第16話 神前の誓い
神事に際してアルバイトを雇うというのは不敬なのではないかと初めこそ思ったが、よくよく考えれば正月の神社には日雇いの巫女が大量発生するので、さして問題にはならないのだろうという結論に達した。
そもそもの話、願いを叶えるために対価として時間を差し出している僕は、ある意味でパートタイマーと言えなくもない。雇い主があれなので実感はしづらいが、現実的な話でいえばこれは紛うことなき労働契約なのだった。
というわけで、神前式当日。
僕は新婦側の友人として、大座敷の末端に席を置いていた。
「これはバイトにさせちゃ駄目なやつだろ」
もう言葉にせざるを得なかった。隣で五十半ばくらいの男性がぎょっとした目でこちらを見ていたが、それも気にならない。座布団と足打ち
とはいえ、バイトであろうとこの人選は関係者という意味で間違いではないのだ。むしろこれは僕にしかできない適役。そこだけ切り取れば喜ばしいことだが、はっきり言って後が怖い。水瀬にどんな恨み言をいわれるかと思うと、今すぐ東田邸を出ていきたい気持ちでいっぱいだった。
それができないのは、言わずもがなヒイロの信徒という立場があるからだ。僕がここに参列しているのは、新婦と神様との仲立人としての側面が大きい。
前日のうちにヒイロから説明を受けたところによれば、僕の役割はただ新婦側の席で座っていればいいとのことだった。特別なことはしないのかと訊いてみると、ヒイロはにこにこ笑顔で「そのときになってからのお楽しみです」と言った。
いや全然楽しみにはできないんだけれど。
どうせ御神酒を飲まされるとかそんなのに決まっている。
他の参列者は皆が顔見知りの近隣住民というのも相まって、外様というより腫物のような扱いを受けている。大座敷の雰囲気は賑やかなだけに、僕にとってのみ居心地の悪さが極まっていた。
とにかくこの婚儀が一刻も早く終わることを祈りながら待つこと、数分。横笛の音とともに、新郎新婦とその親族一同の成す行列が現れる。
僕の視線は、白無垢に身を包んだ水瀬へと吸い寄せられていた。
すべてが純白の衣裳は、何物にも染まっていない花嫁の無垢さを象徴する。けれど僕から見たそれは、目映いほどに気高く、何ものも寄せつけない貴き白だった。
主役の登場を境にして、式場の空気は途端に厳粛なものへと切り替わる。歓談していた参列者たちは忽ち居住まいを正し、行列の進行を目で追う。一歩ずつ、畳を踏み締めるようにして、行列は座敷の奥――祭壇の前へと至った。
祭壇の傍で待機していた
事前に聞いていたとおりに滞りなく進む儀式。
「此方への参進、ご苦労でした」
祭壇は
彼女がいつの間に台座に現れたのか、僕を含めすべての参列者が気づかなかったはずだ。だがあの台座にヒイロが居たということは、婚儀が始まった時点で皆が知っている。
それを神様の理屈で言うなら――神座の在る所に、神は在るということ。
「では、三々九度を」
ヒイロの眼前で、厳かに儀式は進行する。
かつてのクラスメイトと、町を見守る少女の神様。白無垢と白無垢が並ぶ婚儀は異様だったが、それ以上に彼女たちの華やかな姿が僕の網膜にはっきりと焼きつく。
巫女が運んできた朱漆の盃に、三度に分けて注がれる御神酒。新郎新婦がそれを交わすことで、神前での契りは結ばれる。
つまりこれは、誓いの口づけ。
御神酒を飲み乾した水瀬の頬が、僅かに赤く染まるのを僕は見た。
*
婚儀が終わったのは正午過ぎ。集合写真の撮影の後は、披露宴とは名ばかりの大酒宴が催された。喧騒の中、僕がその場を抜けるのは九九の計算よりも容易いことだった。
近辺の住民が皆屋敷で酒盛りをしていることから、外に出てみれば元日の朝のように静かだ。空は祝い事に相応しい快晴。庭に咲いた梅の花が、春の到来を予期させる。その香りを吸い込むうちに、ふと敷地の中を散策したい気持ちが湧く。
立派な式だった、と思う。
僕の目から見ても、水瀬は美しかった。着飾った衣裳だけじゃなく、精神性までもが潔白であると感じさせる、堂々とした花嫁の姿だった。
結婚式に出席したことなんて、物心ついた頃に行った親戚の式くらいしかない。それとは比べないにしろ、こんなに壮麗な婚儀はなかなかないだろう。それだけ大きな挙式で主役を務めてみせた水瀬は、本当に立派だったと思う。
なんてことを考えながら歩いていると、何もないところで躓いた。頭もさっきからくらくらするし、視点もうまく定まらない。御神酒の匂いだけで酔いが回ってしまったのだろうか。それともこれが場酔いというやつなのか。
屋敷の陰で立ち止まり、少し休む。背中を預けた土壁の表面が剥がれ、純二さんから借りた背広を汚してしまう。
洗って返さないといけないと思いつつ、それだけの猶予が僕に残されているのかと自問自答する。今日を含めてあと四日の間に〈悲哀の子〉を救わなければ、僕の捧げた時間は願いを叶える対価として認められないかもしれない。ここまで来てそうなることだけは避けたかった。
けれど、いい加減僕も気づいていた。ヒイロが僕の願い――過去から現在にかけての僕の存在の消失――を叶えないでいようと画策していることを。
そのために、アルバイトと称して神前式に参列させた。因縁ある水瀬の晴れ姿を間近で見せて、気が変わることを期待した。確かにそれは、僕の決心を揺るがせる材料として充分な効力を持っていた。
僕にも、自分がはっきりと決意できているかは不明瞭だ。考えないようにしている、と言ったほうが正しいかもしれない。
何もかもに疲れて、何もかもがどうでもよくなった。
元からこの旅は、そういう旅だったのだから。
心拍数が落ち着き始めたとき、頭上の小窓から話し声が聞こえてきた。
「宴会となると炊事場は大忙しねえ」
「覚悟はしていたけれど目が回りそうだわ」
雑談する女性の声が二つ。水の流れる音と食器の当たる音も一緒に洩れ聞こえる。会話の内容からすると、どちらも家政婦だろうか。僕は条件反射で息を潜める。
「それにしても唯衣さん、綺麗だったわねえ」
「徹郎坊ちゃんの奥方なのだから、あれくらいでないと釣り合わないわ」
「そんなこと言って本当は気に入っているくせに。唯衣さんのこと」
「べ、べつに気に入ってなんかないわよ」
思わずくすっと笑ってしまった。なんだかんだで、水瀬は上手くやっているらしい。
水瀬の外交力、求心力の高さは僕も知るところだ。でも同時に自分を隠すことにも長けすぎていたから、この見知らぬ地でも神経を擦り減らしていないかと心配だった。彼女からすれば余計なお世話だろうし、何様だと言われることも容易に想像できるけれど。
やはり僕にとっての水瀬は、とても大事な存在だ。たとえ彼女から疎んじられ、憎まれたとしても、僕は水瀬を格別に思う。別の男と誓い合っても、それは変わらない。
執着ではない。土倉でのやり取りで、きちんと心の整理はついている。
僕が、水瀬にしてやれることは何一つないのだと、納得できている。
「ところで、あのことなんだけど」
声調が変わり、僕は再び耳をそばだてる。
「ヒイロさまが連れてきた信徒の人」
「あぁ、あの暗い雰囲気の」
「唯衣さんの元同級生らしいじゃない。本当かしら」
「彼以外に唯衣さんの友人がいなかったのも不自然よね」
「やっぱり何か怪しいわよ。ヒイロさまも彼が来てから、様子がおかしいし」
「それも仕方ないのかもしれないわね。何しろ今年は――」
集中して聞き取れたのはそこまでだった。壁伝いに忍び寄ってきたその人物に、僕が気づいたのは肩を掴まれるほどの距離まで接近されてからだ。
声をあげずにいられたのは奇跡といってもいい。紋付羽織袴を着た長身の男性は、動揺する僕の目をしっかりと見ながら言った。
「よっ、夜高くん。少し話をしないか?」
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