最終話

もしかすると須藤杏の失踪の手がかりを得られるかも知れないと探偵社の調査員が読んだ庄司紀子を勤め先の役所の前でクルマのなかで張り込んでいた。

調査員と私と山内の4人だった。

午後6時過ぎ、予め調査員が写真撮影した画像の女性が姿を現した。

庄司紀子である。50歳代後半だということだが現役で働いているせいか若く見えた。

40歳代にしか見えない。

まず調査員2人がクルマから出て庄司紀子に近づいた。

私たちは調査員が合図を送るまでクルマで待機するように言われていたのだ。

調査員は庄司に話しかけた。

いきなり声をかけられたので庄司紀子は驚いたような表情をしたあと、警戒するような顔つきに変わった。

しばらく調査員と話をすると調査員から合図が出た。

私と山内はクルマから出て庄司紀子に近づいた。

「庄司さんには詳しいことを説明しました。お話ししてくださるそうです」

調査員の一人が私に向かって言った。

「いきなりすいません。今村と山内というものです。須藤さんとは大学の同期でして、彼女を捜しています」

庄司紀子はもう普通の表情に変わっていた。

「私も心配していたのです。もう数か月も連絡が取れなくなっていましたから」

調査員が立ち話も何だから近くの居酒屋を予約しているのでそこでお話しをしましょうと提案したら庄司紀子は承諾した。

「庄司さんとは山登りで親しくなったと伺っています」

私がそう言うと庄司紀子は表情が明るくなった。

「3年前に知り合って、それからお互いに独身だし、同じ趣味だし、親しくなりました。登山のことだけではなく、仕事の悩みとか、将来のこととか、色んなことを話しました」

「私たちは彼女の行方を追っていますが、何の手がかりもつかめておりません。正直あせっています。何か事件に巻き込まれてはしないかと心配なのです」

庄司紀子はまた不安気な顔つきになった。

「仕事の悩みとかおっしゃいましたが、具体的にどんなお話しでしょうか」

山内が口を挟んだ。

「私は公務員で、正直独身で年齢も定年に近いし、そんな女性は職場にいなくて、上司からも部下からも風当たりがきついんです。須藤さんは不動産屋で私とは環境が違いますが、私の悩みを黙って聞いてくれてそんなんで彼女の家に泊まり込んで話すことも多かったんです。ついつい深酒もしてしまいました」

「須藤さんが姿を消すような心当たりはありませんか」

「まったく分かりません。彼女からは不安な影みたいなものはまったく感じられませんでした。私が鈍感なだけかも知れませんが」

私は当てが外れたような気がしていた。それから2時間くらい話をしたが探す糸口になるような情報はまったく聞くことが出来なかった。

庄司紀子と別れてから調査員とクルマのなかで話し合いをした。

「庄司紀子は本当のことを言っていると思いましたか」

私は調査員のひとりに訪ねた。

「分かりません。ただ今のところ彼女だけが浮かび上がった線なのでしばらく行動確認をしてから結論を出したいと考えています」と答えた。

私と山内はその言葉に従うしかなかった。


プロの調査員が詳しく調べて浮かんできた唯一の糸の先が庄司紀子ひとりだったという事実に私たちは驚愕すると同時に落胆した。

10年以上前の事件と須藤杏の失踪はつながっていないのか。

探偵社は事件性があったと分かったらそれまで調べた情報をすべて警察に引き渡してこの案件から手を引くとしていた。

それを我々にも確認を求めた。

そうすると、須藤杏の失踪は事件性がないことがほぼ確定したということなのか。私はその後何度も探偵社の担当者に確認をした。

だが、まだその結論を示すだけの材料は乏しいが、長年の経験上で言うと、事件性は無いと思うとはっきりと言ったのである。

その言葉にも驚き、落胆した。

私たちもそうだが、何より須藤杏の母親の落胆の方が遥かに大きいだろう。

そのことを母親にどう伝えるかを思うと私は心が萎んでいくいくのを感じた。

それと同時にじゃあ何故須藤杏は姿を消したのか。

現実社会から逃亡するほどの何らかの思いがあったのだろうか。

私は数日後、ひとりで須藤杏が働いていた不動産屋を訪ねていた。



須藤杏の消息は庸として分からなかった。

プロの調査員もギブアップ寸前のように感じた。

最後の切り札である登山仲間の庄司聡子からも何の情報もなかった。

私は原点に戻る意味で、須藤が失踪時に勤めていた不動産会社を訪ねた。

店長はまたかという顔をしたが、私がこれまでの経緯を説明すると顔つきが穏やかになった。

「私たちも出来るだけ早く彼女に帰ってきてもらいたいです。オーナーさんからの信頼も厚いベテラン社員ですからね。しかし、うちの社員全員に聞いても、特に親しくしていたオーナーさんからも話を聞きましたがどうしても彼女が姿を消すような理由が見つかりません」

「それは分かりましたが、10年前の事件のことはどなたか聞いてないですか」

「はい、私は2年前に呑みの席でその話を聞きましたが、彼女がその事件に関与している風はまったくありませんでした。警察も彼女には疑いの目は向けなかったそうです」

私の頭は混乱していた。

これまでの調査では須藤が失踪する理由はどこにも存在しない。

我々の調査が甘いのか知れない。

他の探偵社に頼んだらもっと違う結果になったのだろうか。

様々な思いが頭のなかを駆け巡る。

このままではせっかく調査費を出してくれた須藤杏の母親に顔向けできない。

私は暗澹たる思いがした。

二日後、新宿の飲み屋で山内と差し向いでチューハイを前に話していた。

「俺はもう限界だと思う。須藤のお母さんのためにもここは一旦調査を止めて彼女の無事を祈ろうじゃないか」

「お母さんに申し訳ない」

「これ以上経費をかけるのも迷惑をかけることになるぞ」

「でもまだ調査は継続中じゃないか」

「探偵社も商売だから調査を継続すれば金が入るためだろ」

「何で結論を急ぐんだ」

「結論を出すわけではない。いったん冷静になろうと言っているんだ」

このままでは山内と決裂してしまう。

私は悩んだ。あのことを話したほうが良いだろうかと。

私が何故急にあの日の3人に会いたくなったのか。

青春の思い出をたどりたいというのは決して懐かしさだけではない。

そうしなければならない理由があることを。

しかし、そのことを話すと余計な心の負担を山内にかけることになる。

それが心配だし、嫌なことだった。

「そうしよう」私は山内の言うことを承諾した。

次の日に探偵社に中止を告げ、経費を精算して請求書を送るように頼むことにした。「須藤もある日突然帰ってくることもありうると思う」

山内は別れ際にそう言った。

私は心のなかで「俺はもう時間が無いんだ」と呟いていた。


私には残された時間が無いのだ。

がんであることを宣告されて2か月経った。

手術ができないステージ4の膵臓がんだった。

余命は長くても半年だと言われた。

抗がん剤治療は拒否した。

副作用で体が自由に動かなくなるからだった。

3人に再会するまで死ねないと思ったからだった。

次の日に探偵社に向かった。

「今日で調査を終わらせてください」担当者は残念な顔をした。

「宮崎聡子の行動確認を2週間続けましたが、不審な動きは無かったです」

「事件との関わりについては何か分かりましたか」

「うちには警察にいた人が多数いまして、そのつてで捜査関係者に話を伺いました。

失踪した2人の人の消息はいまだにつかめないそうです。

海外に高飛びした説が有力です。

拉致されて消された可能性は低いというのが捜査陣の見解だそうです」

私はため息をついた。

「このことは他言しないでください。まだ捜査中のことですのですので」

担当者は厳しい顔つきだった。

「分かっています。しかし、失踪の原因は分かっているのでしょうか」

「それは捜査上の秘密だということで話してもらえませんでした。私の推測では資金流用だと思います」

「相当な金額なのでしょうね」

「外資ですから、追及が厳しいし、もし捕まったらとてつもない賠償金を請求されますからそれが怖かったのではないかと思います」

「では、2人はどこかで生きているということですね」

「それも私の想像ですが、どこかで生きていることの可能性は高いと思います」「では須藤杏はまだ生きていると思いますか」

「この世から消えてしまうような理由が見つかりません。可能性はあると思います」「自殺しても遺体が上がらないだけという可能性もありますよね」

「失踪されたご家族はそう考える方もいます。可能性はありますが、それもひとつの考え方だというのが私たちの経験で言えることです」

「とにかく居なくなったのには何らかの原因がありますよね。それが分からないのがもどかしいです」

「我々の力不足かも知れません。請求にはそこのところも加減させていただきます」

私は担当者に感謝の言葉を述べて探偵社を後にした。

これで、しばらくは須藤杏が自分で姿を現さない限り私は彼女に会えないだろう。駅までの道のりで私は遠くを見つめながら自分に残された時間のことばかりを考えていた。



私は末期の膵臓癌だった。

残された時間はもう無かった。

死を前にすると人間はどうなるのか、私はこれまでに何度もそのことについて考えたことがある。

がんと宣告される前からだった。

だがやはりそれが自分の現実となってみると、心のなかは思っていた以上に静かだった。

どうじたばたしても現実を変えることは出来ない。

後はそれを受け入れるしかない。

私が大学の卒業式の直前にあの3人と会って、時間を過ごした一日のことを死ぬ間際になって急に重い記憶となって私に襲い掛かることはまったく想像したこともなかった。

それまでの人生のなかでたびたびその日のある瞬間フラッシュバックのように蘇ることはあったが、数秒のことだった。

それ以上は、霧のように流れるように消えていた。

2か月前、彼らを捜してもう一度会おうと思って行動に出たのは1か月前のことだ。どうしても彼らと会いたいと思ったのは「夢」からだった。

「夢」にあの青い橋梁を渡る4人がまるで第3者の目のように4人をとらえた画像が現れた。

ドローンのような画だった。

ゆっくりと俯瞰された映像がオレンジ色の空気のなかで黄金色に輝く多摩川の川面と青い橋梁を歩く4人をとらえている映像が続いた。

夢を見た翌日、私は不思議な思いに駆られた。

それまでフラッシュバックのように一瞬だけ現れた画像が、はっきりとしたストーリーのような塊として私の心に現れたのだ。

そのことに私の心は奪われた。同じ年に入学し、サークルも同じだった4人。

だが、それぞれ学部も違い、群れている仲間も違う4人だった。

私にしてみれば1対1で長く話したことも無いし、一緒に行動をしたこともない4人が最後のサークルの飲み会で、同じテーブルについたということだけで大学生活最後の「遊び」をしたのか。

言い出したのはだれかということもはっきりとは覚えていない。

多分4人のなかで口数の極めて多い山内だったろうということは想像できるが、もしかすると女子から言い出したのかも知れない。

レンタカーを借りて湘南までドライブしようと言い出したのは、もしかすると大学時代友人とクルマで遊びに出かけたことのない女子から声が上がった可能性もある。

きっかけはどうあれ、ともかく奇跡のように4人が集まり、そして2度と4人で会うことのない一日を過ごした。

一期一会という言葉があるが、あのときの4人は多期一会とでも言えようか。

学生から社会人へと人生が大きく転換する直前の一瞬をなぜあの4人で過ごしたのか。他人からみるとまるでどうでも良いようなことがその人の人生では大きな意味を持つこともあると思う。

それがどんなにつまらないことであっても。

私のその前の人生でもその後の人生でも大きな出来事は数えきれないくらいあった。

それなのになぜ死の直前にあの日のことをここまでこだわるような思い出が私を襲ったのか不思議でならない。


私は目を閉じた。


山に向かって沈んでいく夕陽。


4人は並列になったり、一人だけ先に歩いたり、ひとりだけ後になりながら橋を渡っていく。

山内が何かを引地枝里に向かって言う。

引地枝里は口を開けて笑う。

須藤杏の肩をたたきながら。

須藤杏も笑っている。

私はそのひとりひとりの顔を見ている。

夕陽正面に受けた彼らの顔もオレンジ色かかっている。

引地枝里が私に何かを言っている。

私が何かを答える。

須藤杏は急に真顔になって多摩川に顔を向ける。

彼女の髪が顔にかかって見えなくなる。

「何を見ているの」

わたしは話しかけたかったのか。


橋を渡り切り、引地枝里のアパートに入った。

何故彼女のアパートに向かったのか理由は思い出せない。

多分、まだ別れたくないという感情が4人にあったのだろう。

私は引地枝里の部屋の様子を今でもはっきりと覚えている。

小さなテーブルがあった。

ベッドが無かったので布団で寝ていたのだろう。

テーブルにはスタンド式の鏡があった。

冷蔵庫もあった。

引地枝里がお茶を淹れてくれた。

何を話したかはまったく記憶にない。

ただ、引地枝里が突然手鏡を引き寄せて口をぐいと開けて口のなかを見だしたことが記憶にはっきりと残っている。

多分、虫歯かなとか言っていたのだと思う。

夜になって引地枝里のアパートを後にして最寄りの駅まで3人で歩いたのだろうか。その記憶がまったくない。

引地枝里が大きな口を開けた画像だけがその日の最後の画像となって私の記憶に残っている。

あの日の3人のうち山内と引地には会えた。

その後の彼らの人生も聞けた。

だが、須藤杏だけには会えなかった。

いや私はまだ死んでいないので会えない可能性が高いと言ったほうが正解だろう。だが、彼女を捜している間に彼女の人生の多くの部分を覗くことは出来た。

それだけでも良かったと思う。

上出来だ。

私の最後のときもきっとあの情景を思い出すだろう。

山に落ちる夕陽に向かいながら青い橋梁を渡る4人の姿が。






終わり。





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青い橋梁 egochann @egochann

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