第8話
駅前のレンタカー屋があった場所は、商業ビルに変わっていた。
今のように大手のレンタカー会社が全国にあった時代ではなく、地元を中心にした中小のレンタカー屋が多かった時代だ。
レンタカー屋は木造の店舗で、こじんまりとした建物にクルマが5台ほど止れる駐車場があった。
40年前とは駅前の景色が大きく変わっていたのだ。
私と山内は、国道を多摩川に向かって歩いた。
40年前のころの景色はまったく覚えていない。
「ここらへんは変わったんだろうな」
山内もまったく覚えていなかったようだった。
私は微かな記憶をたどった。
橋にかかるまでの道の周辺には草むらがあったような気がするが、それは想像の部分が入っているのかも知れない。
人の記憶というのは複合化されるということを聞いたことがある。
記憶が真実であるとは限らない。
様々な記憶と知識が混じりあってひとつの記憶を作り出すことがあるという。
つまり、真実と真実をかけて二で割ったようなものがひとつの記憶として現れるということなのだろうか。
私が見た40年前の光芒は幻だったのか。
山内は女子と話していたので景色は見ていなかったと言った。
引地や須藤は私と同じ景色を見たのだろうか。それを聞きたかった。
国道をしばらく歩くと橋梁が見えてきた。
時間はまだ午前中である。
青空と青い橋梁がこれから向かおうとする先をコントラストの強い色彩に変えていた。多摩川も青い色をしていた。
あのときとはまったく違う色だっ
「俺は道をまったく覚えていない」
「俺もほとんど記憶がないけど、何となくそんな感じがする」
橋を渡りきったところに下に降りる階段があった。
そこを降りていくと、住宅街が広がっていた。
もう何十年も前に建てられたような同じかたちをした住宅が入り組んでいた。
「何となく思い出してきたぞ」
「山内はしゃべってばかりいたのによく覚えているな」
「俺は子供のころから道の覚えがいいんだ」
「俺はまったく記憶がない。アパートの前まで行ったら分かるとは思うけど」「お前ひとりじゃ無理だったな」
「そうだ、そもそもひとりでは来ていなかったのかも知れない」
そうだ、私は4人でひとときを過ごした引地のアパートのことはあまり記憶にもなかったし、心に深く沈殿しているあの多摩川の光芒と橋梁の光景に比べたら細切れの布のようにそれ自体に存在感のないものだった。
「こっちじゃないかな」
橋を降りて左に向かって歩き、三本目の道を右に回った。こじんまりとした住宅のなかに、置き忘れられたような古ぼけたアパートがときおりあった。
「どんなアパートだったか覚えているか」
「二階建てじゃなかったような気がする」
私が覚えているのは、入り口が垣根についている木の扉のようなものだったと覚えているが、もしかすると他の記憶と混同しているのかも知れなかったが、もしかするとそうなのかも知れない。
それを山内に言うと「俺もそんなような気がしてきた」同じ感想だった。
それで、引地の住んでいたところは普通の木造のアパートとは違うというところが一致してきた。
だが、そんな風景は一向に現れない。
どこに向かって歩いていても、小ぶりの敷地と建売住宅が並び、アパートが時折ある風景が続いた。
30分は歩いただろうか。
同じような風景しか現れないので、次第に足が重くなっていた。
「道の感じが思い出せない」
とうとう山内が弱音を吐いた。
「アパートを出てからどうして帰ったか覚えているか」
「来た道を帰ったんだろ」
「いや、レンタカーを借りたのは最寄りの駅より東京よりの駅だったはずだ」
「そうだな、たしかそんなに歩かずに駅に着いたような気がしてきた」
確かにそうだ。
最寄りの駅ではレンタカー屋がなかったので、ひと駅向こうの駅で借りてそこに返却して、引地の部屋に向かうために多摩川を渡ったのだ。
だが、神奈川県川崎市にある駅までの道はまったく分からなかった。
「もう諦めるか」
山内は足を止めていた。
私は向こうから歩いてくる80歳がらみの老女を確認して、すれ違うところで口を開いた。
「ここらへんで貸し部屋で、庭から入るようなところをご存知ないですか。40年くらい前の話なのですが」
唐突に聞かれたので老女は唖然としていた。
足を止めて(・・?という顔をしていたが「分かりません」とひとこと言って去ってしまった。
「もう諦めようか」
私の足も限界だった。
多摩川を渡るくらいのころで実は足が突っ張っているような違和感を感じていたのだ。
「そうだな、諦めるか」
「引地の部屋がそのままあるわけないんだよな、考えてみると」
「俺たちの記憶が確かなら、多分大家の家の部屋をひとつ借りていたんだろう。そんな貸し部屋が昔は多かったような気がする」
昔は、家族が少なくなった家が、空いている部屋を貸すような賃貸の部屋があった。
プライバシーはまったく無かったが部屋代は、普通のアパートより安かったような気がする。
しかも女子大生とか女性のひとり暮らしなら、大家とひとつ屋根に暮らせば安全だということもあったのだろう。
私たちはどうにか駅にたどり着き、駅前の喫茶店で休憩をすることにした。
山内と歩いた距離は4キロほどの距離だったが、
65歳の体には応えた。喫茶店の椅子に腰かけたときは私と山内は思わずため息をついた。
最終的に目指していた引地のアパートの確認が出来なかったことが疲れを倍増していたように思う。
「それで、どうする」
山内は運ばれてきたコーヒーに口をつけながら私に聞いてきた。
「引地と須藤と会いたいんだ」
「どうして」
「それはなー」
と言いかけて言葉が止まった。
「思い出探しか」
私はまだ答えなかった。
「あの日のただの1日だけのことだぞ」
私もコーヒーを飲んだ。
「だから言ったじゃないか。あの日のことが今になって俺の人生での忘れられない唯一の日なんだって」
山内はまともに怪訝な顔をした。
「あれからあの二人と何かあったのか」
「いや、何も無い。連絡もしていないし、会ってもいない」
「だったら何故だ」
「あの日の風景だよ」
「俺がまったく覚えていない風景か」
「そうだ、あの日の多摩川、橋、遠い山並み」
「それだったら彼女たちは関係ないだろ」
「そうじゃないんだ、あの日の4人がいて、あの風景があったからこその思い出なんだよ」
「他にお前の人生でもっと重要な思い出とかはなかったのか」
「そりゃ重要なというキーワードで思い出せばあるよ。でも、そうではないんだ」「俺には分からないけど、どうせ暇なんだからお前にとことん付き合ってやるよ」「それはありがたいが、あくまでも俺の思いだけなんだぞ」
「いいさ、同じ大学で過ごした仲間が40年ぶりに会いに来てくれた、それだけで俺にとっては人生のメタモルフォーゼなのだから」
「ありがとう」
「だから、これからどうするんだ」
「まず引地枝里を探したい」
「彼女は文学部だったはずだよな」
「そうだと思う」
「就職先のこととか話していたか」
「俺よりお前のほうが彼女たちと話していたじゃないか」
「残念ながらほとんど覚えていない」
「だったら大学に行ってみよう」
私たちは二日後、池袋にある母校に行った。
事務所に行って担当者に事情を話した。
担当者は私たちの要望をすんなり受け入れてくれて、引地枝里の当時の住所、それに実家の住所を教えてくれた。
ついでに、須藤杏の住所も教えてくれた。
引地は国文科、須藤は歴史学科だったことも分かった。
多分、大学にいたころは知っていたのだろうが、記憶の彼方にいってしまっていたのだろう。
まず引地から探すことになった。
引地の住んでいたアパートは先日探していたが、実家の住所が分かったので、そこにまず連絡してみようということになった。
私たちは池袋の繁華街のなかにあるコーヒー専門店で電話をかけることにした。
周りは周辺で働いている若いサラリーマンがほとんどだった。
なかにはパソコンで仕事をしている女性もいる。
「働く環境も変わったな」
店内を見渡しながら山内は呟いた。
「そうさ、俺たちの時代は終わったんだよ」
「おいおい、終わりにするなよ」
「そういう意味じゃなくて、仕事の第1線での俺たちはということだよ」
「そんなことは判ってるよ。でも、俺たちはここでは完全に浮いてるな」
「どうせ老いぼれのおやじが暇を弄んでいるだけだくらいにしか思ってないだろ。そもそも俺たちなんか視界にさえ入ってないだろうよ」
「侘しいね」
「そんなこと言ってないで、電話かけろよ」
山内は私にせかした。
「40年も前の連絡先だからもういないかも知れないよ」
「実家だろ、それならいるんじゃないか。うちだって俺が子供のときからの電話番号だし」
「じゃあ、かけてみるか」
引地の実家は静岡県三島市だった。
住所もあったが、まったく土地勘がないから三島市のどこらあたりかは見当がつかない。-ぶるるっ、呼び出し音が数回なった。
私は山内に首を縦に振ってオーケーの合図をした。
山内の顔が少しだけ引き締まった。
「引地でございます」
年老いた女性の声だった。
「引地さんのお宅でしょうか」
「はいそうですが」
まったく用心する気配がない。
おれおれ詐欺など電話を使った事件が多発しているのにと私は瞬間的に思った。「いきなりのお電話失礼します。私は今村と申しまして、引地枝里さんの大学の同期でして、テニスサークルでご一緒したものです」
電話口の女性は間を取った。
ここで用心するのかと私は思った。
「はあ」気の抜けた返事だった。
「実は、引地さんにお会いできないかと思いまして。もう卒業して40年以上も経っているのですが、旧交を温めたいと思いまして、テニスサークルにいた方にご連絡しているわけなのです」
「私は枝里の妹です」
私はドキリとした。
何か不安な要素を感じたのだ。
「お姉さまはお元気でしょうか」
私は質問してからしまったと思った。
もしかすると、私のこの行動は最悪の結果を聞くことになりはしないかと不安がよぎったからだ。
「はい、元気にしております」
その言葉を聞いてぐっと気持ちが落ち着いた。
私の様子をみていた山内も額に手を当てていた。
#9に続く。
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