グラジオラス
クリスマスが今年もやってくる。
そんな歌が頭をよぎる、そんなクリスマスイブ。そう、クリスマスは今年もやってくるのだ。誰にだって平等に。私にだってやってきているはずなのだ。
定時を少し過ぎた社内は、少しざわついている。いそいそと帰宅しようとする人もちらほら。そりゃそうだ、クリスマスイブだもの──と思いながら、私はパソコンに向き直る。絶賛、仕事が終わらない。
「茨木さん」
私に声をかけたのは、後輩の伊吹真守だった。顔まぁ良し、性格良し、仕事もよくできる好青年、というのが彼への周りの評価だ。伊吹くんが新卒で入ってきたときから私は彼の世話役をしていたが、1年半以上も仕事をしていれば、その役柄は自然となくなった。が、今でも彼は、私を先輩として何かと頼ってくる。頼られるのは嫌いじゃないから悪い気はしないけど。
「何?」
「この書類、修正終わったのでチェックしてもらっていいですか?」
「ああ、了解」
「僕もう上がるので、終わったら机の上にでも置いていただければ大丈夫です」
「はいよ」
そちらを向く時間さえ惜しくて、目線はパソコンに向けたまま、片手を差し出して書類を受け取る。私が受け取るのを確認してから、伊吹くんは身支度を整え出した。引き出しからカバンを取り出して、机に置く。
「じゃ、お先に失礼します」
「え、何! ブッキー帰るん!?」
「俺の仕事やるから残ってけよー!」
私の同僚たちが伊吹くんに絡んだ。伊吹くんは笑いながらそれをかわしている。
「ダメです。今日はデートなので」
ぴくり、と、耳が声を拾った。
デート? ……ふーん、デート。……そっか。そうだよね。
「なーんーだーよー! この色男! 羨ましいよこんにゃろ!」
「あはは。お疲れ様でしたー」
伊吹くんはサワヤカな笑みを浮かべて颯爽と退社していった。取り残された残業組は、その背中を見送ってからため息をつく。
「いいなぁ~、イブにデートかよ~」
「デートする相手もいないしな、俺らは」
「仕事が恋人だよ俺らは。なっ、茨木!」
……なぜ、私に振る。顔がひくついたのを誤魔化しながら、「ソウデスネ」と返事をした。余計なこと考えてる場合じゃないんだから、邪魔しないでほしい。仕事終わんないし。
「どこ行くんだろうな、伊吹」
「スペック高いしなぁ、アイツ。いいとこのディナーとか予約してそうだよな」
「あー。ありそう」
去年は寂れたラーメン屋でしたけどね。今年はきっとそうなのかもね。
「伊吹の彼女ってどんなんだと思う?」
「そりゃー、ふわっとしてかわいい感じ?」
「確かに年下と付き合うイメージあるわ」
そうですよね。そう思いますよね。私も思うもの。
キーボードを打つ音で、脳内の雑音を打ち消そうとする。だけど、なかなか消えてくれない。
去年のクリスマスのあと、何度かご飯を一緒に食べたり、一緒に帰ったりはしたけど、そんな雰囲気全くなくて。告白なんてしておいて、やっぱりからかっただけなんじゃないかとか、去年のは気の迷いだったんじゃないかとか、いろんなことが頭を巡って集中できない。現にほら、あの時の言葉なんかすっかり忘れて、他の子とデートをするんじゃない。
……だめだ、集中できない。とりあえず今の仕事は一旦中断しよう。そう思って、さっき伊吹くんに渡された書類に目を向ける。こっちを先に片付けてしまおう。パッと手に取ったら、真ん中あたりに付箋が貼り付けてあるのに気がついた。伊吹くんは気配りが出来るし、人が仕事をやりやすいように工夫してくれる。きっと、修正した箇所がわかりやすいように貼ってくれたのだろう、とその付箋を見てみて──言葉を失った。
『駐車場で待ってます! 伊吹』
そんな大事なことは直接言えよとか、私の都合ばっかり考えて自分のことはいいのかよとか、いろんなことが頭の中を駆け巡った。でもきっとこれは、仕事をしている私のことをかっこいいと言っていた、伊吹くんなりの気遣いだ。それを考えたら、胸が詰まる。
去年のあれは嘘じゃなかったんだ。それにすごく安心してしまって、仕事中なのに、ちょっと泣きそうになった。好きなはずの仕事が手につかなくなるなんて、伊吹くんがイブに誰かとデートをするのがあんなに嫌だなんて、私、結構……ううん、すごく、伊吹くんに持ってかれているんだなと、今更気づく。
こうやって、伊吹くんは私に頑張る理由をくれる。なら、私がすることは一つじゃないか。
──よし!
気合いを入れ直して、パソコンと向き合う。さっさと終わらせて、伊吹くんと美味しいものを食べよう。
クリスマスが今年もやってくる。きっと来年も、再来年も、変わらないクリスマスがやってくる。連れて行かれるのが寂れたラーメン屋だったら、今年は許さない。
*グラジオラスの花言葉:「忍び逢い」
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