第18話 氷解



 ついにヒイロの姿を見ることなく、僕は民宿に戻り七日目を終えた。神社に向かうことも考えたが、心身の疲弊が重く圧し掛かっていたために断念した。


 あの場を去る前に使用人から聞いたところによれば、あの老人の名は東田平蔵というそうだ。徹郎さんの曽祖父にあたり、先々代の東田家当主だった人。だが今では、ただ何かに縋るようにして生きている。生かされている。


 あれほどまでの高齢になれば、幻覚や記憶の混濁もあるのだろう。あの様子では、身内でさえも彼を耄碌だと結論づけるに違いない。


 でも、僕にはそう言い切ることができなかった。あの懺悔を狂気の産物として記憶の隅に追いやるには、気になる言葉が多すぎる。


 捧げた時間はあと三日――僕は見えない力に引かれるようにして、東田邸の門を叩いていた。


「待ってたよ、夜高くん」


 徹郎さんはそう言って僕を迎え入れた。昨晩の宴会は二次会、三次会と続いたそうだが、その疲れを感じさせない様子に僕は少なからず驚いた。


「昨日はありがとう。おかげで助かった」

「いいえ、僕は――」


 何もしていない、と言いそうになるのを寸前で抑える。


「――僕は、できることをしただけです」

「うん。そうか」


 満足げに頷く徹郎さん。


「使用人から聞いたよ。ひい爺さんと話したんだって?」

「はい」

「はっきり言って信じられない。ひ孫の俺でも、口をきいてもらったことないのにさ」


 案内するよ、と徹郎さんは屋敷の外へと歩き出す。僕は黙ってそれを追った。


 向かった先はあの公民館だった。前に訪れたときには閉じていた倉庫の戸が、今日は僅かに開いている。徹郎さんが「一部の神具をここに仕舞ってあるんだ」と説明する。中を覗いた後に持っていた鍵で施錠した。


 公民館内に入り、徹郎さんは資料室と書かれた看板の前で立ち止まった。再び鍵を用いて戸を開錠する。長年油を差していないのか、スチールの戸は軋むような音をたててゆっくりと開かれた。


「ここには昔、分社が建っていたんだ。東田家がまだ強い権力を持っていた頃、当代の当主が町の信仰を管理するために建立したらしい。神具を仕舞う倉庫があるのはその名残」


 木の本棚が所狭しと並んだ室内は黴の臭いがきつく、息をするのも躊躇われるほどだった。それを構わず、徹郎さんは滔々と語る。


「きみも知ってのとおり、この町に土着した信仰――陽向信仰はヒイロさまを信じて奉るものだ。しかしヒイロさまは特異な成り立ちの神様だった。そこに目をつけた東田の始祖は、愚かにも神を御することを考えた」

「なんというか、スケールの大きな話ですね」

「俺も半分以上は御伽話の類いだと思っているよ。昔の賢い人が考えた権威づけに過ぎない。要は嘘で繁栄した一族なのさ、俺たちは」


 自嘲するように言って、徹郎さんが棚からひとつの冊子を取り出した。長い年月を経て劣化した紙の束は、少し触れただけで細かな粉を噴く。


「ここの蔵書は名目上、陽向町の人間だけにしか見せられないことになってる。こことは別に資料館があるが、そっちは町の外から来た観光客向けのフェイクだ」


 手渡された冊子の表紙には毛筆の字で『陽向村信仰史 其壱』と書かれている。一冊分空いた棚を見れば、同じ表題の本がずらりと並べられていた。


「これ、全部がその御伽話なんですか……?」

「俺も詳しくは知らない。事実であるかそうでないかは、この夥しい史料を時系列ごとに照らし合わせないことには分からないんだ」

「時系列ごとにって、この町の歴史は」


 東田家は江戸時代以前から続く名家。少なくとも四百年以上はあることになる。


「ひい爺さんは生涯を通して、ここに記された歴史の考証を繰り返していたそうだ。寝たきりになった今ではそれも半ばで途絶えてしまったけれど」

「そんな。ほとんどが作り話かもしれないのに」


 神にまつわる超自然的な事象を、事実と虚構とに分ける作業。


 それを一生涯続けるなんて、狂気の沙汰としか言いようがない。


「きっと、ひい爺さんにはどうしても諦められない何かがあったんだろう。正気を失ってでも叶えたい願いのために、人生のほぼすべてを費やした」


 それでも彼は報われなかった。目に見える神様が居るこの町に在りながら、願いは聞き届けられず、懺悔の念に囚われている。


 東田平蔵は何を願ったのか。そして何故、それは叶わなかったのか。


 その答えが、この場所にはある。


「ここにきみを連れてこいって言ったのは、ヒイロさまなんだ」

「そうでしたか」

「……意外には思わないんだな」

「何となく、誘導されているような気はしていましたから」


 おそらくは僕があの老人と言葉を交わしたのも、ヒイロの仕組んだことだったのだろう。あの楽観的な物言いは、こうなることを織り込んだ上で発したものだと今では分かる。


 けれど一つだけ、それだけでは納得のいかない点があった。


「あなたは、どうして昨日話したばかりの僕に、ここまでしてくれるんですか?」

「ああ、なんだ。気づいてなかったのか」


 疑念を含んだ僕の視線に、まったく動じない快男児。


「そんなのはきみが、俺の愛する人にとって特別な存在だからに決まっているだろ」


 彼は臆面もなく、そう言った。



   *



 東田平蔵が記し、纏めたとおぼしき洋紙の束が見つかった頃には、日は暮れかけ烏の鳴く声が聞こえていた。


 徹郎さんは僕に本棚の区分をひと通り説明した後、本家の用事があると言って去っていった。資料室の鍵を預けられたのにはやや面食らったが、結局は突き返すこともできずに受け取ってしまった。


 知り合ったばかりでそういう感覚はないものの、徹郎さんは昨日挙式したばかりの新郎なのだ。東田家の子息としての挨拶回りは事前に済ませたそうだが、それでもまだ果たすべき仕事が残っている。忙しさ故に、実感がないのは彼も同様らしい。


 ともあれ徹郎さんの協力を得、東田平蔵の考証を基にし、僕は一部の史料に的を絞って読み込みを始めた。残された日数を、すべて使い果たす覚悟で。


 その夜は民宿に戻る時間も惜しく、館内の事務室で休んだ。翌日それを由希さん経由で聞きつけた純二さんと珠希が、食糧を供給しにやってきた。滞在していない間の宿泊費をただで受け取るわけにはいかないという建前だったが、明らかにサービス過多だろうと思われる健康器具などの差し入れもあった。


 槙野家の他にも来訪者がいた。徹郎さんと、水瀬だ。


 夫婦揃って会うのは公民館前で遭遇して以来。僕と徹郎さんがいつの間にか交友を重ねていたのを知って、水瀬は終始複雑そうにしていた。こうなることは想定外だったのか、冷静な彼女にしては混乱しているふうでもあった。それが僕には妙に愉快に映って、少しだけ意趣返しができたような気になった。


「上手な鉄砲も数撃ちゃ外す、か」

「何よそれ、また皮肉?」

「そう感じるということは、心当たりがあるんだよな」


 顔をしかめる水瀬に、僕は追い打ちをかける。この機会を逃したら、おそらく二度と言えなくなるという予感があった。


「僕は隠し事をするのが下手くそらしい」

「はあ」

「言動が不自然なんだってさ。わざわざ強調しなくていいことを強調したり、大袈裟に言ってしまったり。意識しないようにするあまり、逆に目立つってことらしい」

「それで何が言いたいの?」

「きみも同じだ。忘れっぽい、なんて嘘だろ。五年経っても、僕なんかのことをひと目で思い出せたのに」


 ――意外に思われるかもしれないけれど、わたしは忘れっぽいの――


 あのときは動揺していて咎められなかった。冷静になって思い返せば、ノートのことも虚勢だったと気がつく。そこから先の言葉にも、信頼性が欠ける。


 僕は彼女にとって、分岐点の象徴だった。他と同じように、等しく嫌うこともできなかった。それはもう、特別な存在だといってもいいはず。


 だからこそ、この役割を果たすのに僕以上の適役はいない。


「まだ、諦めてないんだろ。イラストレーターになる夢を」


 嫌われ役として、僕はもう一度選択肢を提示する。


 水瀬の表情が固まる。視線が徹郎さんのほうに向いたけれど、彼は深く頷くのみだった。


「……ふぅん、そう。秘密だったのに、喋っちゃったんだ」


 やっとのことで、水瀬は言った。


「別にいいよ。昔のことをいつまでも引っ張るつもりはないから。夢のこともそう。わたしは結婚して、不安定な夢よりも現実を選んだんだから――」

「それは違うぞ、唯衣」


 遮ったのは徹郎さんだった。


「結婚したからって、やりたいことを棄てるなんて間違ってる」

「……っ、でもわたし、中途半端は嫌なの。あなたの妻になるんだから、ちゃんとそれに、集中しないとって」

「ははっ」


 笑った。まさかの、このタイミングで。


「唯衣は夜高くんが絡むと途端に不器用になるよな」

「そっ、そんなことっ」

「繕わなくなって、分かりやすくなる。夜高くんは、こんな唯衣を独り占めしてきたんだな」


 やっぱ嫉妬しちまうよ、と徹郎さんは小さく洩らした。


 それから息を吸って、よく通る声で語りかける。


「いいか、唯衣。良妻でありたいっていうきみの気持ちは、夫としてはすごく嬉しい。だけど、それじゃあまるで俺のせいで夢を諦めるみたいに聞こえてしまうんだ。そんな理由で現実を選ばれてしまったら、俺はきみのパートナーとして、自信をなくすよ」


 思いがけず胸の奥から押し寄せたのは、目が眩むほどの共感だった。


 僕も同じだ。自分のせいで唯衣が夢を諦めたかもしれないと、ずっと思っていた。


 けれど徹郎さんはそれを見過ごさない。


「俺をもっと頼ってくれ。何でも自分で抱え込まないでくれ」


 自らのために、大事な人へ重荷を背負わせたりはしない。


「きみはもう、独りじゃないんだ」


 その言葉が、水瀬を救うための答えだった。


 氷が融けたようにこみ上げる涙を、彼女はもう隠そうとしない。代わりに隣で支えてくれる人がいるから。


 そうして水瀬の救世主とくべつになった彼を――僕のほうこそ羨ましいと、そう思った。

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