第14話 僕の得られなかった温もり



 消え去るための旅に出たきっかけは、父の来訪だった。


 学生アパートに寄宿して三年目の冬を迎えた頃のこと。夜勤のアルバイトから帰宅すると、部屋の前に薄汚れた身なりの男が立っていた。最初はそれが自分の父親であると気づけなかった。元々体格に恵まれなかった父は、ますます痩せ細って別人のように頬をこけさせていた。


 事前に連絡も寄越さずに何をしにきたのかと父に問えば、夜高の顔を見たくなっただけだよ、と答える。当然僕は訝しんだが、ここまでやってくるのにかかる交通費を鑑みれば金銭関係の目的ではないだろう、と一旦は信じることにした。


 部屋の中に招き入れてどんな会話をしたかはよく覚えていない。ただし頭の中で何度も唱えた言葉だけは今でもはっきり刻まれている。


『あんたさえいなければ』


 その頃の僕は企業のインターンシップに参加しながら、来年度の就活に向けた貯蓄を始めていた。日々神経を擦り減らしていた時期であるとともに、自分の将来像を考えざるを得ない時期でもあった。


 まだ具体的な目標の定まらない僕が、インターン先の社員から下された評価は厳しいものだった。貴方には夢がない。こうしたい、という熱意がまったく認められない――そのとおりだと頷くことしかできなかった。そんな意欲は、とっくの前に枯らせていたから。


『あんたさえいなければ』


 僕には未来が真っ黒な闇に見える。未来について考えることは、二度と引き返せないうろ・・に足を踏み入れるような、とてつもない恐怖感が伴った。


 それは時として、僕に生まれたことを後悔させた。現世に生を受け、未来を与えられた時点で、この恐怖は不可避のものになったのだ。いつか命を全うする日まで、漆黒の海洋で溺れ続けなければならない。


 どうして僕は生まれてきてしまったんだ。


『あんたさえいなければ』


 父さえいなければ、僕が生まれることもなかった。母が身体を壊すまで苦労する必要もなかった。だけど――姉が生まれないことは、それらよりも耐え難い。先日、姉から愛する人と婚約したと連絡を受けたばかりだ。苦節の末にようやく掴んだ幸せを、なかったことにはしたくない。


 それなら、誰が居なくなればいいかは決まっている。


あんたじぶんさえいなければ』


 人を呪わば穴二つ。


 目の前で床に頭を擦りつけて土下座する父を見て、今更のように行き当たる。


 僕にはこの人の血が色濃く流れている。無様で愚かな、救いようのない血が。


 だからもう、終わりにすればいい。


 父と同じように、現実から逃避して。



   *



 二階まで聞こえるほどに大きな音がして、僕は意識を現在に戻す。聞き間違いでなければ、それは平手打ちの音だった。


 いてもたっても居られず、一階へとおりる。廊下から聞こえる声は純二さんのものだった。しかしそれは普段の穏和な声ではなく、強く叱責するような声色を帯びている。


「どうして今まで黙っていたんだ……!」


 柱越しに垣間見えた珠希はこちらに背を向け、左頬を押さえたままで微動だにしない。


「向こうの親御さんから連絡があった。これまでにも似たようなことをされていたんだってな。仲間はずれや、暴力なんかを」

「……今日のは、俺が悪かったんだ」

「そんなわけないだろう! 男がよってたかって、女の子を蹴飛ばすなんて」


 顕わになった怒りは、娘に害を加えた者たちへ向けられていた。親ならば自分の子が傷つけられれば激昂するということを、さしもの僕でも想像はつく。


 だが、違うんだ。珠希が欲しいのは、それじゃない。


「本当に、俺が悪かったんだ」


 もう一度、正しい事実を伝えるようにして珠希は言う。達観しているからこその、至極感情の乗らないトーンで、ゆっくりと。


「女の恰好で学校に行けば、良いほうに変われると思った。そりゃあすぐには違和感なくってわけにはいかないけど、やっぱり俺は、男じゃないし。心だって別に、男になりたいってこともないし。父さんはどう思ってたか、知らないけどさ」


 純二さんはただ黙って耳を傾けていた。珠希は息継ぎを挟み、続ける。


「でも、身体が変わっていくことは、それとは別なんだ。ずっとつるんできたあいつらと、全然違う身体になっていくのは、すごく嫌だった。だから俺は、身体が変わっても友達でいられるようにって、思って、たのに」


 そこから先は声にならなかった。


 相対する純二さんの顔に浮かんでいたのは、戸惑いだった。娘のことが分からないと言った彼は、ますます自らの無理解を知る。


 しかし、それでも父は、俯く娘を抱きしめた。


「何も聞いてやれなくて、気づいてやれなくて、すまなかった。お前なら大丈夫だと放任しっぱなしで、私は」


 それは月並みな言葉で、この場に相応しい台詞だとはいえなかった。


 純二さんが以前打ち明けた焦燥は、娘の抱える問題に親としての解答を探していたからだ。そのうえ的外れな見解で、堂々巡りに時間を費やしていた。問題の解決を第一に望むのなら、形振なりふり構っている場合ではないはずだろう。あのときの僕はそう思い、憤りを胸にしまい込んだ。


 けれど今は違う。純二さんはもう理解している。我が子が何を迷い、隠してきたか。それに気づいたなら、距離感を測る必要なんてない。


「ありがとう、父さん」


 珠希の淡々とした言葉遣いは、決して感情の起伏に乏しいというわけではない。注意深く聞いていれば、それは優しさや臆病さの入り混じった声のようにも感じられる。


「分かってくれて、ありがとう」


 この不器用な親子は、まだ何も解決できていないのかもしれない。


 だからこそ彼らの未来は明るいのだと、僕は願わずにはいられなかった。



   *



 翌日、三人の少年が揃って保護者とともにやってきた。


 あの麓の公園で珠希を取り囲んだ少年たちは、大人たちの環視のもとでこれまでの行いを反省する旨を告げた。その中には彼らを許すかどうかは珠希に委ねるということも含まれていた。おそらくは昨日のうちに各家庭で話し合いがなされたのだろう。とにかく慎重に、子どもたちの謝罪は行われた。


 珠希と純二さんもまた、この件をどういうふうに受け止めるか話し合っていた。珠希は自分にも落ち度があるという認識だった。純二さんはその意思を尊重して、珠希にも少年たちへ謝罪することを許可した。


 それは彼らや彼らの保護者たちにとって意外なことだったのか、途中から何やらおかしな雰囲気になっていた感じは否めない。まだ仲直りとまではいかないまでも、双方にあった思い違いはまもなく解消される兆しをみせていた。


 僕はというと、一部始終を二階の窓から見守っていた。詳しい会話の内容を知ったのは、少年たちが帰ってからのことだ。


「――根本的な解決には、まだ時間がかかると思う」


 純二さんはクマのできた目をこすって、談話室の天井を仰いだ。


「同じようなことが今後一切起こらないとも限らない。むしろ何度かは覚悟するべきだと、向こうの親御さんにも伝えた」

「言いにくくはなかったですか」

「そうだね。でも、必要なことだと思ったんだ」


 疲れの見て取れる表情だったが、その語調は不思議と陰りを感じさせないものになっていた。


 僕はテーブルに置かれたマグカップを持ち、口をつけた。純二さんに淹れてもらったココアは、苦みのないすっきりとした味がする。


「今度のことで痛感したよ。私は、親として躊躇わずにやるべきことさえ、できていなかったんだな」


 後悔と苦悩の入り混じった息を吐き、純二さんは僕に視線を戻した。


「水曜の夜、きみに娘のことで話をしたね」

「はい」

「あのときにはもう知っていたのかい?」

「それは……」


 答えあぐねると、純二さんは首を横に振った。


「責めるつもりはない。私がきみの立場だったら黙っていただろうし、それをきみの口から伝えられたところで私は何もしなかっただろうさ」


 自己を卑下するように呟かれて、僕は肯定も否定もしなかった。


 あのとき僕がいじめのことを伝えなかったのは、父親である彼が頼りなかったからではない。伝えたところで解決には繋がらないと、どこかで諦めていたからだ。


 だから純二さんの推測はある意味で正しく、ある意味で誤っている。


「僕は、あなたが独りよがりな考えで珠希を見ているのだと思っていました。親としての苦悩に自己陶酔しているように感じられた。珠希が本当は何を望んでいるのか、知ろうともせずに」

「それはまた、手厳しいね」

「けれど、それは僕も同じだったのかもしれません。押しつけの救いには意味がないと言い訳をして、当人と向き合うことをしなかった。結局あの子が望んでいたのは救いでも何でもなくて、ただ話を聞いてもらうことだったんですね」


 純二さんも僕も、空回りをしていた。


 救いの手は、こんなにも簡単に差し伸べられたのに。


「しかし耳が痛いな。客人とはいえ、こうも忌憚なく意見されてしまうと」

「ここまで言ったからには、僕は野宿も覚悟しています」

「いやいやまさか。今更追い出したりはしないよ。ただし」


 そこで純二さんは、くしゃっとした顔で笑う。


「――可愛い娘の裸を覗いた償いは、してもらわないとな」


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