第2話 しろうさぎ

「高山蒼志です。よろしくお願いします。」


 がなかなか言えない。事前に聞いてはいたが、目の前に男子十八人女子十七人もいる。こんなにたくさんの人を見るのは初めてだ。集会所でもこんなに大勢の人を一度に見たことがない。

 四方八方からの視線は蒼志の全身をこわばらせ、押し黙らせてしまった。教室がしんと静まりかえった。


「なんやこいつ。しょっぱなから寝とるで!」

一番前に座っている男子が沈黙を破った。と同時に、どっと笑いが起きた。

「アホか。緊張してるんや。高山くん、このアホの列の一番後ろに座り。」

「誰がアホやねん!」

蒼志は足早に一番後ろの空いている席に座った。

 想定外だ。シミュレーション通りなら今頃クラスのみんなが口々に質問をし、明るく爽やかに答えて初日から五年一組に馴染んでいるはずだ。


 休み時間の度に数人が集まって来てくれるが、蒼志の言葉を待たずに次々と話題が展開される。作り笑顔でごまかしていたのは最初だけ、聞き慣れない関西弁とテンポの早い会話は蒼志の自信を叩き潰していく。休み時間ごとにクラスメイトの数は減り、誰も来なくなった。

 こうして下校時刻になる頃には下を向き、何も喋らない蒼志が出来上がってしまった。


──学校の自分は理想像と大きく違う。

 何度か打開しようと意を決して登校するのだが、どうも大勢の人間を見ると縮こまってしまう。愛想笑いすら出なくなってきた。無口で無表情で暗い蒼志が定着しつつある。


 さて、彼らは重い空気をとにかく嫌い、笑いに変えようとする傾向にある。笑いに変える手っ取り早い手法が誰かを「いじる」。本来は、いじりを受けて面白い反応を返すことができる相手がいて成り立つものだが、小学生にこの判断は難しい。

 蒼志はいじられキャラに選ばれてしまっていた。それがおいしい立ち位置とは理解に苦しむ。それを望まない蒼志にとってはまさに地獄。いじめの図式に他ならない。


「よぉ。しろうさぎ。」

初日に挨拶が出来ない蒼志をいじった松本コウキがすれ違いざまに言った。

 色白の蒼志はすぐに自分のことだと理解した。松本コウキはしつこく蒼志に付きまとってくる。それは六年生になっても続いた。

「お前のまわりはいっつも暗いなぁ。電気ついてますかー!」

「しろうさぎー!俺の人参食べてくれ。好物やろ?」


 自分は明るい人気者になると信じて引っ越してきたが現実は大きく違った。やがて蒼志は、理想の姿は元々自分とかけ離れていたことを悟った。


 引っ越すまでは自分がどういう人間かなんて考えていなかった。ただここではないどこかで、ここにはいないみんなとだったら楽しく過ごせると漠然とした自信で現実から逃げていた。そう、現実を見ていなかったのだ。 


 蒼志は自分の内なる、もって生まれた核の色に気付いた。真っ白だ。

 しろうさぎと同じく、周りの景色に溶け込む色だ。主張もしなければ攻撃もしない。息を殺してまわりに溶け込み存在を隠す。

 そこまで見透かされていたような気がして、松本コウキのことが少し怖くなった。これ以上僕に関わらないでほしい。


 ところが修学旅行の班分けを決める日、松本コウキが蒼志を勝手に班に入れた。放課後グランドで野球をするメンバーの中に。同じクラスなのに喋ったことすらない。一泊二日も一緒に過ごすなんて…。ため息しか出てこない。

 

 案の定修学旅行の思い出は全くない。地面を見て過ごす一泊二日の旅だった。

ただ、この修学旅行をきっかけに大きな喜びを得た。初めての友達ができたのだ。

「高山くん、カード持ってる?一緒に遊ばへん?」

と、佐野翔馬がカードゲームに誘ってくれた。持っていなかったが嘘をつき、その晩父に買ってほしいと頼んだ。

 後で知ったことだが、どうやら翔馬は修学旅行の同じ班で、帰りのバスでは隣だったらしい。

 蒼志は翔馬に教わってカードゲームを覚えた。放課後は蒼志の家で毎日カードゲームをした。ささやかではあるが穏やかで楽しい時間だ。野球も教わった。翔馬は蒼志に男らしい、楽しい遊びを教えてくれる。真っ白だった自分に色が追加されていく感覚だ。翔馬といると引っ越し前の理想の自分に近付く気がする。地の底に落ちた蒼志の自信が少しずつ戻り始めた。

 

 だがここでも松本コウキの登場だ。

「よぉ!翔馬。グランド行こうや。最近全然来えへんやん。しろうさぎ!お前も俺たちと野球せんか?」

蒼志は首をふり、恐る恐る翔馬を見た。申し訳なさそうな顔をしてこちらを見ている。同情されると余計に惨めだ。

「翔馬、ごめん。僕、そろそろ帰るよ。」

返事を聞かず足早に立ち去った。


 僕の下手くそな野球に付き合うより松本コウキたちと野球する方が楽しいはずだ。冗談も通じない僕といたって退屈なだけだ。どうせ……どうせ僕なんか……。

 涙が溢れた。溜め込んだ涙が溢れ出す。涙が涙を誘って次から次へと。

 

 ふと気がつくと真っ暗な部屋で寝ていた。まぶたが重い。洗面所で顔を洗って涙の跡を消した。泣けばスッキリするなんて嘘だ。何も世界は変わっていない。

 

 外で足音が響いた。古いアパートの階段は誰の足音も大きく響かせる。二階の一番奥の部屋の前で止まった。父さんだ。慌てて洗面所の鏡で顔を見た。大丈夫。ばれない。蒼志は慌てて自分の部屋に戻った。


 「蒼志!蒼志!手紙!さやちゃんから手紙!」

玄関で叫んでいる。靴が脱げないのだろう。焦れば焦るほどに靴が脱げなくなるらしい。

「何?おかえり。」

さやちゃんは去年住んでいた家のお隣さんであり、唯一の同級生だった幼なじみだ。


──この字なつかしい……。

 玄関でもたついている父から手紙を受け取り、部屋の鍵を閉めた。

 さやの手紙を持った指先から温もりが広がる。あれから一年ちょっとの間に僕は色々とありすぎた。氷のように冷たくなった蒼志の心までぽかぽかと温かくなってきた。

 

 封筒を丁寧に切り、中を見た。ハンカチと手紙が入っている。

蒼志の手が、全身が震えだした。



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