ。順調に作業を進めれば、三日目に突入することはなさそうだね。————そういえば、何か異常はあった?」

「あとでまとめて報告するわ。彼は?」

「さあ。姿を見せていない。もうそろ————」


 もうそろそろ、姿を現してもおかしくないけれどね。とアイザキは言おうとして、言えなかった。たった一発、たった一発の銃声が、私の意識を、アイザキの生命を、時間を、一瞬にして全て奪っていってしまった。彼は口をわなわなと震わせながら、今起きている現実が信じられないような顔をして、私の目を見て、その場に倒れた。


 何が起きたの? と自分に訊ねる。こっちが聞きたい。ドスン、と地面が揺れたかと思ったら、アイザキが私の足を掴んだのだった。私は怖くなって尻もちをつく。びっくりしたあまり「正しい息の仕方」まで忘れてしまったみたいで、息苦しくなって、過呼吸になって、ようやく正しい息の仕方を思い出した。それから論理的な思考方法を取り戻して、私はようやく自分の状況を把握する————アイザキが撃たれてから、ここまで数十秒かけた気もするし、実際には三秒と経っていないかもしれない。

 とにかく私は怖くなって、必死になって、遠くへ逃げ出そうと駆け出した。アイザキのことなんか気にかけられなくなって、私は出来るだけ遠くへと、自分の胸を締め付けるような恐怖に比べたら、暗闇なんて全く怖くなかった。無我夢中むがむちゅうで走っていって、転がり込むようにエレベーターに乗り込んで、地下都市へと帰る。


 エレベータールームからドアを開けて外に出ると地上とはうって変わって、ギラギラと太陽が私に照りつけた。暑くはない。むしろ物凄く寒かった。理由も分からず、歯がカタカタと震えてしまっている。暗くて静か、敵のいない、そんな自分のセーフティなスペースへとこもってしまいたい、そんな気分だった。

 自分の部屋までどうやって戻ったかなんてことは、記憶にない。気づくと目の前にソファがあって、私は力なくそれにうつ伏せになって眠りについた————っていうのは嘘だ。

 そんな簡単に眠りにつけるわけがない。部屋の中はいたって静かで、事実なんの音も聴こえないはずなのに、誰かが声を荒らげて私に責めているような気がする。目を強く閉じれば、まぶたの裏の小宇宙が、呆然ぼうぜんとした表情で地面に倒れるアイザキの顔が写って、私はうなされる。


 ようやく眠れると思ったら、夢をみた。


 高所作業中に足を滑らして落下する。落下して地面に激突する。地下都市の天井から、もう一度地面に激突する。痛みはないけれど、「死ぬ」という感覚を律儀に脳は造り出す。

 地面に激突したと思ったら、私は発電機のナセルの中にいた。何を考えているのか、私はふらふらとナセルのハッチを開けて外の景色を見る。それだけでは飽き足らず、体を乗り出して、再び落下する。痛みは無い。あるのは恐怖だけ。でもそれは微熱が何週間も続くより辛いことだった。


 落ちて、落ちて、落ちて、落ちて————思ったのだけれど、私たち、ずっと同じ時間を繰り返しているんじゃないかしら。時空間って実は閉環構造へいかんこうぞうを取っていて、私たちはその円環の中に「時間」という名前のテクスチャーを貼っては剥がしてを繰り返しているだけで、神的な、絶対的な、宇宙的な視点から私たちを観察した時、私たちはドーナツ型の水槽をぐるぐると泳いでいるように見えるんじゃないかしら。

 なんて素晴らしいアイデアかしら! と思っても、夢から覚めてしまえば、記憶に霞が掛かってしまったみたいになって、二度と思い出せなくなってしまうものだ。


 最悪の目覚め。

 二日酔いの朝みたい……っていうのはありきたり過ぎて、私を襲う絶望感を表現するにはあまりにも不十分だ。まるで大切な人を失った悲しみを引きずったまま、朝日を迎えてしまったかのような————その表現はあまりにも直接的すぎることに、自分で気付かされた。夢の中にいる時だけは、アイザキのことを忘れてしまっていたようだった。打ち放しのコンクリート壁を何分にらんでも、彼がひょっこり顔を出す、なんてことはなかった。けれど、私はそのような現実が信じられない————今にでも彼が「おはよう、さあ、今日も一日頑張ってこう」なんて、私を励まして、私の瞳をのぞんで、母を思い起こし、地上に行って発電機のメンテナンスを再開して。


「……ああ。今日はメンテナンス二日目だっけ」


 私は思い出したかのように呟く。あまりにもかすかで、亡霊のような声だったから、とても自分のものには思えなかった。震えているのは声じゃなくて、私の体だった。何故か、涙が止まらない。でも、泣いている暇なんか無い。今日はメンテナンス二日目だから頑張らなきゃ。そう考えて、着替えようとして自分が着ている白いシャツに手をかけた時に、シャツにべっとりとこべり付いた血痕に気付いて、私は正気じゃいられなくなった。


 アイザキが突然、何者かに銃で撃たれたことは紛れもない事実だった。そして最悪なことに、私は怖くなって、彼を置いて逃げ出してしまったのだった。胸が圧迫感で苦しくなる、痛い。私は胸を押さえながら、酸素のなくなった水槽に無理やり押し込められた魚みたいに、口をパクパクさせる。涙がボロボロと溢れて止まらない。


 私は何もできなくなって、比喩じゃなくて本当に一日、ソファにぐったりと背中を押し付けて、コンクリートの壁を、ぼうっと、眺めているだけしかできなかった。


 普段は壁に掛けられた時計が私に時刻を教えてくれるのだけれど、時計の短針は三を指したままだった。職務怠慢だ。地下都市はイカれた疑似太陽のせいで、時間の進み具合が全くわからない。飢餓、飢渇、喪失、虚無、そう言った、生きる上で不要としか思えない悪意ある感情が私の精神を痛めつけ、なぶり、レイプされたような気分。

 一時間しか経っていないと言われても、一週間も経ったと言われても、私は信じられるような気がする。放送局が不在のラジオから流れるノイズがコンクリートに反響して、私の意識はまどろむ、しかし、水面下に落ちることはない。悲しい。


 死にかけた世界で物事のほとんどに意味が失われた今、私が唯一信頼していた人間が突然の死を迎えた。この苦しみを誰が真に理解出来るの? いいや、誰も出来やしないよ。と誰かが私の代わりに答える。嬉しいとか、悲しいとか、怒っている、みたいな原始的な感情のボルテージの極に立っている状況の時、言葉は不要なのだ。ただ、行動のみが口よりも多く語ってくれる————私の胸の内には空へ行かなければという謎の使命感が生まれていた。 


 混濁した意識の中で、私は空に吸い込まれるように、まるで魔笛まてきに魅了されたかのように、立ち上がって、ベランダの方へと向かって歩き出そうとした。窓から見える、青々とした空が清々しい。手を伸ばせば、そのまま全部、手の中に入ってしまいそうな————そう思って、窓のクレセントに手をかける。

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