第2話


 食べ終えた頃、中年女が戻ってきた。


「これ、赤ちゃんにやりな」


 ミルクが入った哺乳瓶を差し出した。受け取った女は、哺乳瓶の温もりにまた涙した。


「……ありがとうございます」


 女は頭を下げると、ダウンジャケットを脱いだ。中から、ストッキングで背負われた乳飲み子が現れた。


 中年女は、女の背中から乳飲み子を受け取ると、再び、ジャケットを着た女の手に乳飲み子を戻した。


 女は不器用に哺乳瓶の乳首をくわえさせていた。


「あああ、そんなに立てたら、赤ちゃんが飲みづらいよ。どれ、貸してみな」


 中年女は女の手から乳飲み子を受け取ると、器用に哺乳瓶の乳首をくわえさせた。乳飲み子は美味しそうに飲んでいた。


「……ありがとうございます」


 女は、中年女に笑顔を向けた。


「ね、このぐらいの角度。ほら、やってごらん」


「あ、はい」


 中年女から乳飲み子を受け取ると、哺乳瓶の角度を真似た。


「今夜は客足がにぶいや。どれ、店じまいにするかね」


 中年女は呟くと、片づけを始めた。


「今夜はうちに泊まっていきな」


「……でも」


「金、ないんだろ? さっき言ってたじゃないか」


「……けど」


「明日また、何かいい方法を考えよう。ね?」


「……ええ」




 屋台を引いた中年女は、温泉街から路地に入ると、二階建てアパートの一階に入った。


 部屋には余計な物がなく、こざっぱりとしていた。


「ま、ゆっくりしな。隣の部屋で寝るといい。茶でも淹れよう」


 押入れから座布団を出した中年女は、電気ストーブをつけると、台所に行った。


「……ありがとうございます」


 女は、背中から下ろした乳飲み子を座布団の上に載せると、頬っぺたを突っついてあやした。


「今夜はぐっすりやすみな。明日は朝から部屋を空けるから、冷蔵庫の物で何か作って食べて、風呂にでも入ってゆっくりしてな」


 中年女は簡潔にそう言うと、湯呑みに息を吹きかけた。


「……ありがとうございます」


「あれっ、赤ちゃん、寝てるよ」


「あら、ホントだ」


 満腹になったせいか、乳飲み子は気持ち良さそうに眠っていた。




 女は布団の中で、声を殺して泣いていた。


 その涙は、見ず知らずの親切な中年女への感謝と、生きる希望を与えてくれた乳飲み子への感謝だった。


 女は、乳飲み子に出会った昨日のことを思い出していた。――




 泣きじゃくる乳飲み子をレジ袋から出すと、抱いた。温もりを感じた。


 捨てられてどのぐらい経つのだろうか。食べる物もない。


 このまま、この子と餓死するしかないのだろうか。


「オギャーオギャー」


「はい、ヨチヨチ」


 膝の上に置いた乳飲み子をあやしながらも、どうすることもできない自分が不甲斐ふがいないと思ったその時だった。


「あっ……」


 電車に乗る前に買ったチョコレートを思い出した。


 まだ、残っていたはずだ。急いでバッグを探ると、薄い箱に指先が触れた。


 あった! 手探りでゆっくりと箱の中に指を突っ込むと、固形の物が二粒あった。


 一粒を口に含むと舌に載せ、口内の温度で溶かした。そして、それを乳飲み子の口に流し込んだ。


「お酒臭くてごめんね」


 途端、泣き止んだ。ペチャペチャと舐めるような音がしていた。


 嬉しかった。泣き止んだことと、チョコレートを舐めてくれたことが。


 ジャケットの中に抱くと、ファスナーを上げた。


 やがて、乳飲み子は寝ついた。


 岩壁にもたれた状態で、眠れるはずもなかったが、酒が入っていたせいか、どうにか眠りに就くことができた。


 それでも何度も目が覚め、その度に薄目で外の明暗を確かめては、懐の乳飲み子の重みを確認した。




 洞穴に差し込んだ朝日に目を覚まし、外を覗くと、対岸に生い茂った草木が、川のせせらぎと共に鮮明になっていた。


 視線を下に移すと、曲げた膝を支えに懐に抱いていた乳飲み子が円らな瞳を向けていた。


「おはよ~」


 人差し指で頬っぺたを押すと、乳飲み子が笑った。


 最後の一粒を口に含んだ。そして、舌に載せてチョコレートを溶かすと、乳飲み子の口に流し込んだ。


 乳飲み子は満足そうに笑っていた。


 チョコレートで汚れた口元をポケットティッシュで拭いてやった。


 乳飲み子は、安っぽい婦人物のセーターとカーディガンにくるまれ、寒さを防ぐかのように、中には何枚もの長袖のTシャツを着せられていた。


 若いお母さんに違いない。


「さて、出発しようか」


 ボストンバッグに入れていた替えのストッキングで乳飲み子を背負うと、その上からジャケットを着た。


 使ったティッシュと一緒に片づけようと、乳飲み子が入っていたレジ袋を手にした時だった。何か、薄くて四角い物の感触があった。


 袋を広げてみると、封がされていない白い封筒があった。中には一枚の便箋が入っていた。


〈事情があって育てることができません。この子を殺すしかありません。でも、自分の手で殺すことができません。もし、この子を見つけた人がいたら、どうか、育ててやってください。お願いします〉


 なんて、身勝手な!


 憤りを覚えたが、手書きで書かれた文面の一語に、この子に対する愛情の一片がうかがえて、少しホッとした。


 よしっ! 私が育てる。


 気合いを入れると、腰を上げた。そして、温泉街に行って、職を求めた。――

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