第2話 夏



 夏である。


 私は夏が好きだ。

 突き抜けるように青い空も、そこにどっしりと浮かぶ入道雲も、けたたましく愛を叫ぶセミの声も。

 夏の闊歩を感じるそれら全てを、私は愛している。


「最近、朝あんま会わへんね」

「夏休みは朝練早いから」

「夏休みか!」


 そう言えば確かに、最近やけに通学路の子供達が少ないなとは思っていた。まさかもう夏休みに入っていただなんて。


「あれ、そしたら今日の朝練は?」


 いつもの通勤路。いつもの時間。

 悲しきかな、長らく長期休暇なんてものにあやかっていない私は、七月末の本日も、いつも通りの時間に出勤だ。


 いつもの通学路。青々とした木々の陰で見る柳くんは、しばらく見ない間にやつれたように見える。葉の間から差す夏の陽射しに顔をしかめるその姿は、今にも倒れてしまいそうだった。


「今日は……病院行ってから、部活行く」

「え……なんで、病院?」

「わからん。ずっと全身ダルいし、微熱続くし……一応診てもろた方がええ言われて」

「大丈夫? 一人で行ける?」

「琴ちゃん、俺な、もう13歳や」

「うん。……しっかり診てもらいね」

「うん」


 そう、ゆったりと頷く幼馴染み。

 その足元に伸びる影が大きくなっていることに、私はまだ、気づかない。



◇◇◇



 その日は散々な一日だった。

 どうしたって柳くんのことが頭の隅でちらついて、ずっとどこか仕事に集中し切れなくて。


 だって、あんな風に俯く柳くんを私は初めて見た。


 全身怠くて、微熱が続く。こっそり職場のパソコンで検索をかけたら『白血病』や『結核』なんていうそうそうたる病名がずらりと並んで、それを読んだらもう駄目だった。

 気付けば私は、職場の人達に平謝りをして、午後休を捥ぎ取っていた。


 形振り構ってられなかった。白血病。結核。学の無い私にはよく分からないけれど、何か大変な病気だということは分かる。


 セミがけたたましく鳴く、いつもの道。空のてっぺんに昇った太陽がアスファルトと私を焼く。

 パンプスで走ったのなんて久しぶりだ。小さな段差に躓いて、盛大にヒールが欠けた気がする。ああもう、セミがうるさい。


「おばさん! 柳くんどうやった!?」

「琴美ちゃん!?」


 飛び込んだ浦川家。専業主婦の柳くんの母、多喜子たきこさんは久々に顔を出した『元・お隣さん』に目を真ん丸にした。


 それもそうだろう、就業中も就業中のはずの真昼間に、オフィススタイルの汗だくの女が髪を振り乱してリビングに押し入ってくる。ちょっとしたホラーだ。


「柳ね、ほんまはそのまま部活行く予定やったんやけどね、」

「せや! そうやった!」


 そう言えば朝、そんなことを言っていた気がする。焦り過ぎだろう、私。

 そう、叫び出しそうな私の肩に触れて、おばさんは「ええんよ!自分の部屋で寝てるんよ、柳!」と何度も頷いた。


「寝て、って……そんな悪かったん!?」

琴美ことみちゃん、いったん落ち着き」


 そう言っておばさんは私をダイニングの椅子に座らせた。まぁ一杯、と差し出された麦茶。青みがかったグラスに入ったそれを一気に煽って、気付く。私、喉、カラカラだった。


 そうして私の前の席に座ったおばさんは、ゆっくりと話し出した。


「診断自体はね、正直、思ってた通りやったんよ。成長痛やって」

「成長痛……?」

「あの子、今はあんなやろ。お父さん大きいし、そのうち一気に身長伸びるんちゃうかなぁとは思ってたんよ」

「……他に、悪い病気でも見つかったん?」


 私の言葉におばさんは緩く首を振る。

 そうして、しばらく視線を彷徨わせたあと、言いづらそうに小さく息を吐いた。


「……部活で、先輩と喧嘩したみたい」

「……そんなタマちゃうよ、あいつ」

「私もそう思いたいんやけどね。皆の前で、あの子から手ぇ出したみたい。それで、一週間、部活動停止になった」

「……本人はなんか言うてるの?」

「私には、なんにも」


 でも、と。おばさんは目を伏せる。


「部屋で、泣いてるみたいなんよ」

「……会って来てもいい?」

「お願い出来る?」


 ごめんね。私はあの子の母親やから……私は、あの子をきちんと叱らんといかん。そう言って眉を寄せるおばさんの肩に触れて、撫でる。細い骨の形が柳くんとおんなじで、何故か泣きたくなった。


「柳くん、入るよ?」


 階段を上がってすぐ。突き当りの部屋のドアをノックしてそう声をかけるも、返事はない。奥で何かが蠢く音がした。


「柳くん」

「…………」

「身体、どうなん」


 久々に足を踏み入れた幼馴染みの部屋。

 カーテンや壁紙は昔のままだったけれど、勉強机や家具はすっかり変わっていた。


 スポーツ選手のポスターに、転がったカラフルなボール。机に並ぶ参考書は中学生用のものだろうけど、きっともう、私には理解できない。


「返事しいや。身体、どうなん」

「…………」

「何があったんかは知らんけど、母親泣かす息子なんか最低やからな」

「……おかん、泣いてた?」


 そう、もそりとベッドの上の塊が動く。

 水色の布団カバー。顔を覗かせた柳くんの目は泣き腫らしてパンパンだった。


「身体、大丈夫なん?」

「うん……原因わかったら、べつに。背ぇ伸びるんは、嬉しいし。身体痛いけど」

「痛い?」

「肘とか、膝とか。腰も痛い」


 そう言って柳くんはベッドに腰掛ける。泣いたせいか、声までガラガラだ。その痛々しい姿に思わず「よかった」と抱きしめてしまいそうになるが、我慢だ。


 ケジメは付けなければならない。


「あんた、先輩殴ったんやってな」

「……俺、悪うない」

「今そんな話してへん。あんたが先輩を殴ったんかどうかを聞いてんねん」

「…………」


 私の言葉に柳くんはバツが悪そうに目を逸らす。それが全ての答えだ。


「それやったら、あんたが悪い」

「……だって、アイツ、」

「だってやない。手ぇ出したらな、どんな事あろうが手ぇ出した側が悪いんや」


 そんな私の言葉に、再び柳くんの目に涙の膜が張る。大きな目が揺らいで、眉間どころか鼻にまでしわを寄せて、柳くんは大粒の涙を零した。


「あいつ、俺のこと、いい気味やって」

「…………」

「前の練習試合、俺がスタメンで出たんが気に食わんねん。裏でごちゃごちゃダサいことやっとんのも分かっとった。せやけど、今日……っ、そのまま部活辞めろって、チビがでしゃばんなって……俺、腹立って……!」


 

 最後はほとんど嗚咽で言葉にならなかった。柳くんは全身を震わせて、しゃくり上げながら怒りを吐き出す。いや、怒りに隠れた不安と悲しみを、血を吐くみたいに。


 そんな幼馴染みの細い肩を、今度こそ抱き寄せる。

 華奢な骨。母親そっくりのそれを撫でて、背中に手を回して抱き締めた。


「それでも、手は出したらあかんよ」

「……わかっとる、そんなん」

「柳くん、あんたは賢い子よ。周りのことも、自分のことも、よう見えてる。見え過ぎて、苦しくなる事もきっとこの先たくさんある。世の中には、自分と違う人間を、自分より優れた人間を認められんで、あんたが考え付きもせん方法で貶めようとする人間がおる。それでも、あんたは絶対それに乗ったらあかんのよ。柳くんは賢い子よ。分かるやろ?」


 ね、って。見下ろした先、柳くんは小さく頷く。その目はもう揺れていなかった。


「次会うた時、先輩にちゃんと謝れる?」

「……殴ったんは、俺が悪かったから」

「うん。いいこ」


 まあるい頭。少し汗ばんだ髪を撫でて、頬を寄せれば、むずがるように抵抗された。


「あんたほんま、しっかりしいや。死ぬ気で練習して、そんなしょうもない男、実力で叩きのめしたり。男はな、どんな腹立つこと言われても、母親バカにされたとき以外はケツの穴締めて耐えるもんや」

「ケツの穴て」


 ふふ、と柳くんが笑う。

 泣き腫らして張った皮膚のせいで不格好なその笑顔が、やっと彼を年相応の子供に見せてくれた。


「それでも耐えられんかったら、うちにおいで。愚痴でもヤケ酒でも付き合うたるから」

「ヤケ酒て。おかん泣かすな言うたん誰や」

「なんやったら、貴船神社まで連れてったるわ。琴美と柳、怒りの丑の刻参りや」

「琴ちゃん結構怒っとる?」

「当たり前やろ! 私の可愛い幼馴染みになにしてくれとんねん!」


 怒りのあまり、知らぬうちに腕に力が入っていたらしい。「痛い痛い!」と柳くんは声を上げて、ベッドに転がった。


「ほんま意味分らんくらい痛いねんて!」

「成長痛やっけ。そんな痛いもんなん?」

「そらもう琴ちゃん、これは結婚ですわ」

「前にも言うたけどな、身長抜かされたからて結婚はせんからな、アホ」


 部屋の中の蒸した空気。

 こんな夏もまた一興だと、窓に切り取られた入道雲を見上げた。


 夏である。




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