第一章

前世の記憶と乙女ゲーム


 ──現在は午後の授業中ではあったのだが、生徒の一人である少女が音を鳴らして立ち上がった。

 カタンと軽い音がしたのは、上等な細工で作られた。柔らかい羽をめられたクッションは、そのはずみでゆかへと落下する。

 大きな窓から見える太陽はしずみかけ、あたりをオレンジ色へと染めていく。広い造りの教室にざいせきする生徒は、王族と貴族が合わせて三十人。

 とつぜんの出来事に、授業を受けていた生徒の視線がいつせいかのじよへと集まった。


 彼女はティアラローズ・ラピス・クラメンティール。この国のこうしやくれいじようであり、王太子のこんやくしやでもある。


 ティアラローズは無言のまま息をあらくし、苦しそうに顔をゆがめた。しゆくじよとしていかなる時もゆうであれ、という教えを実行出来ないほどのしようげきが、彼女をおそっているのだ。

「……うぅっ」

 苦しそうな様子を見て、同じクラスに在籍している婚約者のハルトナイツがまどいの声をあげる。しかしそれよりも早く行動に移したのは、教室のおくに席を取っていたアクアスティードだった。

 ティアラローズの体が、その場でふらりとれる。たおれそうなほどの眩暈めまいを必死におさえ、気を強く持たなければと自分に言い聞かせる。

 しかし、彼女のそんな努力を神は嘲笑あざわらう。ハニーピンクのふわりとしたかみい、れいひとみはきつく閉じられてしまった。

 すぐさまあがった悲鳴は、どの令嬢のものだったろうか。

 けれど、ティアラローズの体が床にくずれ落ちることはなかった。けつけたアクアスティードによって、きとめられたからだ。

 その大きな手はティアラローズをやさしく支え、大切な宝石をあつかうように、彼女を横抱きにする。

 心配する声に、苦しむ彼女は返事が出来ない。抱きとめられたことも、気付かない。

 それでも、かすかな意識は言葉をつむがせる。

「やだ……。わたくし、悪役……っ」

 だれにもわからないつぶやきを残して、ティアラローズは意識を手放した──……。




『やった、新しいスチルだ! これでハルトナイツのルートは完全こうりやく!!』

 うきうきした声で、少女が乙女おとめゲームをしている光景がティアラローズの脳内にかんだ。

 何事かと思ったが、そのゲームのたいはここ、ラピスラズリ王国だった。

 思わず「え?」と、彼女は声をあげる。しかし、その疑問はいつしゆんにして解かれる。なぜなら、ティアラローズの脳内に大量の情報が入ってきたからだ。


 ──これは、私の前世の記憶だ。


 人気だった乙女ゲーム、『ラピスラズリの指輪』の世界に転生したということをしゆんに理解した。

 ティアラローズという人間は、ゲームのキャラクターなのだ。

 まさかと、この短い間に何度もそう思ったけれど──どう考えてもこの世界はゲーム『ラピスラズリの指輪』だった。

 中世を思わせる、ほうありの大人気ファンタジー乙女ゲーム。とても綺麗なイラストが話題になり、発売前から予約がさつとうしたのだ。

 彼女も、そんなファンの一人。発売日にしっかりと手に入れ、夢中でプレイをした記憶がよみがえった。

 大好きな乙女ゲームのキャラクターになれたのは、正直に言ってうれしいとすら思う。どのキャラクターも愛してやまないのだから、お近づきになりたい。

 攻略対象者は、王子、ヒロインのていじゆつ、学園の

 どのキャラクターもてきで、学園以外に出かけなければ攻略できないというのもポイントだろう。

 けれど、転生したキャラクターに問題があった。ティアラローズ・ラピス・クラメンティールとは────ヒロインではなく、悪役令嬢なのだ。

 つまり、ティアラローズは誰かと結ばれるというハッピーエンドを迎えることが出来ない。


 ──ヒロインだったら幸せだったんだろうけど……。

 悪役令嬢ポジションの自分では、今後の人生が楽しく過ごせるかわからない。

 この乙女ゲームのヒロインは、辺境はくしやくの養女だ。強力なりよくを持っていた彼女は、平民から貴族の養女になり……王都にあるこの学園へ、編入生としてやってくる。

 ……というのが、このゲームのストーリーだ。

「まずは、じようきようかくにんしないと……」

 ティアラローズは、現在自分の置かれている状況を整理する。

 記憶をせて、今とゲームの時系列を比べてみるのだ。

 そして問題は、ヒロインが本当に存在しているのかという点。ゲームのキャラクターとはちがい、ヒロインはプレイヤーになるのだ。

 もしかしたら、存在自体がない、という可能性があった。けれどすぐに、ティアラローズは彼女の存在を思い出した。

 綺麗なくろかみに、ゲームの設定と同じ身の上。加えて、ハルトナイツのそばにいつもいる。彼女がヒロインであることは、明確だった。

「確か、ヒロインが編入してきたのは二年前だったはず」

 日付を計算して、ゲームのエンディングまでをカウントしていく。そしてすぐに、もうおくれだということを知る。

 なぜならば、今日はエンディングである卒業パーティーの前日だからだ。

 明日のパーティーで、ティアラローズは婚約者であるハルトナイツに婚約きつけられるのだ。


 ハルトナイツ・ラピスラズリ・ラクトムート。

 この乙女ゲームのメイン攻略キャラクターであり、ラピスラズリ王国の第一王子だ。

 ヒロインと結ばれるまでは、悪役令嬢である自分の婚約者でもある。


「…………最悪」


 ゆっくりと目を開き、ぽつりとさびしげに呟いたティアラローズの声は──空中に消えるはずだった。

 けれど、その声に返答があった。

「起きたか。……まだ、ていればいい。今、馬車の手配をしているからな」

「え? ……ハルトナイツ様。わたくし、ええと」

 声の主は、ゲームのメイン攻略対象キャラクターであり、ティアラローズの婚約者であるハルトナイツだった。

 さらさらのきんぱつに、んだ青い瞳。まるで硝子ガラス細工のようなそれは、見つめられただけでため息がれてしまいそうだ。整った顔立ちはハルトナイツの存在感を際立たせ、けれどじやさを残しているためどこか優しい。

 ずっとプレイをしてきたゲームの攻略対象キャラクターが、目の前にいる。それはティアラローズをとても不思議な気分にさせた。

 少しだけ胸がどきどきするのを感じたけれど、それも次の瞬間にははかなくだってしまう。

 現実では、ゲームのようなあまい言葉をもらうことは出来ないのだ。

「君が倒れるなんて、初めてだな。……おれがアカリにばかり構うから、気でも引こうと思ったのか?」

「…………」

 ハルトナイツの言葉に声をあげそうになるのを、ティアラローズはぐっとえる。ひどいことを言われたように思うが、仮にもハルトナイツはこの国の王太子だ。


 ──ゲームのハルトナイツと、全然違う。

 なんだか、絶望したような感覚に襲われた。もちろん、プレイをしていた自分はヒロインだったのだから、ハルトナイツがプレイヤーだった自分に優しかったのは当たり前だ。

 それでも、あわい期待をしてしまうのが乙女ゲームプレイヤーではないだろうか。

 ──婚約者だったはずなのに、いつしよに出かけたりしたことがなかったなぁ。

 単にハルトナイツがヘタレだったのか、それともティアラローズがきらわれていたのかはさだかではないけれど。大好きだったゲームだけに、ショックは大きかった。

 しっかりとヒロインに攻略されているかれがどういう行動にでるか、ティアラローズには予想不可能だった。何か気にさわることを言えば、不敬だとでも言われてしまうのではないか。

 目の前にいる彼が、ゲームで優しかったハルトナイツと同じだとは、どうしても思えないのだ。こわいとすら、感じてしまうほどに。

「……いいえ。あまり体調がよくないようで、ごめいわくをおかけいたしました」

「一応、俺はティアラの婚約者だからな」


 ──


 その言葉に、ティアラローズはうつむく。

 仕方がない。なにせ、今のハルトナイツはヒロインであるアカリに攻略されてしまっているのだから。

 ──めずらしい名前。まるで、日本人みたい。

『ラピスラズリの指輪』は、プレイヤーが主人公であるヒロインの名前を入力する。そのため、公式設定の名前がない。

 もしかして、ヒロインも自分と同じような存在ではないだろうか。そんな不安がティアラローズの胸をよぎる。

 しかし今、それを考えていても仕方がない。

 乗り切らなければならないのは、悪役令嬢としての課題は、もっと別のところにあるのだから。

 こほん、と。ハルトナイツがわざとらしくせきをして、ティアラローズを見た。

「……明日は卒業パーティーだが、少し所用があるんだ。すまないが、入場のエスコートが出来そうにない」

 まったく申し訳なさそうにせず、ハルトナイツがベッドで横になったままのティアラローズへ伝える。

 金髪へきがんという誰が見ても絶賛するその容姿だが、今はひどく冷たい目を見せていた。

 何の返事もしないティアラローズに、しかしハルトナイツは何も言わない。

「…………承知いたしました。明日は、一人で会場へ向かいます」

 重いちんもくの後、口を開いたのはティアラローズだ。

 婚約者にエスコートをされないパーティーは、どれほどくつじよくてきだろうか。

 ……けれど、彼女は知っているのだ。一人で入場したパーティー会場に、ハルトナイツとヒロインが待ち構えており、自分の断罪イベントを始めることを。

 ゲームで何度もプレイしたのだ。どのような展開になるかも、もちろんティアラローズはあくしている。

 現在のプレイルートは、ラピスラズリ王国の第一王子である王太子のハルトナイツ。

 一番人気だった彼は、それはもう、ひたすらに……ヒロインをできあいする。優しいがおで甘い台詞せりふささやき、エンディングの後は王族のみが使用出来る大聖堂でせいだいけつこんしきげる。

 元々の婚約者であるティアラローズは、ハルトナイツをうばわれないためにきつい言葉をヒロインにぶつける役どころ。

 ストレートに言えば、ヒロインをねちねちいじめる悪役令嬢。

 それを断罪されるのが、明日の卒業パーティー。

 ──でも、いったいどう断罪する気なのかしら。

 ティアラローズが転生したたましいを持っていたからだろうか。記憶しているゲームほどには、酷いことをしていないように思えるのだ。

 確かに、夜会の時は「婚約者でもない男性と、二回以上ダンスをするものではありません」と注意をした。

 婚約者のいる男性にボディータッチをした際は、「その方には婚約者がいらっしゃいますよ」と伝えた。

 きつい口調になってしまったかもしれないが、それは常識であり、男性の婚約者であった令嬢は不安に瞳を揺らしていたのだ。

 ラピスをたまわる侯爵家の令嬢であるティアラローズが、伯爵家の令嬢に注意をすることに、何の問題があるのだろうか。

 もちろん、これが逆の立場であったならば話は別である。

 ラピスのしようごう。王家のために多大なる功績を残した家は、家名にラピスラズリ王国のラピスを加えるというめいが許される。

 これは大変にほまれ高いことで、そうそう得られるものではない。そのため、王家の次に権力を持つのがラピスを賜った貴族だ。

 その次に、こうしやく、侯爵、伯爵、しやくだんしやくと続く。

 ゆえに、ティアラローズは王族の次に位の高い貴族の令嬢なのだ。

「……ずいぶんなおうなずくのだな」

 返答を聞き、おどろきに目を見開いたハルトナイツの顔が彼女の視界に入る。

 ティアラローズは、今まで婚約者としてしっかりとってきた。

 きついところがあったことは認めるが、それは、小さなころからおうとなるための教育を受けてきたからだ。

 身分の低い者に、軽く見られることはあってはならない。また、王太子であるハルトナイツが軽はずみな行動を取ることもあってはならないのだ。

 さいしようである父に、主人がちがった方向に進みそうな場合は必ず正すようにと言われ育ってきた。

 その言葉通り、ティアラローズはかんぺきに社交をこなし、ハルトナイツの行動をしっかりと見ていた。そうでなければ、ハルトナイツは「社会勉強だ」と、街へおしのびで出かけるようなこともしたから。

 ゲーム内では悪役令嬢とされたティアラローズ。しかし、そのしんらつな言葉の中には、王太子であるハルトナイツへの愛情がたくさんめられていたのだ。

 そのことに気付けたのは、日本人だった前世から転生し、かのじよしんがティアラローズとなったからだろう。


 ──でも、それはちゃんとハルトナイツ様に伝わっていなかったみたい。


 大好きなキャラクターだったのにな……と、ティアラローズは寂しく微笑ほほえむ。

「ハルトナイツ様にわがままを言い、困らせるわけにはまいりませんから」

「いつもならば、婚約者をともなわないなど非常識だと。そう、言うであろう?」

「…………」

 ──何を、当たり前のことを言っているのだろうか。この王子は。

 それがわかっているのに、それでも一人で入場しろというのか。

 思わず、ハルトナイツに対して悪態をついてしまう。本当にゲームのキャラクターと同一人物なのかと、疑問すら浮かぶほどだ。

 今までであれば、もちろん注意をした。婚約者として、王太子として、決してずかしい行いをしてはいけないと。

 けれど、今は違う。前世の記憶をもどしたティアラローズは、すでにあきらめてしまっているのだ。

 明日のエンディングをむかえるのは、決定こう。そして、ハルトナイツの態度を見てもティアラローズを重要視していないことがわかる。

 今、ハルトナイツに彼女の声が届くことはないだろう。

「まぁ、いい。こちらとしてもなつとくしてくれた方が助かるからな」

「はい」

「では、俺は戻る。この後、外せない約束があるからな」

「おづかいいただき、ありがとうございます」

 医務室のとびらを、外にひかえていた従者が開く。ハルトナイツはそのまま出て行き、室内にはティアラローズ一人が残された。


「……わざわざ、ひとばらいをしていたのね。そうよね、そうでなければ、わたくしにいやみのひとつも言えないものね」

 しんとした室内で、ティアラローズの声はよくひびく。ため息をついて、これからどうしようかと頭をなやませる。

 いっそ、明日の卒業パーティーを欠席してしまおうか? そんな考えがのうをよぎるが、すぐに打ち消す。

 ラピスを賜る侯爵家の令嬢が出席しないのは、外聞がよろしくない。

 両親にめいわくをかけるのだけは、嫌なのだ。

 前世の記憶を思い出しはしたが、今の自分のことだってちゃんとわかっている。優しい家族に、心配をさせたくはない。

「断罪された悪役令嬢は、どうなるのだったかしら。……そうだ、確か国外追放だった!」

 ゲーム内では、断罪後のティアラローズに関するしようさいな記述はない。しかし、エンディングロールで国外追放をされたという一文があったことを思い出す。

 けいでないのならば、だいじようだろうとあんする。いっそ開き直って、国外で生活をするのも楽しいかもしれない。

 侯爵令嬢とはいえ、王太子に婚約を破棄されれば……幸せなけつこんを望むのは厳しい。ラピスの称号や、権力に群がってくる男性はいくらでもいるだろうが、そんなものはお断りだ。

「国外で、恋をして、平民として暮らす……。うん、それも幸せかもしれない」

 ぽつりともらした言葉は、今までハルトナイツと話していた難い口調ではなく、とても柔らかいものだった。

 幸いなことに、ティアラローズの前世は日本人。いつぱんじん、つまりはしよみんだ。生活の豊かさでは日本が上になるけれど、きっとじゆうなんに対応することが出来るだろう。


 ──それに、あんな王子と結婚をしたら……絶対、将来は苦労の連続に違いない。

 もうひとつため息をつく。

 大好きだったゲームのキャラクターであるハルトナイツは、いない。あれは別人なのだと思うことにした。

「明日は、いったいどうなるのか……」

 胸の内に不安はあるが、展開はわかる。

 おとなしく婚約破棄を受け入れて、そっとパーティー会場から退場しよう。そう決意し、ティアラローズは準備された馬車で屋敷へと帰った。




 時は少しだけさかのぼり、ティアラローズが倒れた教室に戻る。


 アクアスティードは意図せずに、初めていとしい彼女にれた。だんから笑顔を絶やさず、健康なティアラローズが倒れるなんて、彼にはとても考えられなかった。

 ──いったい、何が起きた?

 彼女を医務室へ運びながら、アクアスティードは思考をめぐらせる。

 王太子の婚約者である彼女は、つねごろ、周囲からの重圧を受けている。

 それのストレスという可能性も考えられるのだが、じような彼女のことを考えるとそうではないという結論が出る。

 ──ならば、原因はあの女か?

 彼女の婚約者である王太子には、仲むつまじい女子生徒が一人いる。

 侯爵令嬢である彼女を捨て、その令嬢をめとるのではないかとうわさされているほどだ。

 それが本当であれば、アクアスティードは何のえんりよもせずに彼女へときゆうこんをしただろう。

 ラピスラズリよりも大国である、マリンフォレストの王太子が望むのだ。彼女の意思を除けば、すぐに用意は整うだろう。

 もちろん、アクアスティードは無理やりことを進めたりするつもりはない。

 彼女をベッドに寝かせて、そっと医務室を後にした。頭をり、この想いを振り払う。


 この学園生活も明日には卒業という日を迎えるのだ。このようなうわついた気分もすべて収まるのだと、誰もが知っている──……。



「……はぁ」

 ティアラローズが前世の記憶を取り戻し、一日がった。

 今日は、ゲームのエンディングである卒業パーティーの日だ。

 屋敷でたくを済ませ、エスコートのないまま学園へと向かった。

 今は備え付けられているゲストルームで紅茶を飲み、心を落ち着かせている。

 王族をも受け入れるこの学園は、設備がしっかりと整えられている。調度品も部屋ごとに用意され、生徒の好みに合わせることも出来るのだ。

 ティアラローズが現在使っているゲストルームは、セピアを基調とした落ち着いた造りになっている。それに合わせて、職人が木をそうしよくして作った家具。

 どれをとってもらしい出来で、いつまでも見ていたいとすら思う。けれど、出るのはため息ばかり。

「ティアラローズ様。……やはり今からでもだん様にお伝えして、エスコートして頂いてはいかがですか?」

 柔らかなティアラローズの髪を整えながら、じよがゆっくりと口を開く。

 今日のティアラローズは、うすい水色を基調とした、上品なレースを使ったAラインのドレスだ。背中のこし周りにはわいい花と、レースのリボン。バッスルラインのふわりとした布が、彼女のふんを引き立てる。

 心配されることを嬉しく思いながらも、左右に首を振る。

「いいのよ、フィリーネ。お父様にはお仕事がおありですから、ご迷惑になってしまうわ」

「ですが……」

 主人おもいの侍女は、名前をフィリーネ・サンフィストという。ティアラローズの二さい年上で、今回彼女が一人で入場することをとても心配しているのだ。

 淡い黄緑色の髪がさらりと揺れて、セピア色の可愛らしい瞳をのぞかせる。

 しかしそれを制止し、「大丈夫よ」とティアラローズは微笑む。


 通常、婚約者などのエスコートをしてくれる相手がいない場合は親族を……というのが一般的だ。今回の卒業パーティーも、相手のいない令嬢は父親や男兄弟にエスコートを依頼する。

 しかし、ティアラローズの父は国の宰相であり、本日の卒業パーティーでも仕事があるのだ。国王へいが参列されるので、という大事な役割がある。

 むすめを溺愛する父のことだ。国王を放置し、ティアラローズのエスコートをすることは目に見えている。

 そのため、ティアラローズはあえて父親に何も伝えなかった。

「でも……。そうね、確かに、私が一人で入場するのをお父様がごらんになったら……」

「ごらんになったら……?」

「…………いかくるうに違いないわね。もしかしてわたくし、判断を間違ってしまったかしら」

 もちろんその通りではあるのだが、ティアラローズは断罪イベントという最重要課題にしか頭が回っていない。

「ティアラローズ様……」

 あきれたフィリーネの声に、しかしと考える。

 結局父親が怒り狂ったところで、悪役令嬢断罪イベントはそのままかいさいされるのだ。

 どちらにしても、父の意識はそちらに向くからエスコートの件はそんな大事にならないだろう。ほかの学生や招待客もしかり。と、心のかたすみでそうなればいいなと思う。

「わたくし、やはりティアラローズ様が心配です。おつらいことがあれば、かならずこのフィリーネにお伝えくださいませね?」

「ええ。ありがとう、フィリーネ。貴女あなたが味方でいてくれるだけで、十分よ」

 ティアラローズが小さな頃から、まいのように育った二人だ。

 主人であるティアラローズの命令が絶対であったとしても──……何かあった時は、絶対にお助けしようと心にちかっている。

 フィリーネの言葉に、ティアラローズの心は少し落ち着いた。

 一時間もしないうちに、卒業パーティーという名の断罪イベントが始まるのだ。

 今、傍にいてくれているのが気心の知れたフィリーネであって、よかったと思う。そうでなければ、これからの展開をがんれないかもしれなかった。

「そうでした。ティアラローズ様、甘いクッキーとケーキを用意していたんです」

「スイーツね! 嬉しい、ありがとうフィリーネ」

「はい。紅茶もおれしますね」

 主人であるティアラローズの気持ちが少しでもほぐれるように、と。フィリーネがお茶とお菓子のセッティングをしていく。

 ティアラローズは、前世からスイーツ──おが大好きだ。それは、この世界に転生した時もかわらなかった。

 何か嫌なことがあっても、お菓子を食べて乗り切ってきたのだ。

 厳しい貴族教育を終えられたのも、お菓子があったからこそ。

 そんなティアラローズを知っているからこそ、フィリーネは甘いお菓子を用意した。

 せめて、卒業パーティーへ向かわれるまでは笑顔でいてしいと思ったのだ。そう思えば思うほど、フィリーネの中でハルトナイツの株が下がっていく。

 なぜ、自分の仕えるティアラローズをエスコートしないのか。よほどの理由があるのだろうが、それでも許せないだろうと笑顔の下で考えていた。

 その時、扉をノックする音が響いた。

「……フィリーネ」

「はい。少々お待ちください」

 卒業パーティーの開催時間がすぐだというのに、いったい誰が訪ねてきたのだろうと二人は顔を見合わせておたがいに首をかしげる。

 教師からの伝達事項か何かがあるのかもしれないと、ティアラローズは気にせずに用意された白と黒のアイスボックスクッキーへと手をばした。

 平民ではあまりぜいたくをすることが出来ないため、侯爵という身分はこの一点で大いにこうけんしてくれている。

 ぱくりとクッキーを口に入れると、ほっこり幸せな気持ちになる。

「んんっ、しい……」

 ほぅ……と、お菓子のように甘い笑顔をしながらクッキーを食べる。ごくじようの卵に小麦粉。ティアラローズが口にするお菓子はどれも一級品だ。

 にこにこしながらもう一枚のクッキーに手を伸ばそうとしたところで、呼ばれた声にその手が止まった。

「ティアラ様、お体は大丈夫ですかっ?」

「アカリ様、突然入られては困ります!!」

「……っ!」

 突然聞こえたヒロインの声に、ティアラローズはびくりと体を揺らす。

 フィリーネが再度「アカリ様」と強く呼ぶが、ヒロイン──アカリは、そんなことを気にした様子もなく室内へと入ってきた。

 それを見てやれやれと思うが、それを顔に出すことは出来ない。ティアラローズは席に着いたまま、わざと驚いたような顔を作りアカリを見る。

「まぁ。アカリ様、ごきげんよう。ご心配いただき、ありがとうございます」

「ごきげんよう、ティアラ様」

 にこりと微笑んであいさつを返すのは、この乙女ゲーム『ラピスラズリの指輪』のヒロインだ。

 ストレートの黒髪に、しつこくの瞳。無邪気な笑顔を向けてはいるけれど、その雰囲気はあまりおだやかだとは感じられない。

 リボンをあしらった、プリンセスラインのピンク色のドレスはとてもごうで可愛かった。きらきら光る宝石を髪留めにし、まるで天使のような愛らしさ。

 ──さすがは、このゲームのヒロインってところかしら。

 それに────……どう見ても、日本人です。

 ティアラローズが前世の記憶を思い出してから改めて見るヒロインは、まごうことなき日本人の造形だったのだ。

 まさか、フィリーネの制止を振り切って入室してくるとは思ってもみなかった。

 心の中でイラッとしたものが込み上げるが、ティアラローズは笑顔で対応する。

 相手が子供のような態度だからといって、こちらまでも同様の態度をとることはしない。

 こちらはラピスを賜った侯爵家で、アカリは伯爵家。無礼だといさめることはもちろん出来るが、それすらもめんどうだとティアラローズは思ってしまう。

 どうせ、もうすぐ断罪され国外追放なのだからと。

「昨日、教室で突然倒れられたから心配したんです。ハルトナイツ様も、とても心配してらしたんですよ」

「……ご心配をおかけしました」

 ハルトナイツはティアラローズの婚約者であるのだから、心配するのは当然だ。

 それをハルトナイツが優しいからだと言われるなど、どれだけティアラローズをじよくしたいのだろうか。

 ──本当は、エスコート出来ないと言われて、どんな顔をしているのか見に来た気がするけれど。

 好きになれそうにないヒロインだ。そう考えたところで、フィリーネがハルトナイツを伴い戻ってくる。

 白を基調とした礼服に、アカリと合わせた布地のタイ。鮮やかな金髪は、彼をよりいっそう引き立てていた。

「ごきげんよう。ハルトナイツ殿でん

 ティアラローズは、すぐに立ち上がり淑女の礼をとる。

 まさかハルトナイツまで来ていたなんて。

 エスコート出来ないと告げたくせに、卒業パーティーの開始間近にほかの女を連れて訪ねてくるなんて。

 その後ろにはフィリーネが能面のような笑顔をはりけて立っている。間違いなくおこっているとしようして、しかしお茶の用意を指示する。

「ああ。アカリが、倒れたティアラを心配していたからな。体調は……今日の卒業パーティーは大丈夫そうか?」

「はい。一晩しっかりと休みましたので、問題ございません」

 返事をしながらにこりと微笑んではみたが、フィリーネのように能面めいた笑顔になってしまったかもしれないと思う。


 ──なるほど。私が卒業パーティーに出席するのか、確認をしに来たのか。

 いそがしい身の上だというのに、ひまな時間もあるものですね。と、嫌みのひとつも言ってやりたいと思う。


 ティアラローズがすわっているソファの向かいにハルトナイツが座り、その横にアカリが座る。婚約者であるティアラローズの前でそのようなこうが許されるはずもないが……ハルトナイツはアカリを諫めたりはしない。

「ティアラ様がお元気そうで安心しました。ねっ、ハルトナイツ様!」

「そうだな」

「…………」

 無邪気に笑って、ハルトナイツのうでを取るアカリ。お前らはカップルか! そうツッコミたい気持ちを抑え、ティアラローズは早く退出してもらおうと決める。







「フィリーネ、そろそろ最後の仕上げをしないと間に合わないかしら?」

 時計にちらりと視線を送り、控えているフィリーネに予定していなかったことがらを伝える。

「そうですね。すぐに取りかからないと、卒業パーティーの開場には間に合わないかもしれませんね」

「えぇっ! ティアラ様ってば、まだ準備が終わっていなかったんですか?」

「そうか、忙しいところに来てしまったようだな。パーティーに間に合わないのは困るだろうから、俺たちはこれで失礼する」

「はい。……あまり時間を取れず、申し訳ありません」

 卒業パーティーに間に合わないかもしれないと言えば、すぐさまお帰りいただくことが出来た。

 そうですよね、だって間に合わなかったら断罪イベントの予定が狂ってしまいますものね。あまりにも素直な反応をするハルトナイツに、内心笑いが込み上げる。

 二人が退室したのをしっかりと確認したフィリーネが、すぐさま怒りをあらわにして口を開く。

「なんですか、あの二人は!! 殿下も殿下ですが、アカリ様は失礼にもほどがあります! ティアラローズ様をティアラ様と呼ぶなどと……。失礼すぎるではありませんか!! しかも、殿下のタイとアカリ様のリボンは同じ材質に同じ色ではありませんか」

 よく見ているものだと、ティアラローズはいっそフィリーネに感心してしまう。

「……そうね。注意をしたことは何度かあるのだけれど、アカリ様は時間が経つと忘れてしまうみたいね」

「まぁ……。随分残念な頭をされていらっしゃいますのね」

 自分の主人への無礼がどうしても許せないようで、フィリーネはさらに言葉を続ける。

「殿下も、なぜアカリ様を諫めないのか……。あれでは、王族に対してもひどく不敬でしょうに。あんな男にわたくしの大事なティアラローズ様をとつがせるなんて、考えられません。いっそ、婚約を破棄してしまってはどうですか? 旦那様でしたら、笑顔で賛成してくれますわ!」

 ──あら、フィリーネってば大当たり。

 まさしくこれから、婚約破棄をされる断罪イベントだ。まさにその案が採用されるのだ。

「もう、フィリーネったら。殿下の前で言ったら不敬ですよ?」

「もちろん、今はいらっしゃいませんからね!」

 笑顔で「何を言っても誰も聞いていないのです」と、全面的にティアラローズをえんするフィリーネ。

 普段であれば、そのようなことを言ってはいけませんとフィリーネを諫めるティアラローズだが、今回に限ってはもっと言ってやれとすら思う。

 ──こんなふうに考えるのは、きっと前世の記憶が戻ったからね。

「……でも、フィリーネの気持ちはとても嬉しいわ。ありがとう」

「ティアラローズ様……」

 いつもはあるはずの諫めの言葉がなく、逆にお礼を言われたことに驚くフィリーネ。やはり、この結婚を、婚約を、自分の主人は望んでいないのだと確信する。

 どうすればティアラローズが幸せになれるのかをフィリーネは考えるが、しかしすぐに思い浮かぶことではない。

 出来ることといえば、ハルトナイツのティアラローズに対する酷い態度をまとめて、ティアラローズの父親である侯爵に報告することくらいだ。

「よし。わたくし、ティアラローズ様のために頑張りますね!」

「フィリーネ? えぇと、あまり無理はなさらないでね?」

 突然どうしたのかと首をかしげるも、フィリーネがやる気になっていたのでティアラローズは止めずに微笑んだ。何を頑張るのかと思いながら……。




 金のふちりがなされ、扉の中央には天使の装飾。上部がステンドグラスになっていて、それは左右のかべにも?つながっている。

 ここは、卒業パーティーが行われている会場だ。

 入場開始の時間よりも、ほんの少しだけ早めに来たというのに──すでに、生徒全員が入場を終えていた。

 ゲーム内では、悪役令嬢が最後に入場していた。そのため、ラスト入場はけようと思っていたのだが、現実もうまくはいかないようだ。

 ティアラローズはりんとした姿勢で、パーティー会場の扉の前へ立つ。

 この扉を開けば、始まるのは断罪イベントだ。ハルトナイツがアカリと共に待ち構え、ほかの攻略対象者も傍にいてハルトナイツを援護するのだ。


 ──いざ目の前にすると、体がふるえるのね。


「ティアラローズ様……」

 フィリーネが、心配そうにティアラローズを見る。

 ゲームのイベントであっても、今は現実なのだ。ティアラローズとしての人生を生きて、今日の日を迎えたのだから。

 ゲームだと割り切って考えるなんて、とてもではないけれど出来なかった。

「わたくしは大丈夫よ、フィリーネ。では、行ってくるわね」

「……はい。いってらっしゃいませ」

 侍女であるフィリーネは別の扉から会場に入るため、一緒にいられるのはここまでだ。

 会場の中で合流することは出来るが、侍女は基本的に控えの間で待機している。

 大きく深呼吸し、心を落ち着かせる。扉を守る騎士に開けるよう合図をし、ティアラローズはゆっくりと、優雅に足を動かした。


「ティアラローズ・ラピス・クラメンティール、入場」


 広い会場内に、彼女の名前が響く。通常であれば、男性パートナーの名が先に呼ばれるのだけれど──あいにく、ここにいるのはティアラローズ一人だけ。

 すでに会場内にいた令息や令嬢は、一人で入場してきたティアラローズを見てありえないという表情で目を見開いた。

 そして、その視線は会場内を一周する。この会場に、ティアラローズが王太子であるハルトナイツの婚約者であることを知らない者などいないのだ。

 誰もが会場内にハルトナイツがいることを確認し、息を?む。

 大きく開いた扉から見えた会場は、それはもうはなやかなものだった。贅沢に使われた生花の数々は、まるで夢のような世界にすら見えた。

 並べられた料理やドリンクも、一目で一流のものだということがわかる。

 が、それらはすぐにティアラローズの視界から消える。


 ──始まるの、ね。


 会場の中央には、並んで立つハルトナイツとアカリ。

 それから、このゲームの攻略対象者たち。ハルトナイツ以外の攻略対象者とは何も接点がないのに、ここにいるのは不思議なものだ。ゲーム補正、というものなのだろうか。

 そんなことをティアラローズが考えていると、ハルトナイツの声が会場へと響く。

「ティアラローズ。俺は今、ここに──貴女との婚約破棄を告げる」

 たん。しんと静かだった会場にざわめきが走る。

 この国の第一王子であるハルトナイツが、ラピスを持つ侯爵家のひめへ婚約破棄を突きつけたのだから……。

 小さな声で、会場のあちらこちらから「ありえない」「殿下の横にいる女性はいったい誰だ?」「どういうことだ?」「なぜ、ティアラローズ様が?」という声が聞こえる。

 だが、仮にもこの国の王太子が高らかに宣言したのだ。視線は自然とティアラローズへ向けられる。

 ティアラローズはゆっくりとした歩みのまま、ハルトナイツの前まで行き、優雅に一礼して口を開く。

「……理由を、お聞かせいただいてもよろしいですか?」

 ティアラローズは、特別悪いことをしたわけではない。断罪イベントの内容もしっかり思い出し、シミュレーションも夜のうちに行った。

「理由? ティアラローズ、自分の胸に聞いてみたらどうだ。まさか、わからないなどと言うわけではないだろう?」

「わかりませんわ」

「……っ!」

 ハルトナイツの言葉をそくに否定するように、声をあげる。自身に落ち度は何もないのだと、凜とした瞳で前をえる。

 しかし、しっかりと見すぎたせいか──ハルトナイツの肩ごしに、父親と国王陛下の姿が目に入った。すでにパーティー会場の上座にいたようで、きようがくの表情で自分を見ていた。

 ゲームでは、会場にいるけれど何のかいにゆうもしてこなかったはず。父親のイベントなど、何も用意されてはいないのだから。

 そのため、ティアラローズはあまり考えてはいなかったのだが──……乱入しないとは言えないような顔を、特に父親であるクラメンティール侯爵がしていたのだ。

 ティアラローズとして生きた記憶を思い返せば、父親は重度の親バカ。ハルトナイツをフルボッコにしてもおかしくないと、今ならば思える。

 ゲームでは見ることの出来なかった父親の姿に、思わず笑ってしまう。

 ──予想外だけど、お父様のおかげで勇気が出たかもしれない。

「わたくしは、何も恥ずべきことはいたしておりません。ですが、もしハルトナイツ様がほかの方をきさきに望むと言うのであれば、しっかりとした手続きを行うべきではございませんか?」

「王族に口答えするとは不敬だぞ、ティアラ!」

 きちんとしたティアラローズの主張を不敬と判断したハルトナイツの声と同時に、父親が一歩前に出る。

 ──ゲームにはクラメンティール侯爵の乱入イベントなんてなかったのに!

 あわてて父親に視線を向けて、首を振る。大丈夫だと、伝えたつもりなのだが……しっかりと伝わっているだろうか。

 だがその気持ちが伝わったのか、父親はす足を元に戻す。よかったとほっとしたのはつかの間で、すぐにハルトナイツの声が会場へと響く。

「アカリが辺境の地出身と、随分いろいろと申したらしいな。……アカリ、怖かったであろう?」

「王都以外で暮らすたみは多くいる。そして、農作業などで国を支えてくれている立派な国民だ。それをおとしめるような言い方は、許されませんよ」

 アカリの肩を抱きながらなぐさめるのは、ハルトナイツ。

 それに言葉を続けるのは、攻略対象者の一人であるクリフ・イルドルン。若くして、騎士団の小隊長をしているゆうしゆうな人物だ。

 ──どうして、生徒ではないのにここにいるのかしら。

 おそらくアカリが呼んだのだろうとあたりをつけるが、騎士服のところを見ると、仕事として来ているのかもしれない。

「……はい。ですが、ハルトナイツ様がいてくださったので、大丈夫でした」

 そっとハルトナイツにうアカリは、?ほおを染めながらなみだを浮かべた。

 まったく状況の飲み込めない人々は、れんあいごっこのような光景をぽかんとした顔で見るほかない。


 そもそも、ティアラローズは行いを諫めたことはあったとしても、辺境の地であることを理由にしたことは一度もない。また、アカリと二人になるということがなかったので、基本的にほかの人間も同席していた。

 しっかりと確認をすればすぐにわかるのに、調べていないのだろうかとあきれてしまう。

 ゲームでは、しようの提出などはなかったが、現実として動いている今もそのような扱いで進んでいくのだろうか。

 そうであれば、ハルトナイツはかなりのおろものということになる。

「ハルトナイツ殿下。それでは、よくわかりません」

「まだ言うか。アカリに対して、俺にひざまずき礼をしろ、俺とダンスをするな……などと言ったそうだな」

 やっと具体的な内容が出たが、それはあまりにもまつなことだった。


 ──ゲームのハルトナイツは、もっと知的なキャラだと思ったのに。

「ハルトナイツ殿下は王太子であらせられるのですから、わたくしたちがひざをついて礼をするのは当然のれいでございます。こういったパーティーでは問題ありませんが、初めてごあいさつさせていただく時は当然だと思うのですが……?」

「……なるほど。しかし、ダンスをするなというのはあまりにも横暴ではないか。ほかの令嬢ともおどっているが、なぜアカリにだけそのようなことを言うのだ」

「それは、アカリ様がハルトナイツ殿下と二回以上踊られたからですわ。まさか、王太子である殿下が……その意味をご存じないなんてこと、ございませんよね?」

「…………」

 王族への最初の挨拶は、必ず膝をつき最上の礼をというのが常識だ。以降、お茶会や夜会では淑女の礼で問題はない。

 ティアラローズは、アカリがそれを行わなかったため注意をしたのだ。「王族には、最上の礼をもってご挨拶するのですよ」と。

 ダンスを二回同じ異性と踊るのは、婚約者であることを意味する。ふうとなり初めて、三回以上踊ることが許されるのだ。

 この国の貴族において、それを知らぬ者などまずいない。それなのに、アカリはハルトナイツにダンスをもうみ二回も踊ったのだ。

 それがティアラローズにとって、どれほど屈辱的だったのかわからないのであろうか。

 自分は婚約者よりも、アカリをちようあいしていると周囲に態度で示した形になるというのに。

「どこか、問題がございましたか?」

「だ、だが……! アカリはいつも酷く責められたと。普段から、冷たい言葉を使っていたのだろう」

 正当なティアラローズの言葉に、ハルトナイツはそれでも言い募る。すでにめつれつになっていることに、気付かないのだろうか。

 侯爵家の娘であることにほこりを持っているティアラローズは、決して安易な発言をすることはない。

「ハルトナイツ殿下は、わたくしをそのような人間だとお思いなのですか?」

「思うも何も、現にそうであろう」

「わたくしは、アカリ様と二人でお会いしたことはございません。常にほかの令嬢がご一緒でしたが……。お調べになりませんでしたか?」

 ──この様子だと、何の確認もしてないんだろうなぁ。

 ため息をつきたいと思うがぐっとまんし、困ったように首を傾げてみる。

 ハルトナイツは慌ててアカリに、「ほかの者もいたのか?」と問いかけた。

「えっ、えぇと……。そうですね、ティアラ様の取り巻きの方がいらっしゃいました。確か、フルルアーネ様と、マリエッタ様だったと思います」

「…………」

 アカリが告げたのは、ティアラローズと仲の良い令嬢の名前。しかし、その言葉の中にある表現は貴族社会の中で、使ってはいけないものだった。


「取り巻き……?」

 その言葉は誰が発しただろうか。しんとした会場から、疑問の声が響く。

 この国に、いや、このゲーム『ラピスラズリの指輪』には──取り巻きという表現はない。プレイヤーが、悪役令嬢の取り巻き、という言葉を勝手に使ってはいたけれど。この言葉は、非常に無礼なものなのだ。

 真っ先に慌てたのは、アカリのとなりにいたハルトナイツだった。すぐさまアカリにていせいを求めようと、声を張りあげる。

「アカリ、何を言うんだ……っ! ティアラの、ご友人だろう?」

「え? ええ、そうですね」

 一方のアカリは、何がいけなかったのかわからなかったようで、きょとんとしている。

「アカリ様、彼女たちはわたくしの大切な友人です。……そのようなおっしゃり方は、おやめくださいませ」

「また、そうやって私に酷く言うんですか? 私、ティアラ様の気に障ることなど言っていないです!」

「酷くなんて……」

 そのようなという意味を理解できないアカリが、ティアラローズに対し声を荒らげる。

 ティアラローズは友人を侮辱されたことに対し、アカリに注意を促しただけだ。それをよくわかっているのは、パーティー会場にいるほかの生徒や招待客だろう。

 先ほどアカリをかばっていたクリフも、こんわくした表情を彼女に向けていた。非常識だと、その視線が告げている。

 ざわめきと共に、アカリをいぶかしむような声がひそひそと漏れ聞こえてくる。

「ハルトナイツ殿下は、わたくしがアカリ様に酷いことをしたから婚約を破棄したい。と、いうことですよね?」

「あ、あぁ……」

「わたくしは、特に酷いことなどしておりません。……ですが、ハルトナイツ殿下のお心はアカリ様にあるのですね」

 寂しそうに微笑むティアラローズ。

 彼女は誰の目から見ても、ハルトナイツの思い込みと、彼がアカリへ向けるこいごころによって傷つけられたわいそうな令嬢だった。

 常識のないアカリと、その話を?みにしてしまったハルトナイツが悪い。

 この会場にいる誰もが、そう思っているだろう。


 ゆえに、ゲームとは違うエンディングになる可能性をティアラローズは考える。

 ここで婚約を破棄されるのはいいが、ティアラローズを国外追放する理由がない。

 ──このまま終われば、一番平和なルートかもしれない。

 そう考えて、ちょっとごげんになる。王族との結婚は重荷でもあるし、自由な時間も少なくなる。そう考えると、婚約破棄も悪くはない。

 きわめつきの理由は、ハルトナイツと結婚したくないという思いが一番ではあるが。

 本当ならば、ハルトナイツは大好きなキャラクターだった。けれど、今はその想いがまったくない。

 現実に生きている彼を見て、ゲームとの違いにがっかりしてしまったのだ。


 ハルトナイツは、寂しそうに微笑んだティアラローズに対してさらに言葉を続けた。

「だ、だが……っ! ティアラローズの説明に不備があったために、アカリが傷ついたことは事実だろう。俺は、ティアラローズとの婚約を破棄し、アカリと婚約を行う。つまり、アカリは未来の王妃となる」

「…………」

「未来の王妃へのその態度、許されるものではない。ティアラローズ、よって、そなたは国外へ追放する!!」

 ──何を言っているのだ、この王子は。鹿なの? 馬鹿なのね?

 今度こそ特大のため息をつき、どうしようと思ったところで怒り狂った表情で震えている父親がティアラローズの視界に入った。

 いけない、お父様がばくはつしてしまう──……。止めないと。そう思い声をあげようとした時、まったく別の男性の澄んだ声が会場内に響いた。

 凜とした低い音色。

 それは広いパーティー会場のすみずみにまで聞こえるほどに、はっきりとした声だった。


「そこまでですよ、ハルトナイツ王子。彼女よりも、貴方あなたの言葉の方がよほど酷いではありませんか。──ねぇ、ティアラローズじよう?」


 耳に届く甘く優しい声は、ゲームの展開にないものだった。しかしそれは──不安だったティアラローズの心をうるおしてくれた。

 声の主を振り向くと、その人はティアラローズを安心させるように微笑んだ。

「大丈夫。胸を張って誇りを持つ貴女は、この場にいる誰よりも正しく美しい」

「……アクアスティード殿下!」

 彼の言葉を聞き、自然とティアラローズの震えが収まる。胸をきゅんとけられるような感覚に襲われる。

 ──国外追放を言い渡されたしゆんかんに助けにきてくれるなんて、まるで物語の王子様だ。

 ……でも。どうして、ここにいるのだろうか。

 どきどきと、どうが加速していく。

 彼がこの世界に存在することは、ティアラローズとして生きてきたから把握していた。同じクラスだった。

 ダークブルーの髪を揺らしながら、アクアスティードは彼女の横を通り過ぎ、ハルトナイツの前に立つ。

 真っすぐ前を見据える金色の瞳は、まるでアクアスティードがハルトナイツを断罪しているとさつかくするほど。

 グレーに、黒のラインが入った礼服を着こなした優雅な立ち姿は、まるで支配者だ。

「……アクアスティード王子。これは、俺たちの問題だ」

「いいえ」

 ハルトナイツはこの展開に一瞬戸惑うも、アクアスティードへ暗に下がれと命じている。しかし、それは即座に否定の言葉で応じられる。

 アクアスティードとハルトナイツの間に、いったい何があるというのか。

 一緒にいたほかの攻略対象者たちも、りんごくの王太子の出現を見て後ろへ下がった。

 どうしよう。と、ティアラローズが少し不安に思ったところでアクアスティードが振り向いた。

「婚約を破棄されたのですよね」

 一連の流れからも、ゲームのシナリオからもそれは間違いない。ティアラローズはその言葉にこくりと頷いた。

 そして彼の口からティアラローズの名が紡がれる。


「ティアラローズ嬢、私の妃になっていただけませんか?」


「…………え?」

「私はずっと、貴女を手に入れたくて仕方がなかった」

 アクアスティードの言葉に、会場はざわめくことを忘れ……まるで音のない宇宙にでもいるかのように、静まり返った。

 それほどまでに、アクアスティードの求婚は衝撃的だった。

 ティアラローズも一瞬意味を理解することが出来ず、大きく目を見開いてしまう。

 まさか、このタイミングで求婚をする人がいるのだろうか。つうであれば、ありえない。たとえ想いを抱いていたとしても、順序というものがあるのだから。

 しかし、ティアラローズの心臓は大きく揺れ動いた。


 アクアスティード・マリンフォレスト。

 隣国であるマリンフォレスト王国の第一王子であり、王太子だ。ティアラローズと同じ年で、この王立ラピスラズリ学園に一年間だけ留学にきていた。


 このゲームの攻略対象者でこそないが──彼は、ゲーム続編のメインキャラクターであると、告知がされていた。

 そのキャラクターデザインを一目見て、アクアスティードのことが大好きになった。

 大国の王太子という立場に、優しい笑顔。けれどどこか腹黒らしさを読み取れて、たった一枚のイラストだったのに続編への期待は高まった。

 ただ、発売より先にしようがいを終えたティアラローズには、彼の立ち位置を正確に把握することは出来ない。


 ──まさか、こんな形で実物と関われるなんて! ……そう、求婚。え、求婚?

 はっと我に返り、思わずあとずさる。ありえないほどに、ティアラローズの心臓は大きな音を立てていた。

 大好きだったキャラクターに求婚されるなんて、まさに夢のようだ。

 ──いや、実際に夢なんじゃないだろうか?

 あまりにも幸せすぎて、この現実がおのれの都合のいい夢ではないかと不安になってしまう。起きたら朝で、また乙女ゲームをする日常が待っている。……なんて、考えてしまうほどに。

「突然のことで、驚かせてしまったと思います。ですが、どうかお考えいただけませんか?」

「あ……っ」

 ハルトナイツに向けた厳しい瞳とは違い、甘さをふくんだ微笑みを向けてアクアスティードはティアラローズの前に跪いた。

 王族が跪くなんてとんでもない! しかし止めようとするよりも早く、アクアスティードは動きを見せる。

 ティアラローズの手を取り、そのこうへとそっと口づけた。

 その動作一つ一つに、いけないと思いつつもティアラローズの胸ははやがねのように音を刻み高まっていく。

 ティアラローズは、これまでハルトナイツからこのような扱いをされた経験がない。

 王太子の婚約者であったため、ほかの令息からアプローチを受けたこともない。

 つまり──……めんえきがないのだ。






 どうしたらいいかわからずに、赤い顔をしたまま助けを求めるように父親へと視線を巡らせる。しかし父親は、娘の視線に大きく頷くだけだった。

 先ほどまでは、ハルトナイツに反撃しそうなほどだったのに……今では、大人おとなしく観客の座に着いていた。

 ──どうしろっていうんですか、お父様!

 心の中では大声を出しているが、実際は赤いのように?を染め、「あ……」と、声にならない音が口から出るばかり。

 助けはないのだとさとったティアラローズは、自分でしっかりと答えねばとアクアスティードへ視線を向ける。

 金色の美しい瞳と視線が合って、恥ずかしさからびくりと体が震えた。

 アクアスティードに触れられている手が、とても熱いと錯覚する。なんと返事をすればと考えを巡らせ、ゆっくりと、一言ずつ言葉を返していく。

「……ありがとうございます。アクアスティード殿下のお気持ち、とても、嬉しく思います」

 どきどきする鼓動を抑え、ティアラローズは微笑んだ。アクアスティードも微笑み返したところで──ヒロインであるアカリの声が会場に響く。

「ま、待って……っ!」

「!」

 ぷるぷると身体を震わせ、アカリは小声で「そんなのありえない」と呟くが、それはきっと誰にも聞こえてはいないだろう。

 隣国の、しかもラピスラズリよりも大国の王太子であるアクアスティードの言葉をさえぎるとは思わなかったのだろう。ハルトナイツがアカリの隣で大きく目を見開いていた。

 それが不敬であることなどまったく頭にないのか、アカリは言葉を続ける。

「ティアラ様は、たった今までハルトナイツ様の婚約者だったんですよ!? そんな人を、自分の婚約者にだなんて! アクア様には、もっといい人がいると思います!!」

「…………」

 なんてことを言うのだ。……と、この会場にいる誰もが思ったことだろう。

 内容はもちろんだが、許可をされていないアカリが『アクア様』と、あいしようで呼びかけたのだ。それには、会場の誰もが息を?む。

 しかしアクアスティードは何も言わず、いや──まるで聞こえていないかのように、その視線はティアラローズに向けられたままだ。

 かんだいな王太子だと、そんな雰囲気が会場に流れる。が、次の瞬間、誰もが大きく目を見開き、声をあげないように口を押さえた。

「アクア様!」

「……っ!?」

 アカリがアクアスティードの下へと走り寄り、その腕を取ったのだ。

「ティアラ様は、少しだけ物言いがきついんです。ですから、こちらにいらしてくださいな」

「……アカリ様。この方は、隣国のアクアスティード殿下です。いきなり触れていいような方ではございません。その手をおはなしくださいませ」

 さすがにこれはよくない。アカリがというよりも、この国としてもだ。最悪、マリンフォレスト王国との交流を打ち切られても不思議ではないほどの不敬だ。

 なぜ、アカリはこんな簡単なこともわからないのか。

 ティアラローズは頭を悩ませつつも、この場をどうにかしなければと思考を巡らせるが、腕を?つかまれた本人が動きを見せた。

「私のことを気遣っていただきありがとうございます、ティアラローズ嬢」

「……っ! い、いえ」

 自然な動作でアカリの腕を払いのけて、アクアスティードはみつのような甘い笑顔を向けて礼を述べる。

 ──そんな笑顔を向けられて、平常心でいられるはずがない。

 顔をにして、思わず俯いてしまう。

「あ、アクア様!?」

 ないがしろにされたアカリは驚きの声をあげて、それでも前へと回り込む。その瞳はどうして? と、疑問をうつたえているがアクアスティードには届かない。

「私は、マリンフォレストの第一王子です。それを承知で、そのような態度を?」

「え、え……っ? でも、アクア様はお優しいから、そんなことで怒ったりは──」

「不敬だ、連れて行け」

「!」

 よくようのないアクアスティードの声が、しんとした中に響く。

 命令通りに、アカリはアクアスティードから引き離される。会場の誰もがほっとした。

 と、同時に──先ほどまでティアラローズに見せていた態度との変わりように、会場内はざわりと揺れた。

 隣国の王太子は、本当に自分の妃としてティアラローズを望んでいる。

 そしてそれを、自国の誇りと感じる者もいた。侯爵令嬢である彼女は、本人に自覚こそないが、たくさんの人に好かれている存在だ。

「大変申し訳ございません、アクアスティード殿下。……謝罪の言葉で許されることではありませんが」

 アクアスティードへ一番に謝罪の言葉を口にしたのは、アカリでも、ハルトナイツでもなくティアラローズだった。

 深く腰を折り、最大限礼をくす。しかし、アクアスティードは優しいこわいろで「顔をあげて」とティアラローズの手を取る。

「ティアラローズ嬢が謝罪されることではありません。この場で謝罪をするのは、どちらかといえば──ハルトナイツ王子でしょう?」

「……っ!! も、申し訳ない。アクアスティード王子」

「まぁ、許しましょう」

 アクアスティードが厳しい瞳でハルトナイツを見れば、すぐさま謝罪の言葉が紡がれる。

 先ほどとは打って変わり、本当に立場が逆転してしまった。

 今、この場で一番優位にいるのはアクアスティードだ。アカリの自分勝手な、本人はアクアスティードのためを思って言った言葉と行動によって。

 一国の王太子がすぐに謝罪の言葉を口にするものではないのだが、こればかりは誰が見てもラピスラズリ王国に非があるのだ。

 しかし、これ以上の展開になるのであれば……ハルトナイツには荷が重いであろう。

 くやしそうに歪められた顔は、見ている誰もが可哀相だと思うかもしれないが──婚約破棄という断罪イベントの最中だ。当然のむくいだと、そう思う者がほとんどだろう。

「私がこの場に割って入ってしまったから、困惑させてしまいましたね。そんな不安な顔をしないで、ティアラローズ嬢」

「いいえ……。私はアクアスティード殿下に助けていただいたのに、そのようなこと」

 アクアスティードが割って入らずとも、おそらくティアラローズには何も起こらなかっただろう。現状を見て、ティアラローズはいまさらながらそう判断した。

 ゲームのような流れではあるが、やはり現実世界ではかんがありすぎるのだ。

 ──でも。助けてもらえたのは、じゆんすいに嬉しかった。

「ちょっと! 離してくださいっ!!」

 アクアスティードの側近によって引き離されたアカリが暴れようとするが、それを制したのは、それまでぼうかんしていた──国王の声だった。

「そこまでだ。それ以上、わが国の恥をさらすつもりか」

 げんのある低い声が、会場内に響き渡り、アカリをさらに騎士が取り囲む。アクアスティードの側近ではなく、この国の騎士が、だ。

 つまり、国王にも不敬であると同様の判断をされたということ。

 ラピスラズリ王国のアレクサンダー・ラピスラズリ・ラクトムート。まだ三十七歳と若いが、国民からの支持も厚い良き王だ。

「父上!?」

「王様! 先にティアラ様を止めなければ、アクア様へ失礼なことをしてしまいますっ!」

 ハルトナイツの驚いた声と、アカリのティアラローズをアクアスティードから引き離せという声。しかしそれを無視し、国王はアクアスティードへと頭を下げる。

くにの者が、失礼なことをした」

「──いいえ。私も突然、乱入したのですから」

かんような心遣い、感謝する」

 王子だけでなく、国王までもが謝罪をした。この事実は、ラピスラズリ王国の貴族にとってとても重い。誰もがアカリをにらみつけ、早く出て行けと言いたげにしている。

「しかし、アクアスティード王子がティアラローズ嬢へ求婚をするとは思わなかった」

 こんな展開は予想もしていなかったよと、まるで何も知らないように国王は驚く。

「今しか機会がないと思いましたので。陛下、そしてクラメンティール侯爵。私とティアラローズ嬢の婚約をお許しいただけますか?」

「ふむ……」

 アクアスティードの視線は、アレクサンダーとティアラローズの父親であるクラメンティール侯爵へと向く。

 その視線はとてもしんけんで、本気だということを誰もが感じとった。

 アクアスティードの後ろで様子をうかがうティアラローズは、二人の返事を聞き漏らすまいと耳をかたむける。

 クラメンティール侯爵は、先ほどアクアスティードに言った言葉をもう一度口にする。

「私としては、もちろんだいかんげいだ。我が国と、マリンフォレストのよいえんとなる。たびの件も、そくのしでかしたことの責も重いゆえに、二人の婚約は白紙となるだろう」

「ありがとうございます。……ですがクラメンティール侯爵は、私のようなぽっと出の男では不安でしょう」

「……いいえ。アクアスティード殿下のことは、私もよく耳にしています。娘のことも大切にしていただけると確信しています。ですが、私はよかれと思ったハルトナイツ殿下との婚約でまさに今──娘を傷つけてしまった。ですから、私は娘の意思を尊重したいのです」

 大国の王太子であるアクアスティードの言葉を、ティアラローズの父親はすぐにはしようだくしなかった。

 王族からの結婚の申し入れを断るなど、本来ならありえない。

 しかしティアラローズの幸せのために、父親としてのクラメンティール侯爵は自分が断罪されてもいいとすら決意し、言葉を返したのだ。

「親のかがみですね、クラメンティール侯爵。では、ティアラローズ嬢にいいお返事をいただけた時に、改めてご挨拶にうかがわせていただきます」

「アクアスティード殿下……っ」

 その言葉に、ティアラローズが慌てる。

 しかし、ここで仮にイエスと言ってもアクアスティードはよしとしない。

 気を遣っていい返事をしなくていいと言うだろう。

「私も、さつきゆうすぎてしまいました。今度、一緒に出かける時間をいただけませんか?」

「……はい。喜んで」

 父親の言葉に不敬だと息を?んだティアラローズだったが、アクアスティードの優しさにほっとする。

 こんなに優しい王子が、なぜ自分を想ってくれているのだろうか。そんな疑問が頭に浮かび、出かけた時に聞いてみようと思う。

 そんな二人を見守るように、国王とクラメンティール侯爵がみを深くする。

みなの者、今日はこのようなことになり大変申し訳なく思う。ハルトナイツ、早急に退出を。……皆は残りの時間を楽しんでくれ」

 再び国王の声が会場内に響き渡り、ハルトナイツをはじめ──関係者はその場から退出した。

 ティアラローズについては、父親であるクラメンティール侯爵が後始末を付けるので、早急に帰宅せよと言い渡される。それは父親としての、気遣いだろう。

 すぐにエスコートを申し出たのは、もちろんアクアスティードだ。「役得です」と笑顔を向けられては、ティアラローズは顔を赤くして「はい」と言うしかない。

 今夜、ハルトナイツと国王、クラメンティール侯爵の間で話し合いが行われ、アクアスティードとの会談は明日となる。

 アクアスティードに送られるティアラローズを睨みつけるように見ていたアカリは、話し合いが落ち着くまで王宮にある一室へとなんきんされることとなった。


 ──国外追放は、まぬかれたみたい。

 けれど、アクアスティードに求婚されるという予想外の出来事が起こってしまった。

 エンディングはしゆうりようしたはずなのに、いったいこれからどうなってしまうのだろうか。

 ティアラローズの胸は今後への不安と、少しの期待に揺れた。


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