ケット・シー(1)

 私には家族の記憶がない。


 キシネはうっすらと、妹がいる事を覚えているらしいが、私には恐ろしいほどに家族に関する記憶が微塵もない。


「まあよ、そんな気にする事でもないぜ。だって極端な話、このクソ忙しい世の中で何もかもを完ぺきに記憶している人間なんているか?」


 そう言うとキシネは、パブロ・ピカソを例に出した。


「ピカソはな、キュビズムなんてやった。で、アレは正しい行いと評価された。ならよ、基本や正統が見えないような行いでも、天才だなって思わせたヤツの勝ち。違うか?」

「ああ、そうだな。ピカソにさえ、部分的には記憶の欠損はあったという噂すらなくはない。ならば戦いの中に身を置く我々には記憶より大切な事がある。そしてそれは、あなたが勝ちと見なす、天才的な行いなんだろう」

「ははは。トウマは散々な扱いだったがお前はいつも正しいよ、フラナ」


 ははは、と私は心の中ではキシネ以上に軽薄な笑いを浮かべた。

 正しいかどうかなんて、知った事ではない。


 ◇


 私は嘘つきなので、当然キシネにも嘘をよく言う。


 そりゃ、当然と言いきるのも変だが私は世界を造り変える意思に興味がない。

 ハンターとなるしかなくなった今でもそれは変わることはなく、よって私は誰かに正直である必要がないのだ。


 ピカソに記憶欠損があったかどうかなど、私は知らない。


 全ては適当な作り話でその場しのぎ。

 だが、人を納得させる方便ではある。


「フラナさん、カッコ良いです~!」


 バンドウは、こんな風にわけも分からないまま人を誉めちぎる傾向がある。


 だが別に構わない。

 人が納得するかどうか、むしろ私はそこに対して正直という意味では誰より正直者だ。


「よしてくれ。私は本当の事を言ったまでだ」


 記憶欠損者の馴れ合い。

 そう我々をなじる者もいるが、馴れ合い、大いに結構じゃないかと私は思う。


 所詮、互いに明日の知れない身の上。

 私がキシネと一年間も過ごせたのは、努力の結果でもなければ確固たる善行の結果でもない。


 たまたまだ。


 ◇


「フェンリルとかいうコロッサル、私たちなんて一瞬で殺してしまうだろうな」


 東京蒲田病院。

 四階建て、いや、屋上入り口も含めるなら五階建ての、そうバカでかいわけでもない180床という医療施設だ。


 そして我々の眼前には、その屋上に前足を乗せてくつろいでいる白狼の姿があった。


「デカすぎるんだよ、くそったれ」


 キシネは彼のデフォルトである泣き言を漏らした。


 彼のスタイルはジェミニ・パルクーラー。

 ジェミニは双剣を駆使して、手数で攻めていく武装スタイルだ。


 そんな彼が二本の短刀を片手ずつに持ちながら言うのはハンター姿に似合わず間抜けている。

 しかし言われるだけの事はあり、フェンリルは70メートルはあろう巨躯を持て余しているように見えた。


 今は病院を中心としたエリアも厳しい氷雪の地へと変化させ終わり、残すは病院のみという局面で小休止している。


 フェンリルの荒々しい息遣いからは、そんな背景が読み取れるように私には思えた。


 ◇


「アオォオオオオ」


 神々しさすらある咆哮が響く。

 そこまで接近していないのに鼓膜がはち切れんばかりなのは、やはりヤツの大きな肉体ゆえだ。


 そして、本当は我々の存在にとっくに気付いていたらしいフェンリルはその厳しい眼光を炯々と燃やしてこちらを向いた。


「キシネ、落ち着けよ。逃げれば逆に傷が深くなると思え」


 私は珍しく正直な助言を送った。

 なに、普段から損させてばかりのような下手な嘘つきではないだけに、仮にも戦友である彼を眼前で失わないための正直さには十分な説得力が残る。


 ただ、それだけの事だ。


「あの~、ふ、フラナさん」

「なんだ?」


 今にもコロッサルが襲い来るというのに、妙におずおずとした口調でバンドウが尋ねた。


「フラナさんはそう言いますけど、やはり逃げた方が良いのでは?」


 ◇


 珍しいな、とまず私は思った。


 バンドウがそのように弱気な事は、ハンターになりたくないという立場を抜きにすれば稀だ。


 だがその一方で、バンドウという新米ハンターにありがちな臆病さもまたもっともだとも思った。


「ふっ。大丈夫だ、バンドウ。相手はデカいがゆえに、動作は緩慢。いかにコロッサルであっても重力に逆らえるはずはないさ。期待してるよ、ボーラー」


 ボーラー・ライダー。

 ボーラーはボール製造者を意味する。つまり鉄球をリクラフトして射出する、打撃と射撃を両立させた武装スタイルだ。


 そしてライダーの移動スタイルであるバンドウは、グリフォンを騎乗生物としてリクラフトして乗っている。


 鷲の顔と翼に、ライオンの胴体。

 ギリシャ語のグリュプスを語源とする割にギリシャ神話にいないという変わり種だが、バンドウによれば見た目の情報がシンプルだからイメージはしやすいらしい。


 ◇


 フェンリルはもしかしたら、我々が勝てるような力量の持ち主ではないと見抜いて放置しているのかもしれなかった。


 現に、我々がフェンリルのテリトリー、即ちゾーンに深く侵入したところで、ヤツは微動だにしない。

 悠然としながらもやけに硬直した姿勢であり、それが何より隙の無さを思わせた。


「今一度、やるべき事を確認しよう。まずは行方不明者の捜索を何より優先。つまり今の我々にはフェンリルに勝つ事より大切な事がある」


 壊滅とは言っても、明らかに死亡が確認されたアマシタのような者ばかりの中に、わずかながらも行方不明の重要人物がいる。


 HL、つまりハンターラインと呼ばれる念話を通じて我々がリアクトから得たのが、そうした指示だ。


「けっ、リアクトサイドのハンターって要はアマシタみたいな輩だろ? 信用ならねえ。罠かもしれないと思うくらいで良いんだよ」

「キシネの割に正論だな」

「はんっ、俺はいつでも正しいぜ。アマシタは死に、俺は生きてる。それが証明だ」

「は、はは。アラさんって……いや、なんでもないです」


 ◇


 その時、我々の眼前、フェンリルより遥か手前のそこに小型のコロッサルが現れた。


「なんで狼の手下が猫なんだよ」


 ケット・シー。

 猫型のコロッサルだ。


「左耳だ。輝きが強めのあれがヤツらのメインコア。各自散開し、直ちにコアを破壊せよ」


 私がそう指示を出し、それを受けてキシネとバンドウは私から離れた。


 ケット・シーは左耳に外殻のないメインコアがあるだけ。そのために比較的、初心者ハンターでも倒しやすいとされる。


「うみゃああ」


 しかし奇妙に猫らしい鳴き声と共に、リクラフトされた氷のつぶてが私たちに目掛けて容赦なく飛んできた。


「ぐあっはあ」


 キシネはいささかオーバー・リアクションだが、確かにダメージがないわけではない。


 リクラフト。

 つまりそれは本来、コロッサルこそが得意とする能力なのだ。


 ◇


 私はブースターの直線的な加速に慣れるため、様々な戦法で猫たちと戦ってみる事にした。


 まず動きを見る限り、氷のつぶてをリクラフトするには両手を掲げる必要があるみたいだ。

 よって私の場合はコアを直接に狙うのと同時に腕破壊も狙うのが効率的という事になる。


 私の場合は、というのは、たとえばキシネのように射程が短いジェミニで、なおかつ巨大コロッサルに有効な密着戦のための移動スタイル、パルクーラーであるならば腕も耳もと欲張ると非常に効率が悪くなるのだ。


「であああ」


 私はムサシ・ストライクと名付けた攻撃スキルを駆使して、次々に猫たちを葬り去った。


「すげえな、フラナ!」

「私たちもやりますよ~」


 ムサシ・ストライクは単に、高出力ブースト移動しながらナギナタで斬り伏せるだけの簡単な仕事だ。


 だがその単調さは、とかく奇をてらいがちなケット・シーたちには有効なようだった。

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