第9話

引地枝里の実家に電話をすると、妹と名乗る女性が電話に出た。

実家の電話番号が40年以上前から変わっていないことにも驚いたが、妹さんが出たことにも驚き、ある意味感動した。

「お姉さんはお元気でいられますか」という問いに「元気です」と答えられたことで私は山内と顔を見合わせて良かったという顔の合図をした。

「それで、当時のテニスサークルの人たちで集まろうということになったのですが、ご連絡先を教えていただきまますでしょうか」

私は恐る恐る聞いてみた。

「それでは姉に連絡してみますけれども、姉は結婚していまして、東京に住んでおりますので、まず姉に聞いてみてそちらに電話させていただくということではどうでしょうか」

私は名前を名乗り、携帯電話の番号を教えた。

「電話くれるかな」

山内は心細い顔をした。

確かにそういう不安はあった。

男は情けないメンタルが強いので、勝手にノスタルジーになり、40年も前のことを懐かしくて会いたいと思うのだが、女性はそんな過去のことを振り返るのが嫌いなのではないかという思いが私にはあった。

山内の不安そうな顔を見ていると、彼も同じような気持ちでいることが分かった。「どうかな、女は過去を振り返らない生き物だと思うが」

「過去のことをじとじと思ってセンチメンタルになるのは男だからな」

「じゃあ、おれたちはそんな情けない部類に入るということか」

「それだっていいじゃないか。俺はこの歳になって、あの日の4人のことが人生で一番重要な思い出になった。それを受け止めてくれるかどうかだろ」

私はある意味自信をもって言ったが、山内は首を横に振った。

「楽天的過ぎるな。女は分からんぞ。まして結婚してもう孫もいるかも知れないんだぞ。そんなときに40年以上も前の大学の同期の男が連絡して来ても、迷惑に思うほうが自然じゃないかな」

「それだったら須藤杏にも連絡してみて、須藤の反応が良かったら須藤に連絡してもらったらどうだ」

「じゃあ、これから連絡してみるか」

私は大学の事務所からもらった須藤杏の実家の電話番号を見た。

「よし、電話してみろよ」

私はスマートフォンのダイヤルの数字を押した。

「この電話は現在使われておりません」というアナウンスがいきなり聞こえてきた。そういうことも十分あり得ると思っていたが、やはりそれが現実となると、やはり落胆が大きかった。

「やっぱりな。それはそうだよな」

「須藤は千葉の船橋が実家だから、そこに行ってみるか」

「まずは、引地からの連絡を待とうよ。それに引地が我々に会いたくないとなれば、須藤を見つけることも無いだろう。お前は残念だろうが、こればかりは仕方ないことだよ」

「確かにそうだ。そうなれば、俺はきっぱりと諦めるよ。お前に会えただけでも良かったし」

「そう言ってくれると嬉しいけどな」

私たちは喫茶店を後にして、新宿まで出て、駅からすぐのところにある居酒屋で軽く飲んでから帰宅した。

私は次の日からいつ引地から電話が来るかも知れないと思って、スマホの電池の残量ばかりが気になっていた。

せっかく電話がかかって来ても、電池が切れていて出られなかったり、会話中に電池が切れてしまっては引地はもう二度と電話してこないような強迫観念が生まれていた。次の日は、電話がかかってこなかった。

もし、私からの電話で引地が懐かしく思えば次の日には電話をしてくるだろうと思ったから、その日が過ぎた時点で半分諦めていた。

そして、次の日にも電話がかかって来なかった。次の日もだった。

私はもう諦めるしかないと思った。

山内に電話すると「三日も電話してこないということは諦めたほうが良いかも知れんな」私はため息をついた。

そして、自分勝手に感傷に浸っていた自分が恥ずかしくなっていた。

やはり、自分だけの思い出だけに留めておけば良かったのではないかと思った。

一週間が過ぎた、朝10時過ぎだった。

スマホが鳴った。

そのころはもう諦めていたので、何気なくスマホの画面を見たら、見知らぬ携帯の電話番号だった。

「はい、今村です」

「引地ともうします」

私は思わずアッと声を出した。

「えっ、引地枝里さんですか」

「姓が変わって栗原ですけど」

「あー、すいません。私のこと覚えていますか」

「ええ、卒業まじかのときに須藤さんとお名前は忘れましたがもうひとりの男の方とドライブしたことは覚えています」

私は思わず涙を流しそうになった。

嬉しいというのはこういうことだと思った。

心から嬉しいと思ったことはもう数十年ぶりのことだった。

「ありがとうございます。あなたがお忘れになった男は山内と申しましてまず私は山内に連絡しまして、大学に行って事情を説明して引地さんの実家の電話番号を聞きまして。ご迷惑ではないかと心配しておりました」

私は必死になって自分の心情を説明していた。



引地枝里さんからの電話があったのは、実家に電話してから1週間ほど経ってからだった。

彼女は、あの日のドライブのことを覚えていてくれた。

「覚えていただけていて嬉しいです」

「忘れませんよ、細かいことまでは覚えていませんが、最後に私の下宿で休んでから帰りまでんでしたか」

「そうです。庭から入るお部屋でしたね」

「そうなんです、大家の方の離れを借りていましたから」

「たった一度ですけど、引地さんのお部屋に伺ったときのことが昨日のようです」「そうですね。じつは今村さんからお電話をいただいて、すぐに妹から聞いていたのすが、電話することをためらっていました」

それはそうだろう。40年も交友がない男からいきなり電話をかけられたりしたら躊躇するのが当たり前だ。

「もう大分前のことですから。でも、その日以来訳が分からないのですが、あの日のことがうっすらと思い出してくるんですよ。それでね、思い切って電話してみようと思いました」

「ありがとうございます。それでお願いなのですが、どうでしょう。山内と3人でお会いできないでしょうか。私たちも65歳を超えて終着点も見えてきたのでということもありますけれど、同じ大学で過ごした仲間なのですから、40年ぶりの同期会ということでどうでしょう」

私は声を高めて明るく言った。

私はよく人に電話の声が低くて怖いと言われたことがある。

だから引地が私の声でひるんでしまい、会うのを拒む可能性も考えて、わざと明るい声を出した。

「はい、大丈夫です。どきどきしますけど」

「私もです。ところであの日一緒だった須藤さんの連絡先を知りませんか」

しばらく沈黙があった。

「卒業してしばらくは連絡を取っていて、会ったりもしたのですが、2年目くらいかな、彼女と連絡が取れなくなって、それきりになってしまったんです」

私はそういうこともあり得ると思っていたからあまり衝撃を受けることはなかった。

山内と引地だけでも会えるならそれでもいいと思っていたからだった。

「とりえず、またお会いしたときにお話ししましょうか」

引地との会話は、お互いのスケジュールの調整をしようということで終わった。

彼女は、毎週火曜日が都合がよいとのことで、さっそく山内に電話をした。

「俺ならいつでもオーケーだよ。そちらで適当に決めてくれ。それで引地は今どこに住んでいるんだ」

「板橋区にいるそうだ。20年以上も前からそこに住んでいるということだった」「じゃあ、池袋がいいんじゃないか」

「そうだね。ブクロも随分変わったけど」

「おいおい懐かしい言葉を使うじゃないか」

そうなのだ。

我々の世代では池袋をブクロと呼んでいた人が多い。

今の人はどう言っているのかわからない。

我々は学生運動のさなかであり、池袋に拠点のあった過激派が「ブクロ派」と呼ばれたのも池袋に由来があった。

「最近じゃあ、ブクロにもほとんどいかないからどこで待ち合わすことにするか」「店はもうまったく分からないからやはり大学のどこかにするか」

「おれたちのような爺が校内に入れるのか」

「卒業生なら大丈夫だろ。それに学生食堂なら学生じゃなくても入れるというから」

「だったら、教会みたいな建物の食堂にするか」

「それがいいと思う。いったんそこで会ってから、別の店を探してもいいしな」

私と山内の話はまとまった。

すぐに引地枝里に電話をした。

すると引地枝里も大学での待ち合わせに賛成し、次の火曜日の午前11時に待ち合わせをすることになった。

最近いつ来たのかまったく分からないほどご無沙汰だった池袋の駅は相変わらず人であふれていた。

改札口を出て左に曲がると西口に出る。

西口には東武東上線の駅があり、東口に西武池袋線の駅がある。

つまり、西口に東武、東口に西武があるという東と西のイレギュラーが池袋の特徴だった。

私の母校は東口にある。

地下通路を通り地上に上がって西にまっすぐに行けば大学がある。

久しぶりとはいえ、数年前には来たことがあるので、東口が大きく変わったことは知っていたので、すんなりと大学に着いたのだが、引地はどうだろうか。

しかし、考えてみれば引地が住んでいるのは板橋だということだから、池袋はたまに来るところなのかも知れない。

まして、東武東上線沿線に住んでいるなら池袋はもっと身近なはずだろう。

私や山内より今の池袋に精通しているかも知れないと思った。

大学の正門から中に入った。警備員に呼ばれるかと思ったが、そんなこともなくすんなりと入ることが出来た。

午前11時前ということもあり、学生はまばらだった。

ツタの絡まる校舎に懐かしさを覚えた。

卒業以来、学内に入るのは確か3回目くらいだったろうか。

最後に訪れたのはもう20年くらい前のことだったように思う。

私は、待ち合わせをしている学食に向かって歩いた。





#10に続く。












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