第10話
母校の学食は、私が学生当時からあまり変わっていなかった。
内装はさすがに40年以上も前からは入り口などは依然の質素だけのものから、女子学生が増えたこともあるのか、華やかで、煌びやかなものになっていた。
メニューも昔は、ラーメン、うどん、A定食、かつ丼などといかにも「男向け」のものだけだったのに、「サラダうどん」や「パスタ」やデザートをメニューに加わっていたり今どきのものになってはいた。
だが、食堂内の雰囲気はまったく変わっていなかった。
チャペルのような、講堂のような広くて古風な内装はこの大学の歴史を感じさせるし、大学の名所になっていた雰囲気は昔どうりだった。
昼前なので学生の姿はほとんどなく、数百人は座れるだろうくらいの広さの真ん中に私に向かって手を振る男がいた。
山内だった。
綿生地の帽子をかぶっていて、いかにも「老人」のようないでたちで座っていた。「待ったか」
「いや、俺も今着いたところだ」
「まだ時間じゃないからな」
「それより彼女、本当に来てくれるかな」
「来るだろ。約束したのだから」
約束の時間になったが、まだ引地枝里は来なかった。
私と山内は交互に腕時計を見ていた。じりじりとした時間だった。
11時10分過ぎたころには学生の姿がぼちぼちと現れだした。
「来ないな」
山内が言ったところで、入り口でこちらを見ている中年女性が見えた。
ベージュの上着に黒いパンツ姿で、髪の毛を後ろに結んでいた。
私はその女性に近づいた。
彼女は目を細めて私を見た。
その瞳の感じで思い出した。引地枝里だった。
「引地さんですか」
「そうです、今村さんですよね」
彼女から微笑みが生まれた。
「山内はあそこに座っています」
私が指さすと、山内は立ち上がった挨拶をした。引地枝里も頭を軽く下げた。
「座りましょうか」
私は引地をテーブルまで案内した。
「ごめんなさい。卒業以来初めて来たので迷いました」
「そうですか、来ていなかったのですか」
「はい、来たかったのですが、機会がなくて」
「お元気でしたか」
私は彼女の顔を見た。
深いしわが刻まれていて、肌はそれほどくすんでいなかったのだが、学生のころのようなふっくらとした印象は大きく変わっていた。
この容貌なら街中ですれ違ってもまったく分からないだろう。
「私たちも老けたでしょう」
「でも、今村さんは面影がありますよ」
「じゃあ、俺は変わっていたということですか」
引地枝里は笑いながら
「そうじゃないんでうけど、山内さんはちょっと思い出すのに時間がかかりそうですね」
「でも、引地さんたちは山内と一番しゃべっていましたよ」
「そうですか、どんな話をしていたかはまったく覚えていませんけど」
「それにしてもこの食堂は変わりませんね」
「雰囲気は変わりませんね、でもメニューは変わりましたよ」
「私もさっき見たのですが、まだかつ丼もありますし、ラーメンもあるし、ただ定食は違うメニューになりましたね」
「引地さんたちは何を食べていましたか」
「女子はほとんどお弁当でしたね。ここで食べたことはあまりなくて、広場のベンチとかで食べました」
「俺たちはだいたいここだよね」
山内は私に賛同を求めた。
「ここか、外の喫茶店とか中華料理屋に行ってラーメンと餃子とか食べてたよな」「そうだね、ここは1年生のころは来たけど、それ以来はあまり来なかった気がする」
「ところで引地さんは卒業後はどこに就職したのですか」
「あのとき話しませんでしたか」
「あの日はそういう話はしなかったような気がします」
確かに私の記憶では進路についてしゃべったことは覚えていない。
就職活動のことも話さなかったような気がした。
「私は教職の免許を取って、私立の国語の教師になったのです」
「東京ですか」
「いえ、地元の学校です。大学の付属の高校だったんです」
「そうですか、すごいなー」
「今村さんはどこですか」
「銀行です」
「エリートじゃないですか」
「俺は電気メーカーの子会社です」
「おふたりとも立派じゃないですか」
「教師になるのは凄いことですよ」
「お二人は定年まで勤められたのですか」
「リストラの危機を何度も乗り越えましたよ」
山内はにこやかに言った。
「そうですよね」
引地枝里は強張った顔をした。
「銀行なんか内部の人間関係が複雑怪奇でお化け屋敷のようなところでいたよ。定年になってやっと娑婆に戻れたような気がしました」
「銀行は合併とかでリストラも激しかったんじゃないですか」
「幸い、私のラインのトップが安泰だったので、一番下っ端の私も助かったということなんですよ」
「ところで何か食べますか」
山内が提案した。
私はラーメン、山内は食堂でよく食べたというかつ丼、引地は最近のメニューだろうと思われるリゾットの食券を買って、カウンターに並んで注文のものを受け取り、テーブルに着いた。
母校の食堂で私たちは並んで40年ぶりの再会を果たした。
引地枝里は、髪が白くなっていて、学生のころのふっくらとした感じは無くなり、年相応のおばあちゃんになっていた。
私と山内が並んで座り、対面に引地が座った。
「結婚されたのは20歳台でしたか」
私はピラフをスプーンに乗せて口に運ぶ引地に向かって言った。
「同じ高校の国語の教師をしていた人と28歳のときに結婚しました」
引地は口ものを緩ませていた。
「同じ職場ですか」
「今村さんはいつですか」
「私は遅いんです。都内ですけど支店をぐるぐる回されましてね。それに高度経済が落ち着いてきて、金融再生も始まりかけていましたから」
「銀行は預金獲得で最前線の支店勤務はきつかったでしょ」
引地は教師という職業のわりには経済についても分かっているようだった。
「俺のところは経済の良し悪しがすぐに反映する商売だったので、一番悪い時期に就職したという感じだったかな」
「教師としては中学校が荒れるころくらいですかね」
「そうですね、熱血先生がもてはやされる時代でした。私もそうですが、主人も熱血とは正反対の教師だったので、子供たちには人気が無かったですね」
そんな話をしているうちに食事が終わった。
そのころになると、ちょうど昼休みの時間になり、食堂には学生があふれ出した。「席を譲りましょうか」
「そうだね、俺たちはもう部外者なんだから」
「OBやOGが威張る時代じゃないしな」
ということで、場所を移そうということになった。
だが、学外に出ても昼時なので、どこもランチを取るサラリーマンなどで混雑しているということで、私たちは学内の広場に面しているベンチに座ることにした。
ベンチで食事をとる学生も多いので、探すのに苦労したが、ひとつだけ三人掛けのベンチが空いていたのでそこに並んで座った。
「俺のところの息子は今海外赴任でアメリカにいるんだ」
山内が一人息子のことについて引地に話しかけていた。
「立派な息子さんですね。うちなんか上の娘が高校生のとき不登校になり、引きこもってしまったんです」
40年ぶりに会った学友にいきなり深い話題を持ち掛けたなと私は感じた。
「それから3年間は地獄でした。毎日が心配の連続です。しかし、話せないんです、娘と。明らかに会話を拒否してくるんです」
「うちは下の男の子が小学校のときに不登校になりかけたことがあります。でも学校の先生も熱心にうちまで来てくれてことなきを得ましたした」
私もつられて深い話題に入ってしまった。
「高校生になると自我が出来ているころなので、こちらの話に耳を貸さないんです。だから取り付く島がないんですよ。しかも共働きですし、まだ下の子が小学校低学年でしたから、そっちにかかり切りになってしまって」
「俺の子供は反抗期はあったけど、不登校は困るよねまったく」
山内が他人事丸出しの雰囲気で言うので、引地は頭を下げてしまった。
「でもお嬢さんは立ち直ったのでしょ」
私はこの状況をどうにかしたかった。
「3年間引きこもってましたが、ある日突然通信制の高校に行って卒業したら専門学校に行くと言い出したんです」
「それは素晴らしい」
「何がきっかけになったかは今だに分かりませんが、とにかく私は気が変わらないうちにとすぐに通信制の高校の入学相談にいって入る手続きをしまして、結局看護師の学校に入って、今は都内の病院で働いているんです」
引地の顔は赤みをさして、さっき山内が言った言葉を取り消すように輝いていた。「何よりですよね。そうじゃなければ我々に話しませんよね」
「多分そうだろうと思います」
私たちは、子供の話を中心に1時間くらいしゃべり続けた。
「ところで、須藤さんにも会いたいなあ」
私は本音を口にした。
「私も会いたいです。学内では彼女くらいですから友達は」
「そうなんですか、引地さんならもっと友達が多かったように思いますけど」
「女の子はグループを作るじゃないですか。私も4~5人の仲間がいましたけど、須藤さんくらいしかお互いの家に行き会うような人はいませんでしたから」
「それなのに卒業してから会ったことはないんですか」
山内が不審そうに聞いた。
「彼女が入った会社が書店に置くグッズの会社だったんです。そこの営業だったので、全国の本屋さんに出張ばかりして、もの凄く忙しかったんですよ。あのころは今みたいに携帯電話などありませんから、下宿にいないと連絡のしようが無くて。まさか、会社に電話することはできないでしょ」
「会社にもよりますけどね」
「一度電話をかけたことがあるんですけど、邪見にされたので、もう電話できなくなって」
「なるほど」
私も山内も引地枝里の話に納得したのだった。
#11に続く。
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