第19話 正体
五年越しに知った解答は、僕にいくつかの閃きを授けてくれた。
東田夫妻が去ったあと、浮かんだ仮説を頼りにして史料を繋ぎ合わせていく。創作と思われる逸話を省きながらも、物証のある事象を鵜呑みにはせず他事象との比較を欠かさず行う。乏しい知識と方法を平蔵氏の独自研究で、足りない視点を科学的手法で補う。
実を言えば、こんな行為に大した意味はない。所詮は付け焼き刃で史実考証などできるはずもないのは最初から自明の理だった。
それでも時間を費やし続けたのは、僕が信じたいと思ったからだ。
原因と結果の、その中間にある過程の価値を。
東田平蔵という人物の贖罪は、決して無駄ではなかったのだということを。
「――よし」
九日目の深夜、ついに仮説の立証に足る根拠が出揃う。
俄かには信じがたい真実、というわけではない。むしろ公民館に立てこもる当初からの推察がほぼ外れていなかったことのほうが余程数奇で、信じがたかった。
ともすれば僕は、この結論を導き出すためだけに陽向町へやってきたのかもしれない。
そう思えるほどの運命的な力で、今の僕は突き動かされ続けている。
因果は確定した。すべての清算を終え、僕の遂げるべき本懐が、すぐそこにある。
そして、十日目の朝が訪れる。
ヒイロはとうとう、最後まで会いに来ることはなかった。
*
石段をひとつずつのぼっていくあいだ、僕はこの町の信仰史を振り返る。
陽向信仰が初めに奉っていたのは、
蛭子神の出自は非常に古く、古事記の国産み神話に登場する。
その後に流れ着いた先が、陽向の土地だという伝承が残っている。同様の謂れがある地域は全国各地に存在しており、そういった信仰の興り自体はありふれたものだといえる。
陽向信仰がその他の蛭子神信仰と大きく異なるのは、途中で土着の神と併合されたという点。移民が各々の信仰を持ち込み、複数の社が建てられていくうちに、それらの区別がつかなくなったという説が有力だ。何にせよ、この時点で蛭子神は元来の性質から徐々に在り方を変えていくことになる。
信仰に陽向という名がついたのは、蛭子神が昼子神と書くように変化してからのことだ。この昼子がヒルコと片仮名表記に変わり、更に崩れてヒイロとなったのが平安時代の末期。以降長い期間、ヒイロ神は独特な民俗信仰として根づき、存続していく。
転機が訪れたのは江戸時代。陽向村を中心として農村を取り仕切っていた東田家は、庄屋となったことで益々大きな支配力を持つようになる。そしてその権威を盤石にするために着手したのが、陽向信仰に関する事業だった。
初めに、蛭子と同一視されている
次に、ヒイロという名を伝説上の金属・
他にも様々な興業によって集客を狙ったが、いずれも悉く失敗に終わる。ヒイロ神は多くの神の性質を併せ持っていたため、ひとつの御利益に絞ったところで上手くいくはずもない。ましてやヒイロ神は必ずしも善なる神というわけではなく、悪神や祟り神として怖れられることすらあった。
だがそういった畏敬の念を集める神を御することで、民衆の心を掌握しようとした者が現れる。それが江戸中期の東田家当主だった。
彼が目をつけたのは、人身御供。村の若い娘を生贄に捧げるという慣習を、あろうことか当代の東田は積極的におこなった。
奇しくもそれは一時有効に働いたかのようにみえた。だがヒイロ神は邪な側面を色濃くしていき、生贄のない年には自然災害を招く邪神と成り果てる。ついには捧げられる村の娘も皆逃げるなどして居なくなってしまった。
廃村寸前まで追いやられた陽向村民と東田家は、神を鎮めるための最後の策を講じる。
それこそが――現代まで続く、ヒイロの在り方の始まりであり。
今日この日に断ち切られるべき、悲劇の因習。
僕は境内に足を踏み入れる。
「待たせたな、ヒイロ」
「遅いですよ、夜高さん」
無垢な少女の神様は、いつもと変わらない笑顔で佇む。
長い石段をのぼった先に何があるのかを、僕はもう知っていた。
*
「答えは見つかりましたか」
ヒイロの問いに、僕は首肯で応える。
神様である彼女の前で言葉を発する必要性は薄い。僕のすべては、ヒイロの眼によって等しく見通されるからだ。
なのにヒイロは、あくまで人の理屈に合わせようとする。
「教えてください。わたしに、貴方の言葉で」
「……ああ」
今から僕が話すのは、ヒイロという神様の成り立ち、だけではない。
彼女から託された、澤口夜高の使命について。
「結論から言う。〈悲哀の子〉というのは――ヒイロ、きみのことだ」
「どうして、そう思うのですか」
肯定とも否定とも取れない声色だった。僕は息を整えて、ゆっくりと述べる。
「最初に違和感を覚えたのは、きみが〈悲哀の子〉のことを詳しく語りたがらなかったところからだ。特定することだけを重要視するなら、〈悲哀の子〉が救われるのを強く望む他の誰かを、僕と引き合わせれば済む話だった。なのにきみはそうしなかった。正確にいえば、その機会をわざと遅らせた」
神前式の日。東田平蔵の懺悔を聞いた。あれは自らの犯した過ちを嘆くのみでなく、ヒイロという少女の救いを願う言葉でもあった。
その証拠に、彼が記した書には例外なく〈悲哀之嬢〉という名の人物へ向けた贖罪の文言が綴られている。それがヒイロを指していることもまた明らかだった。
「何故きみがそんな回りくどいことをしたか。初めは僕に使命を果たさせたくないからだと考えた。でもそれなら、僕を平蔵さんに会わせなければいい。きみの行為ははっきりと矛盾している。その理由を説明するために、ヒイロという神様がなにでできているか、知る必要があったんだ」
そうして突き止めた。ヒイロの成り立ちと、東田家が背負う罪を。
この真実を暴くことさえも、神の導きであると知りながら。
「目に見える神様という時点で、何かが違うと気づくべきだった。そもそも肉体を持たないはずの神様が人々に認識されるには、何が必要か。その答えが、東田家主導の人身御供――器となる肉体の提供だ」
今からちょうど二百四十年前。時の東田家当主は、荒ぶる神を鎮めるためにある提案をした。捧げられた娘の身体を依代として現世に顕現してはどうか、と。
ヒイロ神はその提案を受け入れた。基である蛭子神の、不具の子であったという曰くが有効だったのか、神自身が生まれ直すことを望んでいたのかは知るべくもない。何にせよ、ヒイロ神は生身の器を得て生き神と化した。
以後、東田家管理のもと、器は四十年おきに捧げられることとなる。東田家は繁栄を取り戻し、人の身を器としたことで神性を安定させた神は再び信仰を集めた――
「記録に残っている限りで最後に生贄が捧げられたのは、八十年前。その当時、東田平蔵はまだ十代だ。きみの依代になった少女と面識があってもおかしくはない」
ヒイロは何も言わなかった。自身の在り様を明かされているというのに、まるで意に介さない様子で瞼を閉じている。
あるいは、本当に他人事なのかもしれない。
「〈悲哀の子〉とは依代の少女のことで間違いない。けれどそれはヒイロという名前の神様とは別なんだと気がついた」
自分という存在への認識が、主観と客観で異なるように。
同じ人物が、相手によってまったく違う表情を見せるように。
ひとのかたちをした神様もまた、ふたつの側面を併せ持っている。
「この町での出会いが気づかせてくれた。人間は、矛盾する行動を簡単に選んでしまえるものなんだって。それは、きみも同じなんだ。そういうふうに在り方を定められた神様だから」
〈悲哀の子〉は他者の強い望みによって救われる。だがその救いを、依代の少女の人格は受け入れられない。相反する意思がある限り、矛盾した行為を取らざるを得なくなる。
だからこの神様は僕に使命を授けた。
他ならない自分自身を、救ってもらうために。
「正解です」
ついに、ヒイロは認めた。
「よく辿り着きましたね。貴方に託して、本当に良かった」
「それは神様としての言葉か?」
「ええ。これでようやく、彼の願いを叶えてあげられる」
ヒイロは両手を広げ、曇天の空を仰ぎ見る。すると示し合わせたかのように雨がぽつり、ぽつりと地を濡らし始めた。
この町の信仰が辿った経緯を調べれば調べるほど、ヒイロが信徒に翻弄された存在であることを理解していった。常に人からの押しつけられた認識に忠実であり続けなければならない、偶像でありながらも実体を持たされた、悲哀の神様。
彼女はその笑顔の内に、どれだけの感情を潜めてきたのだろう。
「ねえ、夜高さん」
雨粒と戯れながら、ヒイロは僕に笑いかける。
「わたしは今、とても嬉しいんです。あの人の、八十年に及ぶ苦しみが、ようやく報われる。貴方が、この地に来てくれたおかげで」
息が詰まって、何も答えられなかった。
喉の奥から酸いものが迫り上がるのを感じる。昨夜から何も入れていない胃が収縮し、鈍い痛みを訴える。冷たい雨が体温を奪い、呼吸が乱れて、足元が揺らぐ。
ヒイロを知っていくにつれ、僕には分からなくなっていった。彼女が神様の依代になったのは、東田平蔵が原因のはずだ。しかしヒイロは彼を怨まないばかりか、彼の願いが成就することを喜んでさえいる。
その願いが何なのか、知らないはずがないのに。
「夜高さん。最後の使命を、帯びていただけますか」
僕は頷くしかない。
たとえその使命が、耐えがたいものであったとしても。
「わたしを消してください。この世界から、跡形もなく」
それは、想定どおりのつまらない願いだった。
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