第五章 現実逃避の行く末に

第15話 神様の言うことは、絶対



 ひと通りの家事を手伝わされ、逃げるように境内を訪れるも、ヒイロは不在だった。


 昨日言われていたとおりなら、今頃ヒイロは東田家の屋敷で婚儀前日の礼式を執り行っているはずだ。具体的な所要時間は聞いていなかったため、お昼時であれば戻ってきているだろうと思っていたのだが、当ては外れた。


 じっとしていても身体が冷えるばかりなので、拝殿の脇を抜けて裏手に出る。ヒイロの夜の姿を思い出しながら、火の点いていない灯籠の間を通る。だがそこから先は立ち並ぶ針葉樹林が壁になっており、また険しい斜面が続いていることから、これより奥へは進めないのは素人目にも明らかだった。


 ふと、考える。


 神社とは本来、拝殿とは別に本殿があるのではなかっただろうか。参拝者が拝礼をするのは拝殿だけれど、境内のさらに奥には御神体を置く社殿があるはず。なのにこの神社にはそれがない。


 ヒイロという目に見える神様が居る神社に、本殿が不要という発想は分かる。でもそれならむしろ神様の寝泊まりする場所として重要な位置づけになるのではないか。さらに言えば拝殿の内部も、神様が寝床にしているようには見えなかった。


 神様の理屈を推し測ることに意味はない――だが頭では理解していながら、心がささくれ立つような引っ掛かりを覚える。


 何か見落としていたものに、僕は気づきかけていた。


「いつにも増して難しい顔ですね、夜高さん」


 不意に掛けられた声に、はっとして顔を上げる。


 左手に風呂敷の包みを携えたヒイロが、にこやかに微笑んでいた。


「そろそろ滞在資金も底を尽きかけてきた頃ですか?」

「何故それを。まさか僕の財布から万札を抜いたのはきみか」

「油断しているほうが悪いですよ、ふふ」


 軽口を言い合うけれど、内心では距離感が掴めずに落ち着かない。ヒイロとの交流を続けるたび、僕にとってのヒイロが目まぐるしく変わる。一昨日の夜からそれは顕著だった。


 どうやら僕はこの歳で、女の子の手に触れたくらいで動揺する程度には純朴だったらしい。そう思うと恥ずかしくて笑えてきた。


「うわ、いきなり笑わないでください。そんなに面白かったですか今の冗談」

「きみにそれを言われるとは」

「わたしだって意味なく急に笑ったりはしませんってば」


 ヒイロが風呂敷を広げると、現れたのは二段の重箱だった。中身は一方がバリエーション豊かな山菜の盛り合わせで、もう一方には海苔の巻かれた円筒状のおにぎりがぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。


「ひゃあ、美味しそう!」


 素っ頓狂な声を上げるヒイロ。重箱と一緒に包まれていたおしぼりで手を拭くと、おにぎりを鷲掴んでむしゃむしゃと食べ始めた。その勢いは相変わらず神様の威厳の欠片もなく、外見よりもなお幼い育ち盛りといったありさまだった。


「こういうところは、まるっきり子どもなのにな」

「なにかおっひゃいまひた?」

「喋るときは口に食べ物を……詰め込み過ぎじゃないか?」


 見ると齧歯類のごとく頬が膨らんでいた。漫画か。


「はふ、くひがふははっへくちがふさがっていひがいきが……」

「ほら見たことか。茶は買ってきてあるから、これ飲んで」

あひがほうありがとうごはいはふございます


 ペットボトルの緑茶で米を押し込むヒイロ。いよいよこの少女に願いを託してもいいものか真剣に悩み始めている自分がいたが、見なかったことにする。


「ぷはぁ、死ぬかと思いました」

「神様が窒息して死ぬか」

「比喩表現ですよ」


 神は死にません――と、以前にも聞いたやり取り。


 だが前と違って僕は、そこに自嘲的な響きが交じっていることに気がつく。


「なあ、きみは――」

「あっこれ美味しいですよ! ふきのとうの天ぷら!」


 話を振ろうとしてもヒイロは食事に夢中だった。手当たり次第におかずを口に入れていく彼女を見て、僕も空腹を思い出す。重箱に備えつけられた割り箸を一膳貰い、天ぷらを頂く。あらかじめ振りかけられた味塩と、旬の山菜の歯応えが食欲を刺激した。


「確かに美味しいな」

「でしょー? 由希ゆきさんの作った料理にはずれはありませんからね」

「かなりの料理上手なんだな。その由希さんって人」

「おや。その言い方、ご存じないんですか?」


 ヒイロがにやりと口元を持ち上げる。


「由希さんは槙野純二さんの奥様ですよ。民宿マキノだけでなく、東田の料理番もしているすごい人なんです」


 まるで自分のことのように誇らしげなヒイロ。これは随分餌付けされているな、と微妙に心配になる。


 それにしても、言われてみればこの味付けは民宿で食べていたものとよく似ている。おそらくは東田邸で食べたおにぎりも、由希さんとやらが作ったものだったのだろう。家政婦がこの腕前では、水瀬が料理事に戦々恐々としているのも納得がいくような気がした。


 それからしばらくは食事に集中し、重箱を空にした。僕が割り箸に付属していた爪楊枝を取り出すと、ヒイロも倣って口に咥える。


「食後の一服みたいで恰好いいですよね、これ」


 大人に憧れる子どものような言動。ヒイロがそういう性格なのは理解しつつあった僕は、白いため息をたばこの煙代わりに空へ吐き出した。


「あのさ、ヒイロ」

「なんでしょう夜高さん」

「珠希は〈悲哀の子〉じゃないのか?」

「はい」


 淡々とした返答だった。


「何となくそうじゃないかとは思っていたんだ」


 ヒイロは一度も『槙野珠希が〈悲哀の子〉である』とは言わなかった。


 確かに珠希は救われるべき子どもで、当人の願いと関係者である父親の望みとの間には齟齬があった。けれど、まったく周囲に助けを求めていないわけではなかった。その一点だけが〈悲哀の子〉の定義と符合しない。


 つまり僕の使命はまだ終わっていないということだ。


「冷静ですね。さすがは夜高さん」


 ヒイロの称賛はいささか皮肉じみていた。僕に対しても、ヒイロ自身にとっても。


「〈悲哀の子〉が誰なのか、わたしには答え合わせをすることしかできません。ほとんど貴方の力になれないことを、申し訳なく思います」

「いいよ、分かってる。神様の理屈にけちはつけない」


 それに使命ではなかったとしても、珠希の抱える問題が解決する兆しが見えただけで、僕にとっては意味があった。何かができたわけじゃなかったとしても、だ。


 僕は救いについて難しく考えすぎていた。そのことに気づけたのは、大きな進歩だろう。


「でもこれで振り出しだな……期限も残り半分しかないし、どうしたもんか」

「焦らなくても、きっと大丈夫ですよ」


 ヒイロは爪楊枝を唇に挟んで弄ぶ。楽観した様子に説得力はないが、気休めでも僕にはありがたかった。


 何より神様の言うことは、信じなければ始まらない。


「時に夜高さん、これは現実的な話なのですが」

「神様がいきなり現実的な話をするのか」

「茶化さないでくださいよ、もー」

「はいはい。で、何の話?」

「滞在資金問題解決についての話です」

「おお」


 掛け値なく現実的な話に感嘆する。


 だが、その次に続く文言が問題だった。


「わたしと一緒にアルバイトをしましょう」

「…………はい?」


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