アザレア


「はぁ~……」


 僕の家に着くや否や、ソファーになだれ込むようにして座った彼女は、背もたれに身を預け、ぐったりとした様子で長い長いため息をついた。ぱっくりとあいた口からはそのまま魂までも流れ出てしまいそうだと思えるほど、疲弊しきった声音だ。

 彼女──茨木香子こうこさんは、僕の会社の先輩であり、新卒だった僕の元教育係であり、そして僕の恋人でもある女性だ。会社での彼女はいつもキリッとしていて、仕事をバリバリこなすキャリアウーマンって感じだから、疲れた顔なんか見せたことない。そんな彼女がこんな風に弱いところを見せてくれる関係になれたことが、なんだか感慨深い……と、それはともかく。

 僕はキッチンへ向かい、電気ケトルのスイッチを入れた。その間に身支度を整えようと上着を脱いでハンガーにかける。シワにならないように伸ばしているうちにお湯が沸いたので、キッチンへと踵を返す。

 彼女が疲れている原因はなんとなく想像がつく。先日、新卒採用された中の1人がうちの部署に配属された。名前は竹内くん。彼は僕以来の新卒で、今まで中途採用の年上後輩しかいなかった僕としては、本当の意味での後輩ができる、と多少ウキウキしていたんだけど。


「そんなに曲者なんですか?」


 マグカップを用意しながらソファーにいる香子さんに話しかけると、力なく「うん……」と返事が返ってきた。相当疲れているみたいだ。一旦インスタントコーヒーの瓶に伸ばしかけた手を引いて、ココアの袋に手を伸ばす。

 浮かれていた僕の気持ちとは裏腹に、彼の教育係は香子さんが任されることとなった。後から香子さんから聞いた話だけど、“僕に任せても問題はないが、勤続年数や僕が新卒だったことを考えても茨木が適任だろう”という上の判断らしい。そういえばその時にも納得がいかないと腹に据えかねていたな。


「だってさぁ、メモを取れって何回も何回も言ってるのに取らない。自分、記憶力いいんで、だって」

「わぁ……」

「きっと、自己評価がとっても高いのよね。自己肯定感が低い人の多いこのご時世にしちゃあ立派なもんだけど、こっちは大迷惑よ。自分は仕事が出来る人間だと思っているみたいで、教わってないこととか頼んでないことを勝手に自己判断でやろうとするのよ」

「……すごいですね、それ」

「今はなんとか私が事前に気づいて大ごとにならないように対処出来てるけど、先行きが思いやられるわ……。毎日竹内くんのカバーカバーカバーで本当疲れる……」

「お疲れ様です」


 言いながら、目の前のテーブルにマグカップをふたつ置いた。自身が背もたれの一部であるかのように脱力していた香子さんも、コトリという音と甘い匂いでそれに気づいたようだった。むくりと起き上がり、湯気のたつ温かいココアに手を伸ばす。よほど糖分を欲していたのか、ふぅふぅと2、3回息を吹きかけただけで、香子さんは口をつけた。

 一度口から溢れた言葉はなかなか止めることは出来ないようで、次から次へと竹内くんに対する愚痴が出てくる。僕はそれに相槌を打ちながら、時折労いの言葉をかけた。

 香子さんの話を聞いていると、新人の教育って本当に大変なんだな、と思い知る。新卒ともなると余計だろう。配属前に一通りの研修はあったけど、そんなものは付け焼き刃に過ぎない。仕事に必要な知識はやはり、配属先のOJTによって養わなくてはいけない。香子さんは自分の仕事もあるだろうに、その上新人教育まで任されて、疲れるのは当たり前だ。ここ最近残業も多いようだし。

 僕も入ったばかりの頃は、右も左も分からない状態で、香子さんにお世話になりっぱなしだった気がする。それを考えたらなんだか居たたまれなくなって、肩をすくめた。


「僕が入ったばっかりの頃も、やっぱり大変でしたよね……?」


 反省の意を込めて小さな声でそう言うと、香子さんは「いや、」と唸った。そしてまたちびちびと舐めるようにココアを飲む。


「伊吹くんの時はそうでもなかったわよ。むしろすごく楽だった」

「本当ですかっ?」


 落ち込み気味だったけど、香子さんの一言で気持ちが跳ね上がった。先輩としても尊敬してる彼女から褒めてもらえたのだ、嬉しくないはずがない。

 思わず目を輝かせて彼女を見ると、彼女は数年前を思い返しながら、問題の彼と僕との相違点を指折り数えて話している。


「だって伊吹くんはちゃんとメモを取ってくれたし、一回言ったら理解してくれるし。わからないことがあれば質問してくれたし。何より質問事項が明確でこっちも答えやすかったし。仕事はきちんと確認しながら進めてくれたし。それに、手持ち無沙汰な時はこっちの状況見ながら指示を仰いでくれたじゃない。教える側としてはすっごく助かった」


 意識してやっていたわけではない自分の新人時代の行動をべた褒めされ、当時はあくまで『後輩として』だけど、香子さんに認めてもらえていたのだという事実に、我慢してもしきれずつい口角が上がってしまう。


「……そっか、だから今余計に大変に感じるのよ。最初に教育した新人が伊吹くんだったから、比べちゃって」

「え? 僕のせいですか?」

「だって竹内くんは、伊吹くんと違って打っても響かないしー、教えがいもないしー。犬っぽくないし、可愛げがない」


 つまり香子さんは僕が新人の頃からそれなりに、僕を後輩として可愛がってくれていたということか。口を挟みたくなったけどやめておいた。ちょっと今はこの香子さんの話を聞いておきたい。


「だいたい伊吹くんが完璧すぎたのよね。新人のくせに仕事ちゃっちゃと覚えてちゃっちゃとこなしちゃうし。元々人間が出来てるから仕事に関しても何に関しても非の打ち所がないのよ。このココアだって、何も言ってないのにさらっと出してくれちゃってさ。こんなのずるい。もー、どうしてくれんのよ、伊吹くんのせいで私の基準値が変に高く設定されちゃって、新人にもイラついちゃうんだわ」


 香子さんは駄々をこねる子供みたいに、脚をバタつかせた。

 疲れて思考力が低下している彼女はたぶん、今自分がすごい勢いで口を滑らせていることに気がついてない。僕は今、普段は滅多に聞けない褒め言葉を浴びるほど聞かせられている。眉根を寄せて愚痴の延長のように紡ぎ出された言葉たちは、確実にそして的確に、僕の胸を突き刺していく。その言葉から、彼女が僕のことを後輩としてだけでなく、1人の男としても認めてくれているのが読み取れて。不意を突かれてカッと顔が熱くなり、僕は慌てて顔を背けた。今喜んじゃダメだ、と必死でなんでもないような顔をする。

 竹内くんには密かに感謝だ。だって、彼の仕事っぷりのおかげで、香子さんの口からこんなに破壊力の高い言葉を聞くことができている。


「だっからあれだけ言ったのに、新人教育は伊吹に任せても大丈夫だって。それなのに、ほんっと上辺と体裁だけしか気にしないんだからあのクソオヤジ……」


 怒りの矛先が部長に向いたところで、ピピッと小さな機械音が聞こえた。どうやら帰宅と同時に準備していた風呂が沸いたようだ。風呂を用意していたことには気づいてなかったようで、目をパチクリとさせて僕を見る香子さんににこりと微笑んだ。


「お先どうぞ」


 一番風呂を譲ると、香子さんの表情が少し和らいだ。さっきのココアとお風呂で、心と身体が休まればいいけど。


「ほーんと、よくできた後輩で……」

「そこはよくできた彼氏って言ってくださいよ」

「……そうでしたっ」


 軽口を叩くと、香子さんは恥ずかしそうに目を逸らした。そそくさとタオル類を準備して、逃げるようにバスルームへと向かって行く。結局、よくできた彼氏だとは言ってくれない。でも香子さん、気づいてないだけでさっきほとんど言ってましたけどね。……とはもちろん言わないでおく。

 ニヤついてしまうのはもう隠さない。さっきの言葉を頭の中で反芻しながら、僕も少しぬるくなったココアを胃の中に流し込んだ。





*アザレアの花言葉:「あなたに愛される幸せ」

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花とことばと、あなたとわたし 天乃 彗 @sui_so_saku

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