第7話
私が紀伊国屋書店の入り口の壁に寄りかかって。山内政之のことを待っていると、急に肩を叩いてきた男が現れた。
白髪まじりで額が大分後方に下がっていた男が微笑んでいた。
確かに山内なのだろうが、一目で分かるような感じではなかった。
「今村君、変わらないね」
山内はあの当時のように明るく高い声だった。
一瞬であの日の光景が浮かんだ。
オレンジ色に包まれた空気のなかで山内の笑う顔と高い声が浮かんできた。
「山内君も変わらないよ」
「冗談だよ、冗談。変わらないわけないだろ。もう40年以上も経っているんだぜ。お互いに爺じゃないか」
軽い会話口調はあのときのままだった。
「老けたんだよ、お互いに」
そうだ、私は頭頂部にほとんど髪の毛は無かった。
40歳くらいから髪の毛が細くなり、次第に頭頂部から地肌が現れてきて、50歳過ぎには立派な「禿おやじ」の仲間入りをしていた。
「でも、よく俺だって分かったね」
「目の周辺が面影があるしな、それにここじゃ俺たちのような年寄りは目立つだろ」確かにそうだった。
周りを良く見渡してみると、若い人たちばかりだった。
私たち年寄りは完全に浮いていた。それが今分かった。
「で、どこに行くんだ」
「近くの天ぷら屋を予約しているけどいいかな」
「天ぷらか、久しぶりだな」私たちは予約していた天ぷら屋に入った。
「おまかけコースでいいかな」
「俺はとりあえずビールでももらおうか」
やや歳を食った店員の女性に微笑みかけながら山内は注文した。
「突然で悪かったな」
「いやいやそんなことないよ。嬉しかったよ。でもよくあの日のことを覚えていたね」
「そうなんだ、俺も定年で今はもう働いていないから時間だけはあってさ、思い出巡りをしているときに急にあの日のことが浮かんできて、懐かしくで仕方なくなったんだ」
「俺もあの日のことは忘れてはいなかったんだが、あえてあの日のことを思い出すことはあんまりなかったんだ。今村から電話をもらって、じっくり思い出してみたんだけど、だんだん記憶の底にあったものが蘇ってきたんだよ」
「そうか、あの日、多摩川の橋を渡って引地のアパートまで歩いたろ。そのときの情景が忘れられなくてさ」
「確か遅い時間だったんだよな」
「遅いというか、夕方だったんだ」
「夜じゃなかったか」
「陽が沈む直前だった」
「それは思い出せない。確か俺はずっと女の子たちとしゃべっていたような気がする」
「そうだよね。山内はあの日ずっとしゃべっていたような気がする」
「俺はしゃべりだすと止まらなかったんだ。それは今でも変わらない」
「明るい性格だったよね」
「それだけが俺の取り得だったな」
「就職しても変わらなかったのか」
「それが会社ではそうでもなかったんだ」
そうだ、そういうことを聞きたかったんだと私は思った。
あの時の4人に会いたい本当の目的は、その後の彼らの人生について聞きたかったのだ。
揚げたての天ぷらがどんどん運ばれてきた。
それをひとつづつ口に入れながら、ビールを飲んでいた。
「今村はどこに入ったんだっけ」
「俺は銀行だよ」
「そうか、お前は優秀だったんだな」
「そうでもないよ、運が良かっただけだ」
「定年までちゃんと勤めたんだからたいしたものだよ」
「山内だってそうだろ」
「俺はいろいろあったよ」
「それは俺も同じだよ。サラリーマン人生が平たんなまま終わる奴は少ないだろ」「何度も希望退職に追い込まれそうになったんだ。でも、俺は労働組合の幹部をしていたので、なんとかなった」
「そうか、労働組合か」
電気労連という奴だ。俺は子会社だったけど、ちゃんと労組もあったからなんとかなった」
「金融には労組なんてものは存在しないよ」
「信用金庫ならなるところもあるけどな」
「それは例外だよ」
「工場の閉鎖とか、研究所の閉鎖とか、本社のほうがリストラは激しかったな、俺は子会社で専門分野だったから助かったようなものさ」
山内の話はとどまりがなかった。
ほとんどが愚痴のようなものだったが、私にはそれが面白かった。
まったく違う業界のことを知ることは今までに無かった経験だった。
銀行でも、融資などでいろいろな業種のことは知ることがあるが、あくまでもそれは銀行としての立場だったので、上から目線の偏った見方だったから、相手の立場から見ることはなかった。
「俺は結局課長止まりだったんだ。子会社の課長なんて、くずみたいなものさ。出世とは無縁な会社人生だったな」
「俺も支店長代理止まりだったよ。本店に行ったこともない。支店、それも東京の下町の支店をたらい回しさ」
「お互いに同じような境遇だったというわけだな」
食事を終えても私たちは帰ろうとはしなかった。
紀伊国屋の裏にあるスタンドバーに場所を移して、話が続いていた。
山内政之と40年ぶりに再会して、話はどんどん深まった。
2時間もかけて食事をしたのに、話足らずにスタンドバーに場所を移して夜遅くまで話し込んだ。
彼は、就職してから先輩の紹介で知り合った女性と結婚して、3人の子供に恵まれたそうだ。もう孫も2人いるという。
「お前はどうなんだ」
かなり酒が回ってとろんとした目つきの山内は聞いてきた。
「俺は同じ銀行員と結婚したよ」
「同じ支店の子に手を出したのか」
「前の支店の子でな、高卒で入ってきた子だったんだ」
「そんな若い奴に手を出したんだ」
「俺が上司だったんだよ」
「今で言えばセクハラになる話だな」
「そんなことはないよ」
山内は腹を抱えて笑っていた。
何がそんなに可笑しいんだよと文句を言いたかった。
「何で付き合うようになったんだよ」
「同じ支店にいたころは上司と部下の関係だったんだが、俺が移動になってからその支店に行ったときに再会して、付き合うようになったんだ」
「お前が告白したのか」
「お互いに気になっていたんだろうね、それで彼女は退職してから結婚したんだ」「やはり銀行はそういうことにうるさいんだな」
「銀行はお堅いんだよ」
「スキャンダルは絶対ダメか」
「それで辞めた奴もけっこういるよ」
「凄い世界だな、やはり俺たちのようなヤクザな世界とは違うな」
「メーカーがなんでヤクザなんだよ」
「俺の親会社なんか、不倫でもなんでもやりたい放題だったぜ」
「そんなに風紀が乱れていたのか」
「そうさ、下請けや出入り業者の女なんかやり放題だった」
「凄いな」
「お前のような金融や役所の世界とは別物だよ」
山内はそう嘯きながらニヤニヤしていた。
学生時代の屈託ない明るさから、世間の汚い部分を吸収して、歳もとったせいもあるが何か厭らしさを感じる男になっていることが少し悲しかった。
確かに自分はスキャンダルが一切許されない堅苦しい世界だった。
だが、その世界しか知らない自分にとっては普通のことと思っていた。
せいぜい、女性のいる飲み屋に行くくらいのことでも、行内ではそんなことが知れただけでも上司から叱責されたぐらいだった。
第一、行員の女性を食事に誘ったことも一度もない。
結婚した彼女も結局銀行を辞めなければならなかったくらいだったのだから。
「ところで他の2人にも会いたいと思わなか」
突然山内が囁いた。
それまで酒が回ってトロンとした目つきだったのだが、目に力が入っていた。
「実は俺もそれを考えていたんだ。だからまず山内に連絡したんだけどな」
「そうか、俺はそんなこと考えていなかったのだが、お前と話しているうちに彼女たちのことが気になってきた」
「でも40年も経っているからいきなり連絡したらびっくりするだろうな」
「俺はうれしかったぜ」
「お前は軽いからだよ」
山内は笑ったがすぐに舌打ちをした。
「悪かったな」
「冗談だよ」
「だが、彼女たちの連絡先は分かるのか」
「お前はあの日に就職した会社のことをしゃべっていたから覚えているのだが、彼女たちは就職先のことを話していたかどうかの記憶がないんだ」
「俺もそうだな」
「だから、大学に行って聞いてみようと思っているんだが」
「教えてくれるかな」
「事情を話せばなんとかなると思うよ」
「今は個人情報に厳しい時代だから、どうかな」
「ダメだったらそれまでのことだが」
「もしダメだったら、引地のアパートに行ってみるか」
「まだあるかな」
「行ってみるか、今度」
「大学に行く前に行ってみるか」
「よし行ってみよう、明日はどうだ」
「いいよ、どうせ暇だから」
「そうだ、俺たちには金が無くても暇はありすぎるぐらいだからな」
次の日に40年前レンタカーを借りた駅で待ち合わせをして山内とは別れた。
次の日はよく晴れた秋晴れの日だった。
朝の10時に改札口で待ち合わせた。
帽子をかぶった山内が現れたのは約束の時間から5分すぎていた。
「悪い、遅れちゃって。娘から電話があって今日孫を預かってくれというので今日はダメだと言って少し揉めたんだ」
「悪かったんじゃないか」
「いいんだよ、女房がパートで働いていて、いつもなら俺がいるんだから、娘も甘えているんだよ」
「そうか、孫の世話ができるなんて幸せなことじゃないか」
「前の子供は結婚してないんだろ」
私の息子は高校生のとき引きこもりになり、その後25歳まで家から出ない生活をして、やっと最近外に出てコンビニでアルバイトをしている。
そのことは前日に話しているのだが、山内はかなり酔っていたので忘れているようだった。
まずレンタカー屋を探そうととして、ロータリーを歩き、駅と反対側に出たが、もうそこにはレンタカー屋はなかった。
#8に続く。
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