第17話 生き死にの過程
東田徹郎がどういう人物であるか、というのは僕にとってそれほど重要な情報ではない。水瀬が生涯の夫として選び、誓いまで立てた男だ。さぞかし僕とは正反対の好漢なんだろうと勝手に思っていた。
だが蓋を開けてみると、その想像の遥か上だった。
「夜高くん、あのときは済まなかった!」
炊事場の外壁から離れ、母屋とは別の建物に入った後で、徹郎さんは台風も斯くやという勢いでこうべを垂れた。
「あのときって……公民館前でのあれですか?」
「そうだ。きみの姿を見た唯衣が珍しく感情を露わにしていたから、つい睨んでしまったんだ。あれは本当に申し訳なかった」
「そんなことのために披露宴を抜けてきたんですか」
開いた口が塞がらない。今日の自分がどういう立場なのか、分かっていないはずがないだろうに。
「なぁに、神前で誓詞さえ奏上してしまえば、あとはただのお祭り騒ぎさ。俺と唯衣の役目は終わったと言ってもいい」
快活に笑い、徹郎さんは羽織の袖をまくりあげる。
「堅苦しいところとそうでないところにメリハリがあるのが我が家の良い点だな。悪い点は、そもそも堅苦しいところがあるという点だが」
「水瀬……唯衣さんはうまくやっていけそうですか」
「ははは、心配してくれるんだな。ありがとう」
珠希が言っていたように彼は優しい男なのだろう。ほんの少し言葉を交わしただけで性格の良さがありありと伝わる人に、僕はかつて出会ったことがない。
しかし人柄が良すぎて、どうにも調子が狂う。これはこれで、彼も苦労しているのかもしれない。
「昨日、家政婦の槙野さんからきみのことを聞いた」
改まった口調で、徹郎さんは話す。
「正直驚いた。ヒイロさまの信徒だという話は耳に入っていたけれど、槙野さんにとってきみは恩人らしい。どこか暗かった娘に心を開かせてくれた、良い影響を与えてくれたと彼女は言っていた」
それは違う、と言いかけて口を噤む。僕は大それたことを何もしていないし、ヒイロからの使命がなければ見向きしていたかどうかも怪しい。そう正直に伝えたところでこの人は評価を翻したりはしないという予感がした。
「唯衣には、昔の同級生だとしか教えられていなかった。だが何か因縁があるだろうということはすぐに分かった。彼女は嘘を隠すのは得意だけれど、わりと連発するきらいがあるから。上手な鉄砲も数撃ちゃ外す、って感じだな」
「その表現、すごく的を射ていると思います」
「ははっ、分かってくれるか。さすがは唯衣の友人だ」
楽しそうな顔をして、彼は話を続ける。
「ヒイロさまにきみの参列を頼んだの、実は俺なんだ。代わりにいくらか賽銭をねだられたけれど、何か事情があったようだから快く納めさせていただいたよ」
「……それはたぶん、僕の滞在費用だと思います。彼女は参列をアルバイトと称していたので」
「あっはっは! そりゃまた洒落た呼び方だ」
「すみません……」
「謝ることじゃないさ。おかげで唯衣の面目も守れたんだから、俺は満足してるよ」
「面目?」
「唯衣は誰も友人を招待しなかったんだ。空いた枠をそのままにして、何か嫌味を言われるのは俺が我慢ならなかった。だから夜高くんに来てもらえて、助かった」
そしてまた頭を下げる徹郎さん。僕に何かしらの罪悪感を覚えているのではないかと思うほど、深い謝意にあふれていた。
それを受けて、僕の脳裏には疑問が浮かぶ。気後れする心に逆らってでも、どうしようもなく訊きたいと思える疑問が。
「そこまでのことを、僕はしたんでしょうか。ただそこにいただけの――いや、そこにいたことさえも他者に導かれただけにすぎない、こんな僕が感謝される道理なんて、ないと思うんです」
「……俺にも、うまく答えられそうにないけれど」
じっくりと言葉を選んでいるのが伝わる、静かな間。
「理由は色々あると思うんだ。社会的な意義とか、与えられた役割の遂行とか。だが何かを行うというのは、結果を残すこととイコールでは結べない。仮に何もしなかったとしても、その場にいたという事実は必ず結果に繋がる過程になる。因果関係だけですべてが成り立つわけではないんだよ。だから、今は道理がないように感じることだって、いつかは納得のいく理由を得られるはずだ」
因果関係がすべてじゃない。その過程にも、意味がある。
僕は分かっているようで分かっていなかった。原因と結果の、その中間にある過程を蔑ろにしてきた。
だからこんなに、つらかったのだと。
ようやく僕は、思い知った。
「そうは言っても、俺が夜高くんに引け目があるのにはきちんとした理由があるんだけれどな」
感謝や罪悪感ではなく、引け目という言葉を用いる徹郎さん。
「俺は夜高くんに嫉妬しているんだよ」
「嫉妬?」
「ああ。学生時代の唯衣と心を通わせていたなんて、羨ましくてしょうがないのさ」
そう言って彼は、まるで悪戯を白状する子どものような顔で笑うのだった。
*
新郎の姿が見えないことに気づいた使用人が迎えに来るまで、徹郎さんは根掘り葉掘りと水瀬の高校時代について知りたがった。当たり障りなく答えられる内容はあっという間に出尽くしたため、自然と僕は彼女とのあいだにある思い出を洗いざらい話す流れになってしまった。後から考えれば徹郎さんが一番聞きたいのはその話だっただろうから、遅かれ早かれ明かすことになるのはほとんど確定事項だったのかもしれない。
他には話すなと言われた秘密だけれど、既に珠希には喋ってしまっているからか僕の口は随分と軽かった。水瀬の前では誰にも話していないと偽ったこともあり、次に彼女と顔を合わせるのがいよいよ億劫になってくる。
僕は水瀬が知られたくない秘密を、よりにもよってあからさまに隠したであろう相手に話した。今度こそ本気で嫌われてもしょうがないことをしたな、と思う。
でも、水瀬の危惧するようなことには決してならない。何しろ徹郎さんは、他でもない水瀬の選んだ人なのだから。水瀬にとっての救世主になれる存在なのだから。
きっと、そのくらいの保証はしてもいいはずだ。
披露宴は太陽が沈むまで続いた。というより宴もたけなわのひと言で終わる雰囲気にもならず、場所を変えての二次会へと持ち越すことになったようだ。宴会に参列した近隣住民たちがぞろぞろと移動していくのを見送ったのち、大座敷の片づけを手伝った。
祭壇に置かれた神具を運びつつ、ヒイロの姿が見当たらないことに気がつく。式が始まって以降は祭壇から離れられないはずだったが、参列者が去り神座もない今、どこで何をしているのだろうか。
白無垢のままで歩き回っていたとしたらすぐに気づくはず。別の部屋に移動してから着替えて(そもそも「着替える」行為を経てあの恰好になったのかは分からないが)、どこかで暇を持て余しているというのが一番有り得る線だった。
だが、最後の神具を運び終えた頃になってもヒイロは現れなかった。
僕は少なからず焦る。これまでは居場所がいつもはっきりしていた。神社に行けば拝殿の傍で佇んでいたし、それ以外の場所でも会おうと思えば会えた。なのに今は、屋敷の中を手当たり次第に探し回っても会うことができない。
彼女は神様だ。心配する必要はない。そのはずなのに。
日中に盗み聞いた会話の内容が、僕を逸らせる。
「ヒイロ――」
疑惑は確信に変わりかけていた。ヒイロは、おそらくとても重要なことを僕に隠している。
なぜ? という気持ちは湧かない。出会ったときから何かをひた隠しにしているような感じがあったし、あの笑顔はそういう笑顔だった。
母や姉ので散々見慣れた、つらいことを隠すときの笑顔。
僕にはそれが、愛おしくてしょうがなかった。
だから僕は最期に、あの神様に尽くそうと決めたのに。
「ヒイロ――!」
――その部屋は、甘い御香の匂いで満ちていた。
屋敷の中でもとりわけ調度品が少なく、照明も小さな白熱灯のあかりしかない。手狭な空間の中央には菫色の布団が敷かれており、そこには老人が仰向けになっていた。
まず感じたのは、それが生きた人間であるということ。そして、身動きする様子は見られないが眠ってもいないということ。それらを感じ取れたのは、時の止まったような静寂がこの部屋に充満していたからだ。
踏み入ってはいけない場所に来た、というのは明らかだった。早々に立ち去るべきだとも思った。なのに僕は、不可思議な縁を老人に感じていた。
「……貴方は」
そう言ったのは僕か、それとも老人のほうか。
「ヒイロのことを、存じておるのか」
そこまで聞いてようやく、それが老人の発するしわがれた声であることを理解した。僕は開けた障子戸を一旦閉じてから、布団の傍へ着座する。
もしも、この対面が偶然でないのだとしたら、僕は答えなくてはならない。
「はい。僕は、ヒイロの信徒です」
「嗚呼、そうか……お主が、彼女の言っていた男、か……」
瞼が僅かに動き、老人の目が開かれる。
「
枕元まで近づくと、老人は震える瞼をさらに持ち上げて僕の顔を凝視した。それから十数秒ののち、ふっと瞼を下ろして目を塞ぐ。
「やはり、儂には、善し悪しまでは、分からんな」
その声は途切れながらも、強い意気をもって発せられていた。さらに横たわった体勢でありながら、ただならない威容も放っている。
こちらから問うことはかなわない。僕にできるのは、注意深く耳を傾けることだけ。
「ヒイロは、良き眼を持っておった。貌を見れば、その者の心が判る。しかし、内面が見えたとて、彼女は分け隔てなく、人と接した。――それ故に、彼女は選ばれた」
息を呑む。老人の声色が、悲痛に歪み始める。
「お、おおお……済まない、済まない、ヒイロよ……儂が、儂があのとき、屋敷に連れ込まねば、お主は……永劫を過ごすことなど、なかったというのに」
閉じた瞼の端から大粒の涙を流し、老人は呻きをあげる。うわ言のようにヒイロ、ヒイロと呟きながら、悶え苦しんで首を振る。
僕は人を呼ぼうとした。だがそれよりも先に奥の障子戸が開き、使用人が現れる。その到着の速さは、戸の向こうで控えていたとしか考えられない。こうなることが予期されていたかのような素早い医療処置が、目の前で施されていく。
「済まない……済まない……済まない……――」
老人が多量の喀血をするまで、その懺悔は止むことがなかった。
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