第6話 申告
「酒井夕さん。」
看護師さんの優しい声が聞こえる。
ふわふわしてそうな声とは裏腹に私は重たい足を1歩、2歩と進める。
「お願い…。」
ぼそっと呟くようにサイズの合ってないスリッパに向かって吐き出す。願い通りの可能性はほぼゼロだ。
ウィーン…みたいな、ちょっと無機質な音とともに扉を開く。よくあるちょっと丸っとしたやつ。
「酒井〜、夕さん?ここにお座りください。」
かなり経験豊富というか、今までこんな状況何回も見てきたんだろうなっていうようなお医者さんがはいはい、という感じで着席勧めてくる。
初夏、7月のジメっとしつつ、ノースリーブが恋しくなる季節だった。
あのとき、私は宣告を受けた。
「妊娠…3ヶ月です。」
お医者さんは何も悪びれる様子なく宣告する。いや、むしろ不妊に悩んでる奥さんだっら涙を流して喜ぶだろうに。
別の涙を流すことになろうとは。
こんなことしたらバチが当たる。世間に示しがつかない。子供を授かって泣くくらいならそういうことをするなって話なんだよ。
看護師さんは同じ女性として何かを察したようで、軽く背中に手を当ててくれる。
「…あ、の…。」
中絶を、したいんです、とは、なかなか言いにくかった。
お金とか。
親のこととか。
お腹の子のこととか。
重苦しく、のしかかってくる。
「え…と。」
でも思いの外冷静なのかもしれない。考えがパズルのように組みたってくる。涙が院内のクーラーで冷える。それがいい感じに頭を冷やして口を薄く開かせようとする。
「中絶をすると。もう一回は妊娠ができにくくなるん、ですよね。でも、とりあえず、中絶をしなくてはいけないので。お願い出来、ますでしょうか。」
ま行はずっと苦手なまま。
区切って言いたいことを全部言う。
しなきゃいけないから。
「大変、申し訳ないというか、情けない限りなのですが、しなくてはちょっと…その…生活とか…苦しいというか人生的にというか色々ありまして。」
色々は便利だねほんとに。もりさん。
「色々、というかそれ以前に。責任感低くてごめんなさい。情けないこんな…子供みたいに…。」
さっきから自分でも何を言っているのかわかっていない。
私、迷惑だ。
「か、帰ります…きょっ今日のところは。」
ヤンキーかいな。今日のところは勘弁してやるよって?
「さ、酒井さん…。」
看護師さんが引き留めようとしてくれる。
「今日のお金はちゃんと払いますんで。」
そういうことじゃないだろう。
「あの…また、お話にきてください。」
「…はい?」
「その…22週までなら、大丈夫、です。どうするかの相談も乗りますし、お話に来てください。そしたら、今後のこと、一緒に考えていきましょう。」
優しすぎる。その優しさが逆にモヤっとした気分を逆なでする。
「あい…あざす。また…きやす。」
そんな雑な返事があるか。
辛くて。ただ辛くて。
1歩踏みしめる事に吐き気は襲う。つわりだ。
「…。お嬢ちゃん、顔色悪くねえかい?」
近所のおじいちゃんが心配そうに話しかけてくれる。でも未だに私の名前は覚えてくれてない。
「あ、大丈夫っすほんとに。」
話しかけないで欲しい。顔もめっためただし。口とかだらしなく開いてるし、多分…色んな感情が混ざってみっともない顔してる。
エレベーターに乗ってウィーンと無機質な音で扉が開く。
もしかしたら。
もしかしたら。
いるかも、なんて。
厚かましいですか。
「んだよね。」
扉が開いてももりさんがいるわけなく、慰めてくれるわけもなく。
部屋にこもる。
しばらくダラダラと涙を垂れ流していたけど、中絶のこととか色々調べなきゃいけないこともあって、パソコンに電源を入れる。
「…。」
アップデートとかあるのかあ…面倒くさいなあ…。
スマホの通知が元気に鳴る。
「ん…あ、お母さんまた帰り遅いのか。いーや、カップ麺で…。」
というか、気持ち悪くてなにも食べたくない。
「お母さんになーんて言おうかね…、んあ…あと…まあ、もりさんには、言った方がいいのかな…。でも付き合ってる訳じゃないしな…。」
実は最近連絡もとってない。この半月後くらいに告白されて付き合うなんて今は思ってもみなかったけど。
「誰にも…言えないや!」
この時はそんな独り言を、無駄に広い部屋の中で1人、無駄に明るく言ってた気がする。
グレーのパーカーにシミをいくつも作りながらネットで検索をする。
「あ…やっぱりそうなんだ。」
知ってたことと。
「え。そうなの。知らんかったや。」
そうでないことが入り交じって。
為になるな〜とか他人のことみたいに思いつつ細い三日月を眺める。
…そういえば、この間知り合ったお姉さんは、月が好きって言ってたっけ。いつかまた会うことがあれば、話したいな。
今日のこととか。
辛かったこと。
こんな日でも両親は帰ってこないかもしれないこと。
惨めで、子供っぽい、私自身のこと。
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