第4話
卒業まじかの3月はじめ、山内と引地、須藤の3人と私はレンタカーを借りてドライブに行った。
まだ、冬の寒さが残る春の初めだった。朝、9時に引地の住む多摩川の神奈川県に入ったところにある私鉄の駅に集合して、駅前にあるレンタカー会社の営業所に向かった。
当時、若者に人気だったホンダシビックを半日借りる予約をしていた。
運転は山内の役目だった。
営業所を出発して、国道246を東京に戻り、用賀で環状8号線を右折して、第3京浜に入って湘南を目指した。
まず、江ノ島まで行って、ランチを食べて、その後鎌倉に行って、鶴ヶ岡八幡宮に行き、小町通りを散歩したりして、午後3時にはレンタカーを返すという計画だった。
第3京浜に入って、約1時間半で江ノ島に着いた。道が空いていたせいでもあったが、山内の運転も上手かったのだろう。
車中で何を話していたかはほとんど覚えていない。
女子2人は最初は元気にしゃべっていたが、30分くらいで大人しくなったと思っていたら、寝ていた。
私は、山内のナビゲーションをやるためにしっかりと起きていた。
山内がときどき話していたのを記憶はしているが、内容まではまったく覚えていない。
江ノ島に着くと、駐車場にクルマを止めて歩いて江ノ島に渡った。
空は快晴だった。
風は少し強かったのを覚えている。
長い髪の引地枝里は風のために髪が乱れるのを抑えるために後ろで縛ってポニーテールにしていた。
「引地さんはポニーテールが似合うね」と、私はめったに人を誉めないののだが、そのときの引地のポニーテールはきりっとした女性らしい美しさが出ていると思ったから素直に言葉に出したのだろう。
引地は微笑みを返しただけで、何も答えなかった。
須藤はショートヘアーのボーイッシュな髪形には似合わず、ミニのスカートをはいていたことを思い出した。
白くてすらっとした足は、それまでほとんどパンツ姿しか見たことがなかったので新鮮な感じがした。
江ノ島に渡ったら、小高い丘を登って飲食店がある一角に出た。
「まだ早いけど昼飯食べないか」
山内は運転をして腹が減ったのだろう。
お土産屋の奥にある店に入った。
お座敷があり、湘南の海を見渡せた。
海の向こうには湘南の海岸線が見えた。
「きれいな景色だね」
引地は嬉しそうだった。
「うちは千葉県だからあんまり湘南の海は来る機会がなかったのよね」
食堂での会話はなぜかほとんど覚えている。
「俺は彼女と来たことがあるよ」
山内が突然カミングアウトした。
「今でも付き合ってるの」
引地が楽しそうに聞いた。
「1年のとき付き合い初めて、2年の夏休み前に別れた」
「うちの大学の子でしょ」
「そうだよ、社会学部の子だったな」
「いろんなところに行ったの」
「かなり行ったね、旅行だって行ったんだぜ」
女子ふたりは目を丸くして聞いていた。
「どこに泊まったのよ」
「軽井沢の民宿だったよ。そこにはテニス場があって、テニスができるから行ったんだ」
「へー、青春だね」
「君たちはどうなんだよ」
引地と須藤は顔を見合わせた。
「もう最後なんだから言ったらいいじゃんか」
山内は興味深々の様子だった。
もちろん私も興味があった。
人の恋話は聞いたことがなかったので聞いてみたかった。
「私はバイト先で知り合った人と付き合ったんだ」
引地がニコニコしながら言った。
「で、どうして付き合うようになったんだよ」
「あっちから誘ってきたんだよ」
「大学生か」
「早稲田の子だった」
「うちの女子は早稲田に弱いよね」
「場所が近いからそうなるよね」
私はその話をよく聞いていた。
早稲田の学生は高田馬場から近い大学の女子大生と合同コンパをしていると。
「学習院とかうちとか、川村の女子大生が早稲田の奴らの餌になっているんだよな」
山内が吐き捨てるように言った。
「餌とは何よ」
引地は顔をこわばらせた。
「すぐに別れたのか」
「違うわよ。最近まで付き合っていたんだから」
「分かった同棲してしてたんだろ」
「してないよ、そんなこと」
「まあいいわ」
山内はあきれたような顔をした。
「山内は早稲田の連中に被害妄想を抱いているんだよ」
私は余計なことを言ってしまった。
もしかしたら、山内が付き合っていた彼女も早稲田の奴に横恋慕されていたのかも知れないと思って、背中に冷たい汗が流れた。
「分かれたあとに誰と付き合ったかなんて知らないよ」
「それもそうね、そんなこと気にしているのは未練がある証拠だからね」
引地が燃料を投下した。
「俺から振っただぜ」
女子ふたりは黙っていた。
ちょっと気まずい雰囲気は流れた。
すると、料理を運んできたおかみさんが窓の外を指さして、「あそこに鳥が止まっているの見える?」
たしかに山の中腹の木に茶色い大きな鳥が止まっていた。
「トンビなのよ。餌をくれるのを見ているのよ」
「餌って、客が上げるのですか」
「窓から投げてごらん、下に落ちる前にトンビがさらっていくから」
おかみさんはどうだというドヤ顔をしていた。
考えてみれば野生の鳥に餌をやるなどということは今では禁止されているくらい悪いことなのにそのころはそんなことは気にもしていなかったのだろう。
私たちはラーメンをすすりながら、話を続けていた。
3月の陽は、春の初めの弱さと優しさが溢れていた。
私は、その優しさに幻惑されていたのかも知れない。
江ノ島でランチをして、鎌倉まで足を延ばした。小町通りを散策して、鶴岡八幡宮でお参りをした。
引地枝里と須藤杏はおみくじを引いていた。
大吉だの小吉だのと言ってわいわいしていた。
私も山内も引いたのだが、私はたしか吉だったような気がするが、山内のことは覚えていない。
レンタカーを返す時間が午後4時だったので、小町通りの散策は慌ただしかったような気がする。
ほとんど覚えてはいない。
急いでクルマに戻って、朝比奈の峠を越えて逗葉新道に入り、第三京浜に向かった。山内はまだ疲れていなかったようだ。
私は運転をした記憶がない。
レンタカーを二子玉川の営業所に返して、私たちはなぜか引地の住んでいたアパートで休息して行こうという話になった。
国道246を川崎の方に向かって歩いていた。
午後の5時近くだったような気がする。
橋の左側には田園都市線の線路があり、右側には国道があった。
あったはずだ。
まったく記憶がない。
今になって地図を調べるとたしかに左側に東急線の鉄橋が別にかかっていて、国道の橋が車道と歩道別々になって1本の橋を渡る形になってはいる。
だが、私の記憶では車道は確かにあったのだが、鉄道の橋はなかったような気がする。
3月の夕方ともなれば陽はまだ早く沈む。私たちが歩いて橋にかかったときはまだ右寄りにあった気がする。
私の目線からは30度ほど上向きに弱い光の的が輝いていたような気がする。
私たちがそのときどんな話をしていたかは思い出せない。
多分、江ノ島の話や鎌倉の話をしたのだろうか。
それとも山内は意外と疲れも見せず、危ない目を合わずに上手く運転したことを話していたのだろうか。
私の記憶にあるのは、そのときの3人の表情だ。
みんな輝いていた。
笑顔がはじけていた。
引地枝里は長く黒い髪が風で舞いながら手で口を押えながら笑っていた。
須藤杏は、少し黄色く色がかった太陽に照らされていてもまだ輝くように白い歯を見せながら笑っていた。
山内は目にかかるほどの長髪をかき分けながら女子たちに冗談を飛ばしていた。
そのとき私はどんな顔をしていたのだろうか。
みんなに合わせて笑っていたのだろう。
それはそうだ、何も悲しいことなどない。
その日は、とにかく楽しかったのだ。
アルバイトと授業、そして友人たちとの思い出だけが残る大学生活。
その締めくくりに日ごろあまり付き合いのない4人が一日を一緒に過ごした。
それだけのことだったのに、40年もたつとそのことがあまりにも切なく思い出される。
橋の上から見た多摩川は光にあふれていた。
橋の中ほどに来ると光が反射して見えた。
小さなさざ波のような水の凹凸に光が反射していた。
乾いた空気しかなかった冬からほんの少し湿気が混じったような水分を感じる風だった。
私は彼らとしゃべりながらその光景を見ていたのだろう。
そんなに注意深く見てなどいなかっただろう。
私の記憶のなかで作り出された幻影かも知れない。
もう40年もたっているのだから。
だが、それでもそのときの光景が私の心を揺さぶる。
同じ大学という空間に4年間いた仲間たち。
だが、学生生活ではほとんど交流がなかったのに、たった一日だけ一緒にいただけなのに、ここまで心に残ることはあるのだろうかと何度も反芻して考えた。
将来どんな大人になるか分からない4人。
何も約束されてない明日が待っているのに、そのときは多分幸福感に包まれていたのだろうか。
何も考えてなどいないはずだ。
明日のことさえ考えていなかっただろう。
そんな4人が夕暮れの橋梁を渡っていた。
そのときの4人の姿が見えてくるような気がする。
今だったらドローンを使って4人の姿を映すような映像が私に去来する。
4人が並列になって歩いている。
前に向かって。
笑いながら、話しながら、黙りながら。
あと数分も歩けば橋を渡り切るところで私の頭のなかの映像は途切れる。
そのあとは、引地の部屋のなかで引地が「昨日から歯が痛いんだよね」と鏡に向かって口を開いている姿と、山内がやかんでお湯を沸かしてみんなに紅茶を淹れてくれたことを覚えているくらいだ。
そのあとどうしたのかまったく記憶にない。
多分数時間いて、私たちはそれぞれの家路についたのだろう。
確かにそうだったのだろう。
泊まるようなことはしなかったと思う。
そんな理由もない、それほど親しかったわけでもない。
私たちがどう別れたのかも覚えていない。
たった一度だけの4人。
生涯たった一度だけの一日。
それが私の人生のなかでこれほどの存在感を持つことになろうとは思わなかった。
#5に続く
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