第13話 そこに在ったかどうかなんて



 水瀬の言ったことは、きっと正しい。


 僕はそれ以上反論することもせず、東田邸を出た。半ば言い争いにはなってしまったが、かえって頭はクリアだった。当初の目的を達せられたことだけでなく、僕自身の痞えが取れたことも一つの要因になっていたのだろう。


 知るべきは僕がどんな因果に引かれて水瀬との再会に至ったのか、ということだった。それには初めに水瀬が言った『現れるとしたら、きみ以上はいない』という言葉の意味を理解する必要がある。会って直接聞き出すことは難しくとも、そのヒントを得られれば御の字だと考えていた。


 元々はそのために婚儀の詳細を知り、後日何かしらの方法で水瀬と接触を図る計画だった。だが実際には当日のうちから東田邸に入り込めただけでなく、結論に近い解答までとんとん拍子に漕ぎ着けることができた。これも因果の導きと、神の加護があってこそなのかもしれない。


 というわけで僕は早速、神様のもとへ向かったのだった。


「ふぅむ。それでお礼参りとは、殊勝な心掛けですね」


 ヒイロの姿は元の十代後半に戻っている。開けた缶のごみがレジ袋でまとめられて狛犬の鼻先にぶら下がっており、昨夜の出来事が幻ではないことを物語っていた。


「しかし夜高さん、それはお門違いです。遠方から縁のある人を呼び寄せて陽向町にやってこさせるような力、わたしにはありません」

「え、だってヒイロも言っていたじゃないか。僕は因果に引かれているって」

「わたしに時間を捧げた後、とも言いましたよ。つまり夜高さんが水瀬唯衣さんと再会できたのは偶然であり、今日の事の運びが順調であったのも偶々だということです。強いて言うなら、日頃の行いですかね」

「日頃の行い?」


 それこそ僕とは縁遠い言葉だ。功徳くどくを積んでこなかったから今の僕がいると言っても過言ではない。


「どんなに些細なことでも構いません。何か人の助けになるようなことをしませんでしたか?」

「そういえば、今朝は荷物運びの手伝いをしたな」

「じゃあそれです」

「じゃあって」


 ものすごい適当さだった。しかも即効性が高すぎる。


「何事も思い込みが大事なのですよ。思いがけず幸運に恵まれるのは、過去に善い行いをしたからだと考えたほうが、次に繋がりますからね」

「宗教家みたいなことを言うんだな」

「神様ですから」


 それならなおのこと、胡散臭くない言い回しにはならなかったものか。


 ヒイロは竹箒で参道の落ち葉を払いながら、小さく欠伸をした。神様でも二日酔いをするのかは分からないが、なんとなく元気がないようにもみえる。そのせいか僕への応対もいつもよりは控えめだ。


 こうして拝殿の階段に腰掛けて眺めていると、ヒイロの一挙一動の綺麗さに気づかされる。神社という神聖な場所で映えるというよりは、この空間そのものがヒイロに合わせて色彩を変えているような、そんな気さえする。


「……疲れましたぁ」


 かと思えば竹箒を無造作に放り出したヒイロ。とことこと僕のほうに歩み寄ってくる。


「軟弱だな、神様」

「貴方こそ筋肉痛のくせに」


 僕の隣に腰を下ろし、肘で脇腹を小突いてくる。


「力仕事もできたんですねぇ、夜高さん」

「きみは僕を何だと思ってるんだよ」

「消えたがりの優男さんだと思っていますよ」


 どうやら昨夜のことを根に持っているらしい。僕が自分の願いを曲げようとしないから、ヒイロは不機嫌なのだ。


 消えたいという願いは、理想論だ。あるとき突然人がひとり消えたとして、その人物の痕跡までが消えることはない。月並みな表現だが、死者が生者の心の中で生き続けるというのはあながち間違いではなく、自らの存在を消失させるには記憶が大きな壁になる。


 だから僕は妥協案を立て、この旅を始めた。可能な限り痕跡をなくし、誰も僕を知らない場所で、静かに最期の時を過ごすために。


 ヒイロは僕の願いを最初から分かっていたはずだ。そのうえで僕と契約を結んだ。なのに、どうして理想を叶えさせたくないような振る舞いをするのだろう。今更、妥協案に戻れとでも――


「そうは言いません。貴方の願いは、必ず叶えます」


 心を読んだヒイロが、強い口調で断じる。


「ただ、知っておいてほしいのです。貴方が終わらせようとしているものが、意味もないままに存在していたわけではないことを。貴方が居たことで救われたものも、確かにあるんだということを」


 小さな温もりが、僕の手と重なった。その作用だろうか、ヒイロの言葉に嘘がないことを心で理解する。そして同時に流れ込む、様々な感傷。


 胸が苦しかった。こんな苦しみなら、知りたくなかったと思えるほどに。


「僕にできることは、もう数えるくらいしか残ってない」


 飴玉の味を確かめるように、ゆっくりと僕は口にする。


「それは、きみに与えられた使命と、僕が傷つけた人への贖罪だ」




 しばらくのあいだ、僕たちは顔を背け合ったままで寄り添っていた。お互いに言葉を探していたけれど、声として発せられることはなく、代わりに重ねた手を通じて逡巡だけが行き来した。


 そんななかで、ふと気づきがあった。気取られるよりも先に僕は言う。


「こんな場面、町の人に見られるわけにはいかないと思うんだけれど」

「もぅ、意地悪を言わないでください――あ」


 揶揄うようなことを言ったからだろうか、本当に町の人がやってきた。石段の淵から頭部が見えた直後、僕は強烈な力で背後に引っ張られる。いつの間にか開いていた拝殿の入り口を通り抜けるとすぐに扉が閉じられた。そして板敷の床に背中を強く打ちつける。


「いっ……てぇ」


 念動力、いや神通力というやつだろうか。まったく驚かされるが、何もこんな乱暴にしなくてもいいんじゃないかと思う。


 それから僕は拝殿の内部で音を立てないように待った。外の話し声がときどき漏れ聞こえてきたが、詳しい内容までは掴むことができない。かといって無理に聞き耳を立てる必要もなかった。


 だいたい五分ほど経って、拝殿の扉が開かれた。ヒイロがおずおずと僕の様子をうかがっていたので、手をひらひらと振って無事を表明する。


「よかった。骨の五、六本は覚悟していたんですが」

「僕にはそんな覚悟できてなかったんだが?」


 血の気が引いた。加減はきちんとしてほしい。


「つい慌ててしまいまして。ごめんなさい」

「いや、いいよ。神様にこんなことで謝られても困るし」

「未熟な神様ですみません」


 しゅんとするヒイロの台詞が、妙に耳に残った。だがその違和感を追究するよりは、落ち込む彼女にフォローを入れるほうが大事だと判断する。


「上から目線かもしれないけれど、ヒイロはよくやってると思うよ。それより、さっきの人は?」


 話を逸らすと、申し訳なさそうにしながらもその場に正座した。


「彼は東田家からの使いです。婚儀の礼装が調ったので明日屋敷に来てほしいと」

「神前式は明後日じゃないのか?」

「前日のうちにしておかなければならない礼式が幾つかありまして。なので明朝の数時間ほどですが、社を留守にすることになりそうです」


 喜楽の顕著なヒイロだが、この話題に関しては硬い面持ちを崩さない。神様でも緊張することがあるのだろうか。


「それと神前式当日のことなんですが……いや、詳しい話は明日にしましょう」

「構わないけれど、それは今日できない話か?」

「そういうわけではないんですけど。ただちょっと、時間が気になるというか」

「時間?」


 日没にはまだ早い。いったい何を気にしているのか。


「夜高さん」


 ヒイロは畏まった様子で、真っ直ぐにこちらの目を覗き込んでくる。その態度とは裏腹に、彼女の瞳に内在する、試すような意思を僕は感じ取った。


「貴方は、わたしの信徒です。わたしのために〈悲哀の子〉を救うと、今一度誓ってくれますか」

「……ああ、誓う。僕の捧げた十日間は、そのためにあるんだから」


 当然そうあるべきだと、迷いなく言いきれる。


 けれど――果たして僕は、その意味を正しく認識できているだろうか。ヒイロの信託に応えるための選択肢を、きちんと選び取れているのだろうか。


 通じ合っているなんて甚だ高慢だ。


 神の理屈は、神にしか分からないのに。



   *



 民宿に戻ると泥だらけになった珠希が玄関でうずくまっていた。新品だった服は見るも無残に汚れ、膝から脛にかけて粟立つような赤黒い血の粒が溢れて固まっている。その他にもあちこちに擦り傷を負い、装いは乱れ、今朝とは正反対にみすぼらしく見えた。


「――あ、おかえり。夜高」


 唐突過ぎて言葉が出なかった。そんな状態で、あまりにも自然な表情で、出迎えの挨拶をするなんて。


 乾いた泥や怪我の具合を見る限り、こうなってからそれほど時間が経っていないはずだ。なのに珠希の顔色は至って平常で、目尻には涙の一滴も滲んでいなかった。


「なぁ聞いてくれよ。この恰好で学校に行ったらさぁ、あいつらが絡んでこなくなったんだ。てっきり笑われると思って覚悟してたのに、がっかりした。だからちょっとからかってみたら、あいつらマジになっちゃって、殴り合いの喧嘩になってさ、昔はよくあったのに、でも今日のは、力とか全然、かなわなくって、……――」


 珠希は泣かなかった。それが我慢強さによるものなのか、まだ感情に収拾がつかないからなのか、僕には分からない。


 けれど、泣いてもいいはずだった。こんな、痛ましい姿を見せるくらいなら。


「服、着替えてくる」


 萎んだ言葉はそれ以上続くことはなく、珠希は土塗れの身体を引きずるようにして脱衣所へと入っていく。


 茫然とした。実をいえば、何かが起こることは予測できたのだ。ヒイロの発言から、珠希の身に何かあるかもしれないとは思っていた。ただその覚悟が、足りていなかった。


 今朝の珠希を見て、僕は安心しきっていた。


 何もかも上手くいくんだと確信していた。


 その根拠が、いったいどこにあったというんだ。


 重い足取りで階段をあがって部屋に戻る。畳んで置いた敷布団の上に身を投げ出した。倒れ込みたいのは珠希のほうなのに、僕はあの子を受け止めてやれなかった。身を預けられる相手に、なってやれなかった。


 妹だなんて勝手に思って。あの子の勇気から、何も学ばないで。


 また一歩、期待から遠ざかっていく。


「どうして僕は、こうなんだ……っ」


 ――どっかいっちまえ。ここからいなくなれ――


 あの呪詛のような言葉は、僕に降りかかるべきものだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る