第4話 邪神ニャルラトホテプ(と、この作品では表記する)

 時は二〇一九年。あらゆる神秘が科学の光で駆逐されんとしている二十一世紀初頭。


 多くの夢は技術で代替され、細かい問題は絶えないながらも極めて平和な時代と言える。

 だが、そんな世界にも未だに神は実在した。多くの人はそれを信じてはいなかったけれども。


 そんな神を信じていない現代人でも、半分程度は『名前だけなら知っている』と口にする邪神がいた。


 ニャルラトホテプ。

 彼、もしくは彼女をネットで少し調べれば、不吉な文言が列挙されていることにすぐ気が付くだろう。


 曰く、人に『知るべきではない秘密』を伝える者。

 曰く、千の貌を持つ。または貌が無い。

 曰く、ニャルラトホテプは世界に同時に何人もいる。


 曰く、曰く、曰く。


 そして、その姿を見た者はあまりの恐ろしさに発狂してしまう。そんな伝説もある。

 人の姿を取っているときも油断はできない。なにかの拍子で、その本性を見ないとも限らないのだから。


「……いや私に本性とかないけどね。全部『本当の貌』で『仮初の貌』だよ。だってどんな姿にでもなれるんだからさ」


 第四王女(と山賊が言っていた女の子)の手術はあっと言う間に終わった。まるで膝を擦りむいた子供に絆創膏を張るような気軽さでが滞りなく。

 というより、滞りがなさすぎた。手の傷の方も白衣のニャルラトホテプの宣言通り、予後もなにもあったものではない。


 なにせ『最初からなにもなかったかのように傷が消えている』と言った方が正確なのだから。

 ここまで来ると不気味だ。所業は誇張一切なしの神業そのものなのだが。


「お前……改めて見ると無茶苦茶だよな。なんなのお前」

「ニャルラトホテプ。人間としての仮の名前は丹羽竜歩にわりゅうほ。職業は医者兼邪神。直近の実績は『東京永久凍土事件の黒幕』やってました。末永くよろぴくしー」

「知ってる。そしてその自己紹介を俺が聞くのは三回目だ。実績に関しては別の事件だったけど、もっとバリエを増やせ。ところで」


 絵ノ介はスマフォのライトで周囲を照らしながら、改めて状況をよく見る。


「どこだここ?」

「私にもさっぱり。もうすぐ偵察に出したムンビとシャンタクが戻ってくるから、その報告を聞いて考えようか」

「……俺の見えないところでやってくれ。アイツら見た目グロすぎて好きじゃないんだよ」

「ところでさァ。私は別にいいんだけど」


 ニャルラトホテプ――竜歩は手術用手袋を乱雑に外してポケットに突っ込んだ後、首だけ振り返って絵ノ介を見る。


「ついさっきまで私たち喧嘩してたよね? 状況がわかるまで手を組むのは賢いと私も思うけどさ。絵ノ介くんはどう思ってるの?」

「クソどうでもいい」

「ど、ドライすぎる!?」


 竜歩は驚愕するが、しかしこれが絵ノ介の本心だ。

 ニャルラトホテプが悪さをしていれば全力でぶちのめしにかかることを己の使命に課しているが、それだけだ。悪さをしていないのなら充分。


 味方なら頼もしい。しかし、それ以外の部分で竜歩に興味を持つという発想がない。


 竜歩はその対応に不満なのか絵ノ介との距離を詰め、彼の腕に自分の身体を絡めさせた。


「ええーっ? そんなこと言わずに仲良くしようよー。別に絵ノ介くんが一方的に敵視してるだけで、私の方はキミの方に害意はないしさー。好きな女の子のタイプは?」

「年下」


 なお丹羽竜歩の社会的な年齢は二十八歳である。実年齢は当然それどころではないが。


「……なんで全力でフラグを爆破しにかかるのかな!?」

「あと犯罪とは無縁のヤツ。よくわかんない生物を従えてたりしないヤツ。びしょ濡れの身体を押し付けてこないヤツ。丹羽という苗字じゃないヤツ。竜歩って名前じゃないヤツ」

「ね、念に念を押したダメ押しィーーーッ!?」

「いつ殺されるんだろうと怖すぎて恋愛どころじゃない。こうやって抱き着かれているだけでも気絶しそう」

「そこまで危険な生物になった覚えはないけど!」


 面白半分に善良な人間へロクでもない魔術の秘奥を教えたりする邪神の言うことにしては説得力がなかった。

 絵ノ介は美女がいかに誘惑しても、表立った反応を示さない。


 これが世良絵ノ介だった。悪いヤツのことは心を燃やして全力で叩きのめしにかかる正義の男だが、そうではないときは植物のように穏やかで面倒ごとを厭う。学校での評価は『いいヤツなのはわかるが、パッとしない』だ。


 実のところ絵ノ介も竜歩の外見の美しさは好きだ。しかし内実が邪神なので誘惑に対してどんな反応を示していいのかわからない。故に無反応を貫いていた。


 この女の理不尽さは、すぐ傍で異臭を放ちながら山のように積まれている山賊たちを見ればすぐに思い出せる。そもそもアレは本当に誰一人として死んでないのだろうか。仮に死んでないのが本当だったとしても、放置していれば間違いなく死ぬだろう。


「……そういえば、なんで山賊なんかいるんだ? 一体どこまで飛ばされたんだよ」

「女の子に抱き着かれてるのに感想の一つもナシかよ! でも着眼点は悪くないな!」


 そう言うなりやっと丹羽は離れ、詰まれている山賊たちに近づく。血の池を感慨なく踏み付け、適当な――本当にたまたま近場にいた山賊の持ち物を漁る。


 足の先で蹴り転がしながら。流石に汚いものに素手で触りたいとは思わないようだ。


「……装備はボロに近い服と、それに比べては上等な鎧……後者は盗品だろうな。見るからに一部分しか着てないし。仲間と分割して装備してんのかな。あとはサーベルとナイフと……どちらも状態が悪い。よくこんなの持って平然としてられるな。オモチャぶん回してる方が余程格好が付くよ」

「銃火器の類は?」

「ない。ええっと、後は健康状態とかかなー。今見れるのは」

「最悪に決まってんだろ」

「これは私の存在はあまり関係ないなー。口の中の状態も虫歯だらけで相当酷いし。まともな物も食ってないっぽい。肌つやも悪いなー。風呂入ってないよ、コレ。アメニティグッズを人数分下賜したいね」


 下賜とは随分な言いようだ。意外に彼女も神として意識的に振る舞っている節がある。


「比べて、そっちの方は……肌つやもいいし口の中に虫歯一本たりともないし健康状態も滅茶苦茶良好。未知の病気や既知の病気を患ってるってこともなし。美人だし存在自体が医者に対するちょっとした嫌味sarcasmだねェ。うっふふふふふふ」


 改めて、絵ノ介は地面に横たわっている第四王女のことを眺める。


 一瞬で目を奪うような金色のショートヘア。規則正しく上下する胸には柔らかそうな膨らみ。今はもう外されているフード付きの外套にはところどころに金の刺繍がしてあるし、触ったことがないほどに手触りがいい。


 綺麗な顔には上等な化粧が乗り、その美貌はまさに輝かんばかりだ。


 王女と呼ばれるだけあって、やはり山賊とは育ってきた環境が違うようだった。


「……なあ。地球上に王女ってどれくらいいたっけ」

「流石に詳しい数までは私も覚えてないなァ。数が増減するのが人間だし。ただそんな顔の王女様、私は見たことも聞いたこともないね。こんな真夜中に山賊が出現する建物に来るのも不合理だし」

「……合理性ならあるかも、しれない」

「ん?」

「俺たちが出てきた空間の穴。その先に繋がってたのは、あの魔法陣の中心だ。その一番近くにいたのは山賊じゃなくてこの子だったろ?」

「……んー」


 竜歩は僅かに考える仕草をした後、絵ノ介の目を少し離れた場所からじっと見る。


「私たちは呼ばれたってこと? その王女様に? いや、私ならわかるよ? 過去に数回『ニャルラトホテプの招来の呪文』をバラ撒いたことあるし」

「危険なことしてんじゃねぇよ……」


 なお、やらないだけで彼女の危険性は『ちょっとした暇潰しに町一つを廃墟にできるレベル』だ。できることなら宇宙の彼方で永遠に隠居していて欲しい。


「でもあの魔法陣には覚えがないな。ひょっとしたらノーデンスあたりが教えたのかもしれないけど。私への嫌がらせに」

「お前のことが嫌いな神のおっさんか。一度会ったことあるけど、そんなことする人だったっけ」

「可能性の一つかな、程度だけど」


 つまりまともに疑える要素がないらしい。心当たりがないのは彼女も絵ノ介と一緒のようだった。


「……おや? ちょっと待って絵ノ介くん。さっきより部屋が明るくなってない?」

「え」

「……なんだ。窓があるんじゃないか、この部屋。星が見えるよ」


 絵ノ介はそんなことに全然気が付かなかった。確かに壁を見てみると、高い部分に窓がある。それも複数、横並びになっていた。


「よく気付いたな」

「逆に今まで気付かなかった私に驚いてるよ。儀式に星の並びが重視されること結構あるからさ。今までは曇ってたのかな? ま、ともあれこれで、ここがどこなのかわかるさ。南半球だろうが北半球だろうが星の並びは全部覚えてるからね! なんなら冥王星ユゴスから見える星図だってソラで書けるくらいさ!」


 そう言うなり望遠鏡を取り出し、竜歩はそれを覗き込む。


「ふーむ。ふむふむふむ。心当たりのない星だ。おっ、でもこれは……心当たりのない星だなぁ。ややっ! まさかコレは……! やはり見覚えのない星だ。ていうか知らない星の並びばっかりだ」

「……ん? 待て。他の天体から見える星図だって丸暗記って言ってた割に見覚えのない星ばっかりじゃねーか」

「ふむ……ふむふむ……よしわかった!」


 竜歩は朗らかな笑顔を浮かべ、絵ノ介に告げた。


「むしろ知らない星しかない! ここは銀河系じゃないってことがハッキリしたよ! やったね!」

「やったねじゃねーよ!」

「……ごめん。本当キツイ。冗談でも明るく言ってないと心折れそう」

「急に意気消沈すんなよ! ごめん、流石に怒鳴った俺が悪かったから!」

「おうちかえりたい」


 喋っている内にどんどん沈鬱な表情になり、ついに竜歩はしゃがんで蹲ってしまった。ニャルラトホテプですら知らない星の真っ只中ということは、彼女にとっては迷子になったも同然だろう。


「……うう……怖い。ごっさ怖い。助けて誰か」

「やめろ! お前の連想する誰かなんて全員人間にとってはロクでもないヤツばっかりだから! マジやめろ!」

「じゃあ絵ノ介くんが助けてくれる?」


 顔を上げた竜歩は、演技もなにもなしに心の底から不安そうだった。

 今まで悪行の限りを尽くして来た彼女に、絵ノ介もまったく思うところがないわけではなかったが、今の二人は同じ境遇だ。


 困っている者が目の前にいて、手を差し出さないのは不実だろう。


「……仕方ない……だろうな。それしかなさそうだ。改めて、協力関係を結んでくれるか。丹羽」

「……うん。ありがと。ちょっと気分がマシになった」


 とは言え、不安なのは絵ノ介も一緒なのだが。


 ――冥王星から見える星の並びすら知っているニャルラトホテプが知らない星ばかり、だと?


 別の世界に招待された経験はある。そのときも黒幕は丹羽竜歩だった。つまり、そのときの帰り道は竜歩が知っていた。故に家に帰ることができた。

 だが今度は違う。ニャルラトホテプすら、今回の転移に関しては心当たりがないと言う。


 一体ここはどこだと言うのだろうか。その答えを知っているのは、二人を呼んだらしき第四王女のみだった。


「さっさと目を覚ましてくれないかな。この人」

「任せて! ミ=ゴ印の気付薬があるから! これを嗅げば三週間は絶対に眠れないよ!」

「さっぱり意味がわからんが却下だ。三週間経つ前に寝不足で死ぬわ」


 どうしたものかと二人して立ち往生していると。


「ん……んん?」


 倒れた山賊の群から離れた場所で、一人だけ軽傷だった女性が起き上がった。

 一瞬絵ノ介は山賊の一味が起き上がったのかと思ったが、違う。彼女だけは服の仕立てが良い。白と黒の格調高いメイド服だ。王女ほどではないにしろ、山賊とは無関係そうだった。


 彼女は明かりの灯った方を自然と見る。そして、顔色を真っ青にして駆け寄ってきた。


「お嬢様!?」


 そんな言葉を口にして。


 ――お嬢様? 王女様じゃなくて?


 疑問に思っている内に、メイド服の女は第四王女にかけよって顔を覗き込む。

 身体を一通り調べ、特に異常がないことを確認してほっと胸を撫で下ろした。傍で様子を見ていた二人にもわかりやすく。


「怪我一つないよ。医者の私が保証する」

「……!」


 竜歩の言葉で、やっとメイド服の女は二人のことに気付いたらしい。第四王女のことだけが心配で、光源がどこかということすら考える余裕もなかったようだ。


「あなたは……?」

「ドーモ。通りすがりのスーパーヒロインです。そして第四王女の命の恩人です」


 第四王女の命を脅かした張本人でもあるのだが、絵ノ介はスルーした。

 なにせ、面倒ごとは避けたいのだ。

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