すべてわたしたちの夜

@anokodokonoko

すべてわたしたちの夜

 19歳になってすぐの春に、4歳の時から暮らした飼い猫を亡くしてしまった。死ぬその瞬間まで腕に抱いて、たくさん名前を呼んで、それでも彼女はいなくなってしまった。

 彼女がいなくなってしまってからのち、家全体に漂う喪ってしまったものの発する、あまぐるしい不在の気配に耐えきれなくなって、突発的に家をでた。

 出たはいいが、高卒でフリーターになったわたしに行く先はなく、結局わたしは東京に住む兄の家を目指して鈍行電車を乗り継いだ。数千円しか入っていない財布と手に馴染んだタオルケットと携帯。身に余る感情に振り回されて、それしか持っていけなかった。

 片道3時間の貧乏な逃避行の末にたどり着いたアパートで、兄は呆れ顔で、でもどこか切なそうにしながら、わたしにホームステイを許してくれた。

 兄貴の三郎はアートディレクターだかナントカクリエイターとして細々働きながら、夜はナルミという名前でドラァグクイーンをしている。ゲイで、5年も付き合っているユリというなまえの恋人がいる。

これだけ聞くと奇天烈な男だけど、わたしにとっては三郎ほど健全で安心できる男はいない。兄貴もまた、大きなものを喪ってしまったひとだからだ。


「ひどい顔してるなあ、くじら」


 玄関先で、助けを求めるようにインターホンをおしたわたしの顔をみて、兄はそういった。

 東京につくころには、もうとっぷりと日が暮れていて、兄の面差しは逆光でよく見えない。

 くじらというのはわたしの名前だ。


「なにか飲むか」


 と兄はわたしに聞き、わたしはすっかり糸がきれてしまって、ボンヤリ頷いた。にぎりしめたタオルケットが、いつにもまして色あせてみえた。

 兄はわたしの家のなかに招きいれてくれた。この家を訪れたのははじめてのことだった。だけど、兄の家は実家にある彼の部屋と同じような家具や雑貨が多く、わたしの知っている、そして生きている気配に安心して、ソファーにくたくたと座った。

 兄は3年前に敬愛していた近所のおばあさんを喪っている。共働きで夜も遅い両親に変わって兄と私の面倒を見てくれた、優しくて上品な人だった。彼女は天涯孤独の身で、葬式は兄の希望で私たち家族が執り行った。

 あの時、兄が世も末もなくおいおいと泣いていたことをいまでもはっきりと思い出せる。泣いている三郎の肩のかたちは、ちいさなころに喧嘩して泣かせたあのときと同じ線を持っていた。

 人間は大人になるのでも、子供のままでいるわけでもなく、体がずっと子どものままの記憶を持って成長しただけに過ぎないことを、兄のふるえる肩甲骨が教えてくれた。

 愛の死を生きのびた三郎は、プラスチック製のちゃちなグラスにサイダーをなみなみと注いでくれた。ガラスのローテーブルの上にそれをおき、自分はソファーではなく、地べたに座った。

 サイダーの、安くてあまい匂いが鼻先をくすぐって、それが妙に泣けてたまらなくなった。

 ちいさなころの、石につまづいて泣いていたころのわたしが呼びおこされてしまう。

 猫の名前を胸のなかで何度もなんども呼んで、化学反応のように涙はつきなかった。思えば、わたしがわたしに属するものを亡くすのは、これがはじめてだった。

 兄は、わたしのむきだしの狂乱っぷりをみて言った。


「泣けちゃうよなあ、世の中にはさ、つまんないことがいっぱいあって、自分には関わりのないことだって思ったり、きっと大丈夫だって思ってることこそが、一番しんどいんだもんなあ」


 わたしは頭ががんがんして、もうその時には一年分の涙を流し尽くしていたので、たまらず、兄の言っていることはよく分からなかった。分からなかったが、兄が慰めてくれようとしているのは、分かった。

 兄は自分のグラスにサイダーを注いで、ごくごく飲んだ。西日が透明な飲みものにふりかかり、さらに郷愁をさそう姿に変えていた。

 ソファーはくたびれていて、兄のジャージは中学時代から着倒しているもので、体も頭も疲れていて、わたしには何もかもがさし迫り過ぎている。

 三郎は、今日は泊まっていくがいいと言って、となりの部屋から兄の匂いのするせんべいみたいな掛け布団を持ってきた。

 わたしは今日どころか、最低三ヶ月は泊まっていくつもりだったが、それをいう元気もなく、兄の言葉にうなずいておいた。家から唯一もってきたタオルケットに顔をうずめ、布団をあたままでかぶる。知っている、でも少し変質してしまった匂いを嗅ぐ。

 このタオルケットはわたしが寝るときに枕の上にいつも敷いているものだ。わたしの猫は寝るときもいつもいっしょで、わたしたちは枕を二等分して分け合って寝てきた。猫はわたしの頭をかかえこんだり、枕に頭と、ちいさな手だけを乗せて寝ていた。わたしが外にいるとき、猫はよくタオルケットの上で昼寝をしていた。

 あんまり洗わなかったので、わたしたちの匂いが染みついている。そのはずなのに、外気にふれて、それはもう猫が生きていたときの香りではなくなっていた。

 死という圧倒的暴力のまえで、わたしはおろおろと立ちすくんでいる。悲しさに細胞ごと支配されて、わたしという生き物がもうどうにもならないところにまで停止させられているのだ。

 兄が、キッチンでなにかをつくっている気配がする。油と肉の熱される音がきこえ、その音を聞きながら、わたしは泥のように眠りに落ちた。


 起きたとき、時刻は午前3時をまわっていた。豆電球がほんのりと蛍みたいに部屋を照らしていて、ローテーブルには生ぬるくなってしまっただろうサイダーと、ラップがかけられたチャーハンが置いてあった。

 わたしは寝ぼけたまま、知らない部屋の中で兄の名前を呼んだが、 返事はない。なんとなく不安になって、風呂場とかトイレとかを覗き込んでしまう。そのうちに、そういえば仕事なのかもしれないと思い当たったとき、玄関のほうでがちゃがちゃと音がする。

 兄が帰ってきた!

 わたしは飛び出すようにして、玄関を開けると、そこには女のかっこうをして溶けている兄と、知らない男の人がいた。

男の人は、わたしを見て怪訝な顔をした後、あっと声をあげてからいった。


「くじらちゃん?」

「そうですけど……」


 泣きつかれて枯れた声が出た。外の空気は湿っぽく、身体にまとわりつくようで、そういえば夏になっていたことにようやく気付いた。


「そうか! きみが……きみがくじらちゃんか……」

「あなたは?」

「俺はユリだよ、ムカイの恋人」


 兄の恋人だという人は、兄のことを名字で呼び、感じよくにっこり笑った。兄の腰に手を回している、その腕のかんじや、ふたりの間の気配から、たしかに恋愛のムッと鼻に付く匂いが漂ってくる。

 他者はどこか入りこめない匂いだ。ふたりの体温のある領域から外には出ないけど、目線や皮膚の感じから発せられる濃密な愛の気配。

 そんな気分でいられないわたしは、この恋人に何よ浮わついちゃって、とムカムカきて、余計に不機嫌そうな声で、


「そうですか」


 といった。

 恋人の男はあてがはずれたような顔をする。


「あれ、驚かないの?」

「別に」

「ふうん。まあいいや、この酔っぱらいを入れてやってよ。今日は俺、帰るからさ」


 一言多い男だ。それではいつもいっしょに帰ってきていると伝えているようなものだ。別にそんなこと、わたしはちっとも驚かないのだ。

 死んでしまうことにくらべたら、そんなことは大したことじゃないのだから。

 わたしはいっそう冷たくありがとうございました、といい、兄の体を受け取ろうとする。ちょっと骨っぽい兄の首すじから、女性ものの、いかにもらしい花やかなローズの香りが肩や鎖骨にぶつかってくる。

 わたしは思わず顔をしかめた。それをみて、恋人の男は、


「君には重いか、お邪魔するね」


 と言い、そのまま兄を抱きかかえ、部屋のなかにあっさり入ってきてしまう。男の背中から、底にさわやかさが流れるような、夏の夜闇の匂いがした。

 わたしはそのまま彼と兄のあとを追うと、彼は、わたしが先ほど三郎を探した寝室のベッドに彼を降ろし、慣れた手つきで、兄の着るボンテージを脱がせていく。

 あまりにも生々しく、生活になじんだ、やさしい手の伸ばしかただった。乱雑でも丁寧すぎるのでもない、適切な、情深いやさしい手の温度が、熱気のように立ち上がっていた。

 わたしはそれにあてられてしまって、気持悪いような、おいてけぼりの気持ちで、部屋の入り口で暗やみに抱かれるようにぽんやり突っ立っている。

 彼は兄をしばるすべてを解き、ほんのりと蒼く光る横がおを意図的にさらしている。この部屋であたりまえのように存在し、馴染んでいるがゆえに、そのさりげなさが否応なく目立っていた。

 彼は手早く服をたたみながら言った。

「やっぱり泊まっていこうかな」

「えっ、嫌です」


 わたしは思わず言い返した。


「家族だもんね。分かるけど、でもくじらちゃん酔っぱらいの面倒見れるの?」


 怒っているのでもなく、心配しているのでもない。なにも過剰でない適切な声で、彼はわたしにただ尋ねた。ただの質問にすぎない。なのに、わたしの頭は真っ白になってしまった。

 わたしの猫が死んでしまっても、何も変わらないのだ。事実が痛切に胸に迫る。事実そのものだけが、彼の、ユリの言葉や肩が闇にとけている感じから伝わってくる。

 この人はわたしが猫を喪って哀しんでいることを知らない。実家にいるときに兄のお酒に付き合っていたことを知らない。わたしの猫がどんなにかわいかったかを知らないのだ。

 だから、彼の言うことはあまりにまともで、わたしは打ちのめされて、その勢いとショックに負けてしまった。

 言いたいことはなにもない。なのに弁明をしたい子どものわたしが前面になって、抗議のように泣き出してしまった。

 いまのわたしは猫が死んだから泣いているのではない。わたしはひとつの生物が死んで泣いている優しい野人ではなく、自らの愛の欠損に泣いている一匹の女であることが、喪った愛を慰めてもらいたい現代人であることが、耐えられなかった。

わたしの、わたしの愛にすら誠実でいられないのではないか?


「ごめん! ごめんね、意地悪をしたい気持ちじゃなくて、俺としては……いや、とにかく本当に悪かったよ もう帰るよ ごめん、ごめんよ、くじらちゃん」


 ユリはわたしの肩に触れようとして、辞めた。彼の、兄を支えた手がわたしを慰めようとして、戸惑っている。そのことにわたしは慰められていまう。

 わたしは、変容したわたしのことをちっとも分かっていない。わたしがわたしとして成立している大事な柔らかいところを、あの子が持っていってしまった。愛のために。

 ユリは、言い訳を言おうとしてやめて、それからまた、


「明日はこないから」


 とだけ言って、部屋を出ていった。

 わたしは、ポータブルプレイヤーからブラームスを選んで絞ったボリュウムでかけた。死んだように眠る泥人形の兄と、色あせたタオルケットが残された部屋のなかに、川のせせらぎのように、音は流れて逃げて行く。わたしの足元を流れていく。



 兄はわたしに家事の一切や仕事の手伝いなどをまかせて、アートナントカの仕事をし、歌舞伎町で女王になったり、映画を見たり、恋人とデートしたり、わたしがここに逃げ込むまでの変わらない日々を過ごした。わたしは兄の生きている気配を感じながら、兄に与えられたことをボンヤリこなしていた。動いている間は喪ったことに対する条件反射的な哀しみが湧くことはなかった

もう自分が思いきり哀しみたいのか、それとも哀しみをやり過ごしたいのかも分からなくなっている。目の前のことはあまりにもすぐにすぎていってしまう。時間は遅効性の毒のようなもので、どんな傷もさらっていってしまう。

 わたしは過敏に怒ったり泣いたりする夜と、泥むような昼を何日か過ごし、猫を失ってしまった自分に、すこし慣れつつあった。そして動物のようにまんじりともせず、ぼんやりしていると、普段は見えないものやことがよく見えることを知った。

兄は、恋人のまえではただの三郎にすぎなかった。仕事をしていることも、落ち込んでいる妹がいることも、三郎を根拠づけるものにはならなかった。29歳であることも男であることも、三郎を三郎として因縁づけるものではあったが、どれも彼そのものにはならない。ユリはそのことがよく分かっているみたいだった。

 わたしの兄さんの三郎は、そこにはいなかった。

 ユリといる彼は、ユリの恋人でいるときもあれば、家族みたいに過ごすこともあり、わたしよりもきょうだいらしいときもあった。三郎はもっと広く、多様的だった。

 三郎という一人の人間のなかに、いろいろなものが複合して重なっていて、過去や未来の光が彼をつらぬいているのだ。

 ひとりの人間を人間たらしめるために必要なものはあまりにも多いが、ひとりの人間はその多くの背景を無視して理解されることがほとんどだ。三郎にはいろんな名前がついている。家のなまえ、兄の名前、友だちとしての名前。

 そういうものをすべて含んだうえで、その輪郭にとらわれていない全うさや健康さ。兄はユリの、野人のような貴人のようなたいらさを好きになったことが、わかる。彼の肩のラインを見つめる瞳の細め方や、ユリの足がおなかの上に置かれるときの許している感じから、濃密に、明確に。

 ユリは、わたしがいかに亡霊みたいでも気にせずに三郎に会いにきた。わたしはユリのすこやかさに負けてしまって、彼のはじけるようなエネルギーから避けることが精いっぱいだった。

 ユリは部屋に上がるとまず手を洗って、わたしを探しだしてあいさつする。にっこり笑ってわたしの名前を呼んで、そのあと飼い主のもとにもどるみたいに兄のそばでごはんを食べ、ゲームをする。ユリはアクションゲームが弱いので、勝負の6割は兄に負ける。手が荒れやすく、水仕事のあとにはいつもハンドクリームを塗る。

 彼はあまりにも自然だった。動物が寄り添うような、子どもが大人に甘えるような自然さで、生活に入り込んできた。なにかお土産があったらわたしの分も買ってきてくれる。それに関して、何の余計な感情も入っていなかった。わたしがいるから、わたしの分も買ってきてくれたのだ。その当たり前さは、わたしの猫を想起させて、わたしはユリをまたひとつ憎くおもった。


 ある日、兄が帰ってこないうちにユリが家を訪れた。わたしは寝ていて、ユリはそれを見て、化粧水ぬったほうがいいよとトンチンカンなことを言った。

 でも、彼の言っていることはただしく、顔を洗ったわたしの肌はがさがさで、生きている感じのしないさめた色になっていて、思わず鏡の前で顔をしかめた。肌がきれいなことだけが自慢だったから。

 洗面所からリビングにもどると、ユリはわたしの寝ていたソファーの上のクッションを尻にしき、サメ映画を観ている。

 ユリとふたりきりになるのははじめてで、わたしはどうしたらいいから分からず、ソファーの上で縮こまった。

 映画は序盤に一人が食われたところで、ユリはときどき携帯をいじりながら観ている。わたしはその顔をのぞき見して、気まずくなってまたテレビの画面をみた。

 ユリは、


「サメは歯がよわいんだけど、そのために何回も生え変わるんだ だからサメの歯はなくならないんだよ」


 などと聞いてもいない動物雑学をぺらぺら喋り、主人公の恋人がサメに食われるシーンで、ちょっとだけ泣いた。わたしは大人の男が人前で涙を流しているのに、ぎょっとしてしまい、ななめ前のユリの顔を凝視した。ユリはわたしに見られているのに気づいていなるのかいないのか、数滴の涙を拭って、なにもなかったかのように携帯をいじってはまた映画を観るのを繰り返している。


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