第20話 僕の叶えたかった願い



「平蔵さんとわたし・・・は幼馴染でした」


 薄暗い拝殿の内部で、ヒイロは追憶する。


「今では見る影もありませんが、昔の彼はやんちゃで好奇心旺盛な男の子だったんです。屋敷の女中にちょっかいをかけたり、資料室の本を勝手に持ち出したり、とにかく落ち着きなく町中を走り回るような人でした。わたしもよく悪戯を仕掛けられて、何度か泣かされたことだってあります」


 懐かしげな表情を見せるヒイロ。頭の中で当時の思い出が甦っているのだろう。


「彼は東田家の嫡男でしたが、農家の娘であったわたしとも仲良く接してくれました。少し素直じゃないけれど、心根はとても優しい、素敵な人だったんです。彼に許嫁いいなずけがいることを早々に知っていたから、添い遂げたいと思うことまではありませんでしたが」

「それでも、大事な人だったんだな」

「どうなんでしょうね。あの頃のわたしは、とても幼かったから」


 曖昧に言葉を濁しながら、話は続く。


「その日も今日みたいな雨模様でした。平蔵さんは使用人の目を盗んで、屋敷の中にわたしを連れ込みました。彼とわたしは、麓の公園でよく時間を忘れて語らいあうことがあったのですが、その日は特に会話が途切れなかったのです。でも、あそこで無理にでも話題を終わらせていれば、こうはならなかったのかもしれません――」


 その日が彼らにとっての分岐点だったのか。


 少女は見初められた。当代の東田家当主が、彼女を次の器に選んでしまった。


「あの資料室に入ったのならご存じだと思います。依代となる娘は、東田の次期当主が屋敷に連れ帰ってくるものとされていました。そして間の悪いことに、その日が依代を選定する日だった。わたしが神様の依代になった理由は、それだけです」


 ヒイロはそう言ったが、僕の考察は少し異なる。


 彼女には素養があったのだ。町村を見守る土地神としての素質が。


「東田平蔵は、きみが『良き眼』を持っていたから選ばれたと言っていた」


 ヒイロの眉がほんの僅かに歪む。


「それは人をよく観察し、その内面までを見ることのできる眼のことらしい。神様は、その眼が欲しかったんじゃないか? だから運命を、きみが依代に選ばれるように仕向けたんだと、僕は――」

「だとしても、詮の無いことです」


 纏う雰囲気が変わる。人から、神へと。


「八十年前、わたしは神様になりました。確かに『良き眼』は人の内面を網羅し、その過去から未来さえも見通す力を得ました。だからといって、そもそもわたしが神様になる運命だったなどとは――」

「原因と結果だけが、すべてじゃない」


 今度は僕が遮り返す番だった。


「過程だって重要なんだ。きみは八十年前の悲劇を、誰も悪くない形にしたいだけだ」

「違い、ます」

「東田平蔵は咎人だ。依代選定の因習を知っていながら、屋敷に連れ込んだ」

「違います……!」


 それはヒイロが初めて見せる、怒りの感情だった。


「平蔵さんは悪くありません。依代の素質を持つ娘を連れて来なければ、彼の御父上が彼を次期当主と認めないと言ったから。仕方なく、わたしを差し出しただけ」

「そんな仕打ちを受けても、まだきみはあいつを庇うのか」


 僕には分からない。あんな男の恣意的な願いを、叶えなければならない理由が。


 僕は憎い。ヒイロを縛りつける、陽向信仰の呪われた由縁が。


「なんで――なんできみが、消えなくちゃいけないんだ。神様として、ずっと役目を果たしてきたのに。何も悪いことなんて、していないのに」


 張り裂けるような痛みが胸に奔る。


 僕には許容できない。ヒイロが居なくなるなんて、あんまりだ――


「夜高さんは、ずるいですね」


 その言葉に顔を上げた直後。


 ヒイロの体温が、僕を包み込んだ。


「自分は消えることを望むのに、他人の話になると許してくれないんですか」


 確かに感じる、子守歌のような心臓の鼓動。


 僕はずっとこうしていたい気持ちに駆られたけれど、それも長くは続かない。


 互いの身が離れた後、ヒイロはもう意を決していた。


「わたしも、貴方と同じなんです。自分さえ居なければ解決する問題に、見て見ぬふりをすることができない。平蔵さんが自分の行いを悔いて救いを求めるのなら、わたしはそれを察して、応えなければ。そうすることが、わたし自身の救いに繋がると信じて」


 存在し続けること自体が苦痛だった。


 誰かを救うなんてのはただの口実だった。


 僕たちはいつだって自分自身を救いたかった。


 だからもう――終わらせようと思ったんだ。




 社を叩く風雨が凪いだのを見計らって拝殿を出た。だが曇天の鼠色はより濃く、黒くなっている。これは嵐の前の静けさだ。残された時間が有限であることを示す、大気の水時計。


 僕とヒイロは拝殿の裏手に回り、針葉樹の壁に沿って境内の奥へと進む。そこでは枝葉が交差するように枝垂れ掛かって、天然のアーチを作っている。神様とごく一部の町民だけが知る、秘匿された道だった。


 この先に神社の本殿がある。そしてそこには、ヒイロの御神体・・・・・・・が安置されている。


「少し、楽しい話をしましょうか」


 先行するヒイロが、突飛なことを言い出した。


「夜高さんは、失恋を経験したことがありますか」

「……それは楽しい話なのか」

「はい。わたしが楽しい話です」

「考えが邪悪だ」


 さすがは邪神といわれていただけのことはある。


 だけど、黙って歩くよりはまだそちらのほうが気分は和らぐかもしれない。


「あるよ。失恋したこと」

「へえ、あるんですね」

「……もっといい反応してくれてもよくないか?」

「いや見え透いてましたし。透け透けでしたし」


 わたしじゃなくても分かりますよ、とヒイロ。


「お相手は水瀬さんでしょう? しかも、けっこう最近まで好きだったと」

「やっぱりこの話題は僕に不利すぎると思うんだが」

「まあまあそう言わず。続けてくださいな」

「こんなことなら黙っておけばよかった……」


 仕方ない。僕はできるだけ、平静を装って話す。


「ここに来る前、東田の屋敷に鍵を返しに行ったとき」

「はい」

「水瀬に言ってやったんだよ。お幸せに、って。そうしたら一気に力が抜けて、身体が軽くなったような気がした。それでやっと過去の清算が終わったんだって分かった」


 再会したばかりの僕は、自分の痕跡を消すための機会が巡ってきたのだと思っていた。


 でも今は違う。過去の清算とは、前を向くための儀式だ。


「僕はとっくに失恋していた。でも思い出が大切すぎて、水瀬を今でも好きなんだと自己暗示してしまっていたんだ。だから、これは虚構の失恋だよ」


 清算できる過去なんてものは存在しない。生き続ける限り、何度も何度も思い出す。整理をつけられないまま、時には過去の虚像に縋って。それでも人は、前へ進む。


 過去ごと自分を消し去るなんてのは、理想論ですらない。


「虚構の失恋、ですか」


 こちらを振り返らないヒイロはいま、どんな表情をしているのか。


「わたしにもあったのかもしれませんね。大事に思うあまりに見てしまう幻のような、失恋が」

「あるよ。きみが僕と同じだというのなら」

「――だとしたら、とても素敵なことですね」


 彼女は足を止めて、こちらを振り向いた。


 頬が濡れているように見えたのは、きっと葉から滴り落ちた雫のせいだろう。


「ところで、水瀬さんは何と返事したんですか?」

「きみこそお幸せにね、って返された」

「ふふっ」


 太陽のような笑顔で、ヒイロは言う。


「それなら、絶対幸せにならないとですね。夜高さん」




 やがて鈍色の岩山に突き当たる。いくつかの大岩を迂回し接近した場所に、横からくり抜かれたような洞穴があいていた。


「ここが本殿です。東田の者には、禁足地と呼ばれています」


 文献にあった呼称と符合する。確かに神殿と呼ぶよりは禁じられた地という趣の強い場所だ。山から吹き下ろす風もあってか、まるで来訪者を拒んでいるかのようだった。


 ふと、初めて神社を訪れた日のことを思い出す。あのときも石段をのぼっているあいだ、僕は歓迎されていないのではないかと考えていた。実際はむしろ待望されていたのだから、つくづく僕の勘はあてにならない。


 岩戸をくぐり、洞穴へ。内部は傾斜の一定な下り坂になっていたが、不思議なことに奥へ進むほど明るくなっていく。最奥に辿り着くまで、その光源が何なのか見当もつかなかった。


 その正体は、琥珀色に発光する無数の鉱石。


「あれが神体――ヒイロ神の勾玉です」


 祭壇に祀られていたのは、十円硬貨ほどの大きさしかない、コの字型の磨製石器。しかしその透明度は高く、周囲の鉱石とは比にならない輝きを誇っていた。


 ヒイロはそれを手のひらに乗せると、僕のほうへと差し出す。


「これを持って、町を離れてください」

「断る」

「……やっぱり、そうなりますよね」


 当たり前だ。素直に従ったらどうなるかなんて、目に見えている。


「どうすればわたしの頼みを聞いてくれますか」

「何があっても聞かない」

「子どもみたいなこと言わないでくださいよ……」


 困ったようにヒイロは眉尻を下げる。


「拝殿での話に納得してくれたんじゃなかったんですか。わたしが消えるのは、平蔵さんにとってもわたしにとっても悲願なんです」

「そんなのは知らない。押しつけの願いなんか叶える筋合いはない」

「使命が果たされなければ夜高さんの願いも叶わないんですよ」

「じゃあ訊くけれど、きみが居なくなったら誰が僕の願いを叶えるんだ?」

「……叶いますよ、ちゃんと」


 あまりに歯切れが悪い。さらに問い詰めようとも思えない。


「もう、いいよ。叶わなくたって構わない」


 ヒイロは最初から僕に嘘をついていた。


 それでもこの十日間は無駄じゃなかった。何もかもがどうでもよくなっていた僕が、この町での出会いを通じて、前を向けるようになった。生きようと思えた。


 神様に従う理由なんて、本当はもう、どこにもない。


 けれど、それ以上に。


「僕はきみと、一緒に居たいだけなんだ」


 万感の思いを込めて、告げる。


「ヒイロは僕の太陽だった。月並みかもしれないけれど、そう思ったんだ。きみが居なくなるのは、終わらない夜を過ごさなくちゃならないみたいで、とても寂しい」

「……っ」


 あの笑顔はもう、ここにはない。在るがままの、少女が居るだけ。


「わたしだって、寂しかったですよ。今日までの三日間、会えない時間がどれだけ長く感じたか。八十年が短く感じるくらい、わたしは貴方を待ち焦がれていた」


 今にも泣きそうな声で、ヒイロは言う。


「だからこそ、貴方はこの世界から消えちゃいけない。わたしの――神様のことなんて、忘れて生きてください」




 それからの僕らは平行線だった。


 ヒイロが何度懇願しても、僕は頑として受けつけなかった。ヒイロが居なくならずに済む方法は、使命を拒み続ける以外になかったからだ。


 折れない僕を見て、ヒイロは愁いの表情を浮かべる。それから駄々をこねる子どもを宥めるような目つきで、優しく諭すようにして再び願いを告げてきた。ときには口惜しげに、あるいは憎々しげに視線を向けてくることもあった。


 僕のほうもヒイロの決意が変わるとは思っていない。だから僕は、状況が変わるきっかけが起こるのを待った。


 それは、地が裂けるような轟音だった。


 外で土砂崩れが起きたのだと、僕はすぐに察した。ここしばらくの断続的な雨と、地滑り防止のために行われていた工事から、この山の地盤が脆くなっていることは予測済みだった。


 本殿の入り口は岩戸によって閉じられている。その上から土砂が積み重なったことで微動だにしなくなり、人が脱出する隙間さえもなく塞がった。


 けれど絶望はしなかった。こうなることを望んでさえいた。


 僕の遂げるべき本懐とは、この寂しがりの神様と共に在ることだったから。




「――これが、貴方の選んだ答えなんですね」

「ああ」


 ここまでの言い争いは、ただの時間稼ぎだった。そもそも禁足地にまで辿り着いた時点で僕は勝っていた。あとは今日この日この場所で天災が起きるという予測が、事実に変わるのを待つだけ。


 願いが叶わないと知り、ヒイロはもう僕に頼みを言わなくなった。


 今はただお互いに身を寄せ合って、体温を分け合う。


「夜高さんは、わたしが会ったなかで一番ずるいひとです」

「光栄だな」

「褒めてないですよ?」

「でも、きみの一番になれるなら嬉しい」

「……そういう恰好いいこと、言うのが遅いですよ」


 照れるようにはにかんだあと、ヒイロは視線を下に落とす。


「見通せなかった。神様なのに。貴方の本心を知ることが怖くて、心の内を見て見ぬふりをしてしまった。それで、貴方にこんな企みがあることも、見逃してしまった」


 繋いだ手を通して伝わる、後悔の念。


「ねえ、夜高さん。自分の未来は暗闇だと、今でも思いますか?」

「思っているよ」


 僕は即答する。


「だけどそれは、影だったんだ。自分の足元から伸びるものに、僕は怯えていた。光源は過去だけじゃなく未来にもある。僕の場合、その光が弱すぎただけなんだ」


 目を凝らせば、暗闇の中にも光を見出せる。後ろしか見ていなかったから、進む先にある光にも気づけなかった。そして、背負い続けてきた自己否定もまた、その光によってできた影でしかなかった。


 本当の暗闇は、過去も未来もない場所にしかない。


「消えたいと願っていた。でも今の僕には、もっと大事な願いがある。それが叶うなら、これからあったかもしれない未来もすべて、僕は差し出すよ」


 僕は彼女を抱き締める。


 体温を、心を、命を――対価として、捧げるために。


「きみをひとりにしないこと。それが僕の、本当の願いだ」

「じゃあ、やっぱり願いは叶ったんじゃないですか」


 泣き笑いの声で、ヒイロが言う。


「わたしの言ってきたこと、全部が嘘じゃあなかったでしょう? 理屈がどうこうより、貴方がわたしのために頑張ってくれることが、大事で……終わりがよければ、すべてよしなんです……っ、だから――」


 ああ。


 こんなにも満たされて、いいのだろうか。


 たとえ刹那であったとしても、僕は永遠の幸福を得た。


「ありがとう、神様」


 僕らを包む琥珀色の蓄光が、ゆっくりと失われていく。


 世界が完全な闇に覆われても、僕はちっとも寂しくなかった。




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