モモ


「先生先生先生っ」


 あぁ──また彼女がやってきた。私は横目で彼女を見ながら、眼鏡の位置を正す。


「用もないのにここへ来るのは止めなさい」

「違うよ! 用あります! 先生、これ添削してください」


 そう言って彼女は作文用紙を私に手渡した。そういうことか。私は彼女から無言でそれを受け取った。

 彼女は私の生徒で、私は彼女に国語を教えている。彼女はそろそろ大学入試を控えていて、入試に必要になる小論文の勉強をしているところだ。彼女は国語の成績があまりかんばしくない。だから小論文も出来がいいとは言い難く、私はため息をつきながら赤ペンで修正をする。


「先生。愛と恋の違いって何ですか!」


 また彼女が変なことを言い出した。私は彼女を見る。何を期待しているのか、わくわくした表情で私を見ていた。私はずれた眼鏡を持ち上げる。


「辞書を引きなさい」


 私は机の上にある愛用の辞書を彼女に差し出す。すると、彼女はむっとして手足をばたつかせた。


「先生の意見が知りたいのー。先生の意見を20文字以内で述べよ!」


 どうしても知りたいようだ。これでは小論文の添削指導もろくに聞いてもらえないだろう。私はため息をついて、少し考える。……よし、これで、17文字。


「愛は育むもの、恋は追うものである。で、句読点入れて17文字だ」

「……さすが」


 今の答えの何が不服なのか、彼女は不貞腐れた顔で横を向いた。……やれやれ。私は小論文に目を戻し、添削を再開した。

 直すところはこれくらいだろうか。私は小論文に目を向けたまま、彼女に指導を開始する。


「秋野、まずここだ。この文が主語と述語が噛み合ってない。この主語に対応させるには……」


 ふと顔を上げると、彼女は私の言葉なんか聞いていない様子で、ぼけっと私の顔を見ていた。……何のための指導だ。


「……聞きなさい」

「え? あ、すみません」


 私はため息をついた。私は彼女の方に向き直る。回転イスがキィ、と音を立てた。


「お前なぁ、本気でここ受かりたいんだろ? 将来の夢は何だ、言ってみなさい」

「夢は先生のお嫁さんです!」


──……。

 私は彼女のキラキラと輝く瞳から目を逸らす。昔から、そうだった。教師である私に、彼女は好意をストレートにぶつけてくる。


「……話にならん」


 私はイスを戻し、小論文をまた見る。


「先生。先生」

「これも誤字。点が抜けてる」

「……先生のバカ」

「バカにバカとは言われたくない」

「大切な生徒のことバカ呼ばわりするなんて」

「だったら漢字くらいまともに書きなさい」


 彼女の悪態を冷静に返しながら、私は小論文をまじまじと眺める。


「……先生、お願いです」

「何だ」

「合格したら、キスしてください」

「ふざけるな」


 また変なことを。私は彼女の提案を跳ね返す。そんなこと、私が出来るはずないのに。


「じゃあ、私のこと名前で呼んでください、桜って。そしたら入試頑張るから」

「……秋野、いい加減にしなさい」


 私はあえて名字で彼女を呼んだ。絶対に越えてはいけない、「教師」と「生徒」の境界線。彼女の名前を呼ぶことで、今まで守ってきたそれが、崩れてしまう気がした。

 彼女は何も言わない。……いや、言えないのだろう。でも、そのほうが助かる。彼女が何かを言うたびに、私は彼女を遠ざけなければならないから。

 ふいに、彼女が息を飲む音がした。


「──卒業したら、私のこと、女として見てくれますか?」


──……。

 彼女の瞳は、真っ直ぐ私だけを見ていた。もう、わかっている。私は、彼女の瞳からは逃れられない。

 彼女は私の生徒だから。わかってはいても、もう既に、私は真っ直ぐに私を見つめるその目に囚われてしまっていた。

 私はイスごと彼女に向き直る。イスのキィ、という音だけが生徒指導室に鳴り響いた。


「……さぁな」


 私は、小さく笑ってみせた。いつか彼女が私のことを「先生」と呼ばなくなったとき──そのときは彼女のすべてを受け入れよう。だからそれまでゆっくり待っていよう。今はまだ、私の言葉にすぐ顔を赤くする、この少女を。

 彼女はまだ子供だから、私の思いには気付かない。でも、今はまだそれでいい。彼女は気付いていなくても、もうずっと前から、私は。





*モモの花言葉:「私はあなたの虜です」

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