第6話
会社を定年退職して5年が経った。
再就職はしなかった。
週に2日だけ市の嘱託職員として清掃の仕事をしていただけだった。
それも昨年辞めた。
今、私の日課はブログで一日に起こったことを写真つきで載せている記事を書くことだけだ。
ほとんど読者もいないが、それでも自分に対する何らかのリズムにはなる。
そして、もうひとつ目標ができた。
大学卒業寸前に遊んだ3人と再会するということだ。
彼らにしては迷惑なことなのかも知れない。
私は彼らがその後どのような人生を歩いていたかを知りたかった。
なぜ、彼らなのかは自分でも納得できる理由はない。
強いていればあの日の橋梁と夕陽だけなのだ。
その景色と彼らが一体となって長いフィルムを見せられていたような気がする。
暗闇のなかにほんの数ミリの光芒を見つけるようなことなのかも知れない。
彼らから見ればまったくの独りよがりで迷惑極まりない話だろう。
-お前なんかとそんなに親しくなかったじゃないか。と言われるかも知れない。-その日のことはまったく記憶が無い。
そういう奴もいるだろう。
だが、どんなに卑下されようとも私にはあの日は人生のなかで最も思い出に残っている。
だからどうなのだという自問も繰り返してきた。
他にもっといるんじゃないか。
例えば付き合っていた宇田華澄はどうだ。
その後結婚して幸せになっているとか気にならないか、私は自問した。
-いや、それほどでもないね。という言葉が浮かんでくる。
彼女とは確かに濃密な時間を過ごした。
多摩川を渡った3人より数百倍も一緒にいただろう。
だが、私は過ごした時間ではなかった。
朧げな記憶が脳内で拡散されて、美化し、変質して大きくなって、現実から離れていくことは良くあるだろう。
例えば子供のときの初恋の相手が今はどうしているのだろうと気になる人は多いだろう。
子供のころ仲良く遊んだ近所の子供のこと、小学校のとき転校してしまってそれ以来会うことがなかった友人。
だが、どれも私には違う答えだった。
あの日の橋梁と多摩川の輝き、橋を渡る私たちの遠景。それが私のなかの心の袋にしまい込まれていたのが人生の終盤になって突然現れたかと思うと、袋から飛び出し持てきれないくらいの重さになってしまっていたのだ。
私は先のことは考えずに行動に移すことにした。
まず、山内政之だ。
彼は大手電機メーカーの子会社に就職したと聞いていた。
まず彼から現在の連絡先を追うことにした。
子会社の総務に電話をして、山内の名前と自分は大学の同期で、現在の連絡先が分からなくなっているので教えてもらえないだろうかということを伝えた。
「今は個人情報保護法で教えられないのですよ」と電話口で伝えられた。
確かに現在はそうだろう。
しかし、それでは困るのだ。
私はその会社のある巣鴨に向かった。
駅から歩いて10分以内くらいのところにその会社はあった。
総務部の課長さんに面接を申し入れた。
私は素直に自分の気持ちを話した。
免許証を出して身分の確認をしてもらい、大学の卒業アルバムを見せた。
「分かりました、山内さんはもう既に定年で退職をされていますから、在籍時の住所と連絡先です。もう変わられているかもしれませんけどよろしいですか」
私は丁寧に礼を述べて帰りの途についた。
教えてもらった住所は東京都狛江市になっている。
山内は群馬県の出身で大学時代はひとり暮らしをしていた。
どこに住んでいたかは知らない。狛江市の住所から分かることはどうやら一戸建てだということだった。
多分結婚して子供ができ、一戸建てを買ったのだろう。
彼の順調な人生をうかがえた。
大学を卒業して就職した会社で定年を迎える。
それが普通だった日本の社会は、今は大きく変化し始めている。
生涯雇用などはもはや無いに等しいとまで言われている社会で、定年まで同じ会社で働けたというのはラッキーなことなのかも知れない。
私だってそうだ。
転職しようと思ったことは数万回ある。
大袈裟に言えばそうだ。
サラリーマン生活はそれほど波静かなものではない。
サラリーマンを経験した人なら誰でもそうだろう。
なんの悩みも、障害もトラブルもなく順調に過ごせる者は一握りくらいだろう。日々、追い立てられるように仕事をして、上司や部下の機嫌をとり、早期退職や窓際に追い込まれないようにするだけで精いっぱいだった。
山内も同じような環境だったのだろうか。
私は数少ない彼の学生時代のことを思い出していた。
同じサークルで、同じ学部だったので、たびたびは会っていたし、会話もした。詳細はまったく思い出せないが、サークルの飲み会で彼と帰る方向が一緒だったので、そのとき電車のなかで、彼の郷里のことを聞いた覚えはある。
北関東の群馬県出身で、昔は繊維産業が盛んだった桐生市に実家があることを聞いた。
私は北関東にはほとんど行ったことがなかったので、あわててグーグルマップを開いていた。
まず山内の連絡先である電話番号に電話してみようと思った。
だが、実際に電話したのは2日後だった。
いざスマホをとってもなかなかダイヤル出来なかった。
今にして思えばそれはそうだったのだろう。
学生時代それほど親しかったわけでもないのにいきなり卒業後40年も経っているのに電話されたら、自分でもびっくりするだろう。
そういう気持ちを考えて躊躇していたのである。
しかし、私はダイヤルした。
ぷるううーと呼び出し音が鳴った。
相手は有線の電話だ。
何回か呼び出し音が鳴った。
その間が私には何十分にも感じられた。
鼓動が高鳴っていた。
「どちら様、今村?。覚えてませんな」なんて言われたら最悪だ。
私の儚い夢が一挙に崩れてしまう。
次のステップに向かうことは困難になる。
ぷるううー。「はい、もしもーし」出た。
弱弱しい声だった。
「山内政之さんですか」ちょっとの間があった。
「はい、そうですが」私の喉がせりあがるようだった。
「突然電話してすいません。私は今村信也ともうしまして」
そう言いかけると、「今村か」
私は叫ぶような声を出した。
「そうです、大学で同期だった」
「今村さんかぁ。覚えてますよ」
「ありがたいです。そんなに付き合いがなかったのに」
山内の声が最初のトーンより落ちた。
「それでまた突然どうしたんですか」
そりゃそうだ。
不信に思うのが当然だ。
「山内さんが覚えているかどうか分かりませんが、卒業の直前くらいに同じサークルの人たちと湘南までドライブしたことがあります」
しばらく沈黙があった。
それは数秒のことだったのだろうが、私には1分ぐらいに感じた。
「そうそう、あの時のことは覚えています。考えてみたらあの日のことがなければあなたのことはそれほど記憶になかったの知れません」
「嬉しいです。実は私もそうなんです。この歳になってあの日のことが鮮明に思い返してきて、それであのときの人に会いたくなったんですよ」
「そうですかぁ」
「すいません、私の身勝手な思いで驚かせてしまって」
「いやいや、驚きはしませんよ。私だって、たまに大学時代の友人たちのことを思い出すこともありますから」
「それで一度お会いしたいと思っているのですが、どうでしょう」
「いいですね。お互いにもう老人ですからお会いしても顔が分からなかったりするでしょうけれど」
「ですよね、まあいいじゃないですか。お互いに年を取ったということで」
「いいですね、一杯やりに行きましょうか」
「お住まいは狛江ということですが、新宿なら近いですよね」
「いいですよ、新宿なら。ところで私の連絡先がよく分かりましたね」
「いや、ご迷惑を承知で、あなたが就職された会社に行きまして事情を話して連絡先を教えてもらったのです」
山内とは新宿の紀伊国屋書店の一階で待ち合わせをした。
私たちの大学は池袋だったので、池袋にしようかとも思ったのだが、山内が小田急沿線ということもあり、私も今は都営新宿線の沿線に住んでいるのでアクセスの面でも新宿が良いだろうと思ったからだった。
紀伊国書店の一階の靖国通りに面した入り口は今でも待ち合わせの定番の場所だった。
ここで待ち合わせて歌舞伎町にあった「新宿スカラ座」で映画を見て、「アカシヤ」という洋食屋で「ロールキャベツ」を食べるのが私が当時付き合っていた宇田華澄とのデートコースだった。
紀伊国屋書店の入り口には通りに面してすぐにエスカレータがある、珍しい構造だった。新宿といえばそれが一番印象的な風景だった。
静岡県から出てきて西武池袋線の駅の周辺に住んでいた私は、学校のある池袋はひとりでブラブラする場所で、新宿はデートする場所と決めていたような気がする。それから40年たち、これからあの時の仲間に会えるという歓びが心のなかを明るくしていた。
まるで、電気の消えた四畳半のアパートにタングステンの電球が灯るような鈍い明るさではあったのだが、どこか郷愁心のある色だった。
私は地下鉄の新宿駅に着いたので、東口にある紀伊国屋書店まで行くのに5分ほど地下街を歩かなければならない。
都営新宿線の改札口は西口に近いところにある。
小田急や京王線も西口にあったので、西口で待ち合わせようかとも思ったのだが、場所が思いつかなかったのだ。
確かに、仕事をするようになってからは西口には大きなビルや都庁があって来ることは多かったのだが、やはり新宿と言えば東口だという思いが根底にあったような気がしていたのである。
地下道を歩くと紀伊国屋書店の入り口の表示があり、昇る階段がある。
そこを昇とまず地価1階に出る。食堂街だった。
ここの食堂街には多くの店舗があり、昔から変わらない。
私が学生時代から続いているカレー屋さんやとんかつ店もあった。
そこを一巡して見て回ってかた1階に出た。
まだ待ち合わせの時間の10分前だった。
私はエスカレータの下で壁に寄りかかって待つことにした。
宇田華澄との待ち合わせも同じ場所で待ったことが何度ある。
私は遠い目でその光景を思い出していた。
#7に続く.
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