千穐楽
皆目見当もつかぬ
一八六八年、十月二三日。
明治と元号を改めた日本は、明治政府と旧幕府勢力による内戦、戊辰戦争の真っ只中。鳥羽・伏見から始まった戦いも、最終決戦となる函館戦争に突入していた頃であった。
◀ ◀ ◀ ◀ ◀
ところ変わって、相模国――改め、神奈川県、浦賀港。
一八五三年。異国の黒船が襲来したことで知られる有名な港町に、男の姿はあった。
とある定食屋にて昼餉を食べる男に、定員が「失礼します」と声を掛ける。
「申し訳ありませんお客様。ただいま店内が混んでおりまして、相席よろしいでしょうか」
「左様ですか。私は、構いません」
店が賑わっていることは、文字通りの賑やかさでわかっていた。
飛び交う注文。昼間から酒を飲む陽気な客の鼻歌。厨房から聞こえる料理の音、そして匂い。何より今、口に含んだ食べ物の美味なる風味。
知らずに入った店だったが、どうやら運よくいい店に入れたらしい。
「それで。遠路はるばるなんの御用でしょうか、篝殿」
「時折、貴殿が盲目だということを疑ってしまうよ、鬼道殿。それは金目の煮つけかな。私もそれを貰おうか」
「なるほど、これが金目の煮つけですか。なるほど、噂に違わぬ味ですね」
「まさかとは思うが、知らずに食べていたのか鬼道殿」
「この店の名物を、と注文して出てきたのを食べているだけでして。私だけの外食となると、どうしてもこうなってしまいます」
毒が入っていたらどうするつもりだったのだ、などと考えてしまうのは一種の職業病なのかもしれない。
まぁ、それを弊害と呼べるのも杞憂と言えるのも、嬉しいことではあった。
壊刀団が解散して、女である篝や盲目の鬼道には出て欲しいと頼まれる戦場もなく、二人は完全に戦場から遠ざかっていた。
なので鬼道が実家を離れ、港にいる理由も本来はないはずなのだが。
「それで、どうなのだ鬼道殿。まさかとは思うが――」
「えぇ、異国へ渡ろうかと」
妖刀の存在について知り、尚且つ今現在も妖刀を持っている鬼道に、幕府が出国を認めるとは思えない。
亡命、密航する以外に方法はないだろう。
「そこまでして、何を」
「……この目を治す方法を、探したいと思っております」
特別、珍しくはない。
盲目で生まれ、光も色も知らぬ世界で生きてきて、目を治したいと思うのは普通のことだ。
しかし何故か、鬼道が言っていると違和感を感じるのはなんとも不思議なもので、一年と数ヶ月しか共にいない篝でさえ、不思議に感じてしまっていた。
「鬼道の家を護るためにも、不随のままではいけません。もう、刀で治める時代は終わりました。これからはより人の心を見て、寄り添わねば、歩み寄らねばなりません。そのためにはまず、私も皆さんと同じ目線を持ちませんと」
「貴殿はすでに、人の心に寄り添えていると思うが……少なくとも、私の心には――」
余計なことを言ったと、篝は頬を染める。
盲目の鬼道には見えるはずもないが、顔を隠すため覆った手の隙間から様子を窺い見ると、鬼道は茶を啜っていた――いや、茶を濁していたというのが正しいのだろうか。
いつもだったら笑って済ませそうなものを、このときは茶を飲んで誤魔化しているように見えてしまった。
「実際のところ、そんな大層な理由はないのでしょう。私はただ光を、色を、景色を見たいのです。私がどんな国のために戦ったのか、どんな国を護ったのか、この目で見てみたいだけなのかもしれません」
「……そうか――ならば、行こう」
「え、いやしかし……」
「密航ならば、人数など関係あるまい。ましてや、異国では貴殿を助けてくれる者はないのだぞ? その妖刀が常日頃、貴殿の道案内をしていようとも、困ることは多いだろう」
「ははは、気付かれていましたか」
普段は白杖に姿を変えている妖刀・画龍。
人見知りの妖刀は普段、鬼道としか話さず、白杖に変じている際は道案内役。
妖刀でありながら戦いを嫌い、いざ戦いとなると恐怖で竦んでしまってなかなか異能を発現できないものの、いざとなれば勇気を持って助けてくれる優しい妖刀の存在を、鬼道は誰にも語ったことがなかった。画龍が恥ずかしがって、嫌がるからだ。
「私とて、妖刀を握っていた身だ。幕府に謙譲したとはいえ、それくらいのことはわかる。それこそ、貴殿をずっと見ていれば猶更、な。だから今までと変わらんよ、鬼道殿。私はただ、あなたを隣で見ている。それだけのことだ」
危険だという忠告は、明らかに抑止力として力不足だった。
壊刀団での戦いの方がよっぽど危険で、命のやり取りをずっとしてきた篝からしてみれば、密航なんて言葉は他の人ほど響いていまい。
ならば他の言葉をと考えたのだが、思い付かなかった。何より、止める気が失せてしまった。
「では、参りましょうか篝殿。すでに漁師をやっている方に、話を付けてありますので」
「さすがは鬼道殿だ、話が早い」
店を出て、港へ向かう途中「そういえば」と篝は思い出したように話し始めた。
「知っていたか鬼道殿、綴喜が嫁いだらしい。なんでも、腹にはもう子供もいるそうだ」
「えぇ、聞いております。壊刀団でも、何度か相談を受けましたから」
「って、さてはあなたが仲人か。本当に、人の心がわかっているのかいないのか……まさか、狛村に旅を勧めたのもあなたではあるまいな」
「さて、どうだったでしょう」
まるで悪戯小僧のような笑みで応えた鬼道を横目で見て、確信する。
多分だし、鬼道のような詩人でもないから想像だが、「自分探しの旅というのも有意義ではありませんか」とかなんとか言ったのだろう。
確かに鬼道に人生相談する者は少なくなかったし、篝自身もまた含まれないかと言われると否と言い切れないのが実状なのだが。
「それで? 肝心の鬼道殿の行先は?」
「まずは、
「亜米利加か……蝦夷よりも広大だとは聞いているが、まったくもって未知の場所か。だが、だからこそ可能性も見えそうだな」
「そうですね。ところで篝殿、異国では私達日本人の姓名を逆にして名乗るそうです」
「うん? つまり……あいらくきどう、となつきかがり、というわけか。しばらくは慣れそうにないな」
「はは、そうですね。なので、練習がてら、一言だけ」
そう言って、戦場にいたときからまったく衰えていない足運びで篝の前に回り込んだ鬼道は、おもむろに篝の顔に手を伸ばし、耳元に唇を近付ける。
わずかに曇らせて、潜めた声で呟いた。周囲には、異国の蒸気船の放つ汽笛で聞こえないが、篝ははっきりと聞き取る。
「目が治ったら、君の顔を最初に見たい。夏希」
「――なっ、ななっ?!」
「はは。やはり照れるものですね。さて、それでは向かいましょうか。あまり人を待たせてもいけないですよ、篝殿」
「ま、待たれよ鬼道殿! 今のは冗談にしては質が悪い!」
「えぇ、だから冗談ではないですよ」
なんて、笑顔で言われては言い返す言葉もない。
鬼道には一生、言葉では勝てない気がして、篝はこの先を思いやられつつ、囁かれた言葉の意味を反芻して弛む頬を引き締める。
旦那の散歩後ろを歩くのが妻だと言うけれど、篝夏希は愛しい男の隣を歩く。
むしろ手を引くくらいのつもりで、彼の手を取る。盲目の彼に、光のある世界を届けるために。
「そら、行くぞ! 言っておくが、私の顔など見ても面白くもなんともないからな!」
「ははは。それは見てみないと、皆目見当もつきませんね」
◀ ◀ ◀ ◀ ◀
この先の物語を語ることは叶わない。
何せこの後、鬼道哀楽――基、鬼道秋晴と篝夏希の消息は、一切不明であるからだ。
再び日本に戻って来たのか、異国の地で死に果てたのか。鬼道の目は戻ったのか、色々と、皆が気になるところは多いものの、見当もつかない。
故に目の見えぬ剣士の物語は、残念ながらここで閉幕である。
もし消息を見つけたとしても、彼の物語はやはりここで終わりかもしれない。
そのとき語られる男は人の心と自らが護った国と、愛しき女性の顔を見られる。そんな、ごくごく普通の男であるからかも、しれないからだ。
――見否者――目は見え否とも、心は誰よりも人らしかった者の
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