第15話

須藤杏の郵便物で一番やり取りの多かった宮崎聡子の話を聞いていると、何十年か前に男からひどい仕打ちを受けて、それがトラウマになって、結婚に対する気持ちが塞いでしまったという話に私は違和感を覚えた。

例えば痛みが癒せないほどの暴力行為をされてAPSDになったとかなら分かるが、話によれば普通の恋愛だったそうである。

ただ、相手に裏切られたというだけで一生結婚しないということまで行きあたるような強いを理解できなかった。

「あなたは男性だからです」

宮崎聡子はあなたには到底分からないだろうという不審の光の眼線を向けられた。「そうでしょうか」

私はまったく理解できなかった。

宮崎聡子にそういう目つきをされたからなおさら意固地になってしまった。

「我々は確かに男の立場でしか考えられないから分からないのかも知れない」

山内はやりあう私たちの間に入ろうとしていた。私は少し落ち着きを取り戻した。「どんな人だったのでしょうか」

「いたって普通の人だということですよ。須藤さんが最初に勤めた会社の先輩だったらしいのですが、彼女は会社を辞めたでしょ。それから彼の方に新しい女が出来て、須藤さんを捨てたのです」

それは分かる。

須藤杏としては男を許せなかったのだろう。

だが、時間が経てば次第に傷は癒せるものではないだろうか。

前向きになれば新しい恋も始まるのではないだろうか。

そんな私の考えは甘いのだろうか。

そこまで女の気持ちは複雑なものなのだろうか。

「彼は優しかったと言っていました。それまで出会ったなかで一番優しかったと」宮崎聡子の目は潤んでいた。

「優しかったゆえに、裏切られたショックが大きかったのですね」

山内が珍しく穏やかな口調で語り始めた。

「須藤にとってその人は最終的な人だったのでしょうね。もうこの人以上の人は現れない、そう思ったんだがそんな人も豹変して自分を裏切る。絶望したんじゃないかな」

山内はまるで須藤の心のなかが分かるような断定をした。

「お前は理解できないか」

私は山内の言うことに弱いながらも反応した。

「少し分かったような気がしてきた」

「そのことはそれとして、須藤さんの行方不明の方はどうなのでしょうか」

私は宮崎聡子にそう言われて目が覚める思いがした。

「とにかく私たちも40年以上会っていませんので、少しでも最近の彼女のことを知っている人たちにお話しを伺っているところなのです」

宮崎聡子は俯いて目を閉じていた。

「話したことと言えば2年くらい前なのですが、そのころ登山に興味があって、地元の登山愛好グループに入って休日は登山に行くのよと話していましたね」

「どんな名前のグループか知っていますか」

「地元ということぐらいです」

「当時住んでいた場所は今の住所の前の住所だから、二子玉川でしたね」

「そうです、あそこのレストランで食事を一緒したことを覚えています」

「では二子玉川の近辺の登山愛好家グループということですね」

「多分そうだろうと思います」

私はそのとき思い出していた。

私が山内、引地、須藤を捜そうと思ったきっかけとなった40年以上も前の「あの日」。

多摩川が夕陽で黄金色に輝いていたあの日。

4人で集まってドライブをして、引地のアパートまで行く途中に見たあの景色。

そして4人だけの思い出。

最初で最後だったあのときの4人。

その場所に近いところに須藤杏は住んでいたいたのだ。

彼女はあの日のことを覚えていたのだろうかと考えた。

あの橋を渡るときのみんなの横顔がシルエットになって私の脳裏に浮かんできていた。

「じゃあ、おれが調べておくよ」

山内からそう言われてやっと我に返った。

「結果を私にも教えてくださいますか」

「もちろんです」

「私も心当たりを当たってみますから」

「心当たりといいますと?」

「かつての同僚とかです」

私と山内は宮崎聡子の家を後にした。

山内は自宅のPCでさっそく調べてみると言ってどこにも寄らずに帰っていった。

その日の午後11時すぎに山内から電話があった。

「二子玉川、登山愛好グループで検索したら、数件のグループのブログがあったので、さっそくコメントしてみた。リターンがあればすぐに連絡する」

「あんまり遅くまで起きているなよ。具合が悪くなるぞ。俺たちもう歳なんだから」

「ああ、1時をまわったら寝るよ」

山内からはその日のうちには連絡は来なかった。翌日の夜になって電話がかかって来た。

「反応があったぞ、その人はツイッターをしているのでそちらのダイレクトメールをしてみたらすぐにリターンが来た。明日なら時間があるそうだ」

「須藤のことを知っているということだな」

「そうだ、しかも今でも会員みたいなもので、半年前も丹沢に行ったそうだ。須藤からそれ以来なんの連絡もないから心配していたそうだ」

私は少しづつではあるが須藤の洋服の切れ端に指を絡められる距離になってきたように感じられた。


10月の終わりに近い日曜日、私と山内は二子玉川駅の改札口で中野という男性を待っていた。

中野は二子玉川周辺の住民で作る「丹沢山系登山の友の会」の主催者で、須藤杏とは半年前にも丹沢を登ったということだった。

私生活のことはほとんど知らないが、山での活動のことならお話ししても良いということで会えることになった。

私は小さい画用紙に「中野様」と書いて改札に向かう人たちに見えるように掲げた。ホームから降りてきて改札口に向かう人には充分に伝わるだろうと思ったからだ。約束の時間は午前10時だった。

休日ということもあり、駅は平日よりはずっと空いていた。

電車が着くと、パラパラではあるが人が来る。

そのなかに、赤いナイロンのジャンパーを着た老年の男性がこちらに気が付いて近寄ってきた。

「今村さんですか」

その男性は中野氏だった。

「お待たせしました」

「では喫茶店にでも行きましょう」

我々はあらかじめ調べていた駅から少し歩いた場所にある喫茶店に入った。

「ここへは登山会の人たちともよく来るんですよ」

中野氏は細見の顔に口ひげを山羊のように生やしていたが、髪の毛も髭も見事に白髪だった。

それがいかにも山男風情を漂わせていた。

「須藤さんが行方不明というのは事実なのでしょうか」

「はい、私たちは先日もお話ししたように大学の同級生なのですが、須藤さんに久しぶりに会いたいということになりまして探していると行方不明であることが分かったのです」

「私は半年ほど前に須藤さんと丹沢に登ったのですがねぇ」

「そのときは何人ですか」

山内が話に入ってきた。

「5人です。じつは我々が開拓した山頂までの道がありまして、他の人にも分かりやすいように標識を立てているのです。その管理のこともありましてひと月に1回は登るのです」

「それには須藤も欠かさず登るのですか」

「いえいえ、彼女はやはり半年に1度くらいですね。でも入会されて10年になるのですが、そのペースは変わりません。」

「須藤さんが他の友人を連れてきたようなことはありませんか」

「多分無かったと思います」

「逆に、登山会で親しいという方はいらっしゃいますか」

中野は眉間に皺を寄せた。

「んー、多分ですが一番親しかったのは私ではないかと思います」

意外な答えだった。

だいたい、女性は女性で固まるものだと思っていたのに。

「というのも、うちの会は発足が昭和50年ということもあって古い会で会員も高齢の方が多いのです。しかも女性はほとんどいなくて、須藤さんは普段の町の会合には来られなくて登山のときだけ参加するのです。ですから、私と話すことがほとんどですね。私は病気以外は必ず参加しますから」

「どんなお話しをしますか」

「ほとんど山のことですけど、私生活のことも聞いたことはあります」

「どんな話でしょうか」

「転職を繰り返してきたとか、お仕事のことですかね」

「どんなことでもかまいません。些細なことでも捜すヒントになる可能性がありますから」

「今村さんからお電話をいただいてから考えておりますが、そうですねえ、覚えていることで引っかかるというか、違和感があったことはひとつです」

私と山内は息を呑んだ。

中野は目の前の珈琲を一口啜るとカップを置いて口を動かした。

「40代のころに勤めていた会社でとても嫌なことがあったというのです」

「それは結婚のことではありませんか」

「いえ違います。その会社は神奈川の関内にあった外資系の保険会社だったそうなのですが、そこの支店長と顧問の外国人が2人とも失踪してその後も行方が分かっていないということだったんです。須藤さんはその会社を事件後すぐに辞めたそうなのですが、失踪した二人のことが今でも頭に浮かんできて嫌な気分になるときがあるというんです」

奇妙な話であったが、中野氏が虚偽を言うことはないだろう。

私はその事件と須藤杏の行方不明が関係しているとは思えなかった。

20年も前のことだ。

だが、それとは別に、その事件のその後のことがどうしても知りたくなった。

「結局、失踪した2人はどうなったと話していましたか」

「分からないということでした。だから尚更思い出すと不気味だと言っていましたね。そんなことがあるから登山で発散させようという気になったとも言っていました」

須藤杏が勤めていた関内にある外資系の保険会社はまだそこにあるそうである。「俺たちもそこに行ってみるか」

山内は駅まで向かう道で私に言ってきた。

「もちろんだ」

私はもうそのころにはとことん須藤杏の行方を追う覚悟でいたのだ。

須藤杏の母親のためにも、それに私のためにも、どうしても須藤杏の消息を確かめなければならないという使命感のようなものが私の心に渦巻いていたのである。







#16に続く。












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