第四章 救いの在り処
第12話 誰がための一歩
五日目、金曜の朝。珠希は部屋に侵入してこなかった。
当然といえば当然だ。年の離れた男からいきなり身の上話を聞かされて、今後も積極的に関わろうとは思わないだろう。こんな情けない成人男性に付き合っていられる暇は、小学生にもないはずだ。
冷静になって考えれば、どうしてあそこまで腹を割ってしまったのか分からない。感情の制御ができていない。精神面でいえば珠希のほうがよっぽど大人だと思う。
寝間着を着替えて、まず顔を洗おうと部屋を出る。するとすぐに、ドアのそばで三角座りをしている珠希が視界に入った。
「おはよう夜高」
くりくりとした目で見上げられると、何か反応を返さないといけない気がしてしまう。珠希との交流の機会はもうないと思っていただけに、予想外の奇襲は僕を大いにうろたえさせた。
「お、おはよう、珠希さん」
「なんでさん付け」
「いや、びっくりして」
「そういうリアクションじゃなかったけどなぁ」
ははっ、と乾いた笑い声。
なんだろう、上手く言い表せないが不気味だ。昨日までの珠希じゃないというか、声のトーンが一段高いというか。無理にすぼめていた喉を緩めているような、そんな感じ。
「今日はマスターキーで入ってこなかったんだな」
「よくよく考えたら、はしたないなって思った」
「何を今更」
「考えを改めたんだよ」
そう言って珠希は立ち上がる。そこでようやく、僕は彼女の明確な変化に気がついた。
「スカートに穿かれてるじゃないか」
「その言い方悪意ありすぎだろ」
「いや、すまん、動揺して」
「もっと失礼だからなそれ」
無意識に声に出してしまった。そのくらい、僕は衝撃を受けていた。
毎日ジャージで過ごしていた珠希が、ガーリーな衣服に身を包んでいる。しかもセンスがいい、ような気がする。僕にはその辺の判断がつかないが、何となく垢抜けているのは分かった。
「……母さんが買ってきたんだよ」
僕の視線から意図を汲み取ったのか、言い訳をするように珠希がぼやく。
「女の子らしい恰好をしなさい、って前々から言われててさ。ずっとヤダって突っぱねてたんだけど、そうもいかねえよなと思って」
「なるほど。でも、どうして今なんだ?」
僕の問いに、唖然とした表情になる珠希。それから唇を尖らせて、そっぽを向いてしまう。
昨日のことが原因なのは、流石に分かる。でもそれが何故珠希の心機一転に繋がるのかが分からない。
「夜高が、自分は終わってしまった人間だって、言ってたから」
答え合わせは珠希のほうからだった。
「そんなことないって言いたかった。夜高はまだおしまいなんかじゃないって。でも本当に苦しそうだったし、ガキの俺が何を言っても説得力なんかない。だから、まず俺が変わってみれば、証明できると思ったんだ」
変わりゆくものしかない世界でも、過去には価値があると言うために。
隠し、虚勢を張ってきた自分自身に、珠希は向き合おうと決めた。
「勇気があるんだな、珠希は」
心の底からそう思った。
あの日の僕ができなかったことを、この子はしようとしている。
「へへ、徹夜で考えたんだぜ。感謝しろよ」
妹がいれば、こんな感じだったんだろうか。僕の手は自然と頭に伸びていた。
「その服装。似合ってるぞ、珠希」
「……サイアク」
悪態を吐きながらも、珠希は満更でもなさそうにはにかんだ。
*
『夜高がこの町に来たのは、水瀬さんと仲直りするために神様がくれたチャンスなんだ』
登校する少し前、珠希が僕に言った台詞だ。
僕はその言葉に納得していた。〈悲哀の子〉とされる珠希と僕に繋がりができたように、水瀬との因縁を清算するために引き寄せられたと考えるのもまた筋が通る。
自分に穿たれた穴と、その空洞を埋めることは不可能だ。珠希には悪いが、過去の失敗によって失われたものは、たとえ過去自体に価値があったとしても補いきれるものじゃない。赤字収支はどこまでいっても赤字収支で、僕は破綻を既に受け入れている。
だからこれは、水瀬のための清算だ。今度は押しつけじゃなく、かすめ取る。最初から僕との縁なんてなかったかのように解消してみせる。
そのために僕はまず、純二さんに婚儀に関する情報を聞き出すことにした。町内会で役職に就いているらしい彼は、珠希にもその手伝いをさせていた。公民館に用事があったのもその一環だったようだ。
純二さんは僕が新婦と旧知の間柄であると知ると、婚儀についての詳しい話をすると約束した。その代わりとして東田邸への荷運びを手伝うことになってしまったが、それはむしろ好都合だった。
純二さんの運転する軽トラックに同乗し、町の外側を縁取るように敷かれた道路を行く。山との境界線から俯瞰する人里の景色は、日本の原風景のような印象を抱かせた。
「東田家の婚儀は神前式なんだ」
助手席の僕に、純二さんは前を向いたままで言う。
「一般的に神前式は神社で行う結婚式のことを指すけれど、陽向町においては必ずしもそうじゃない。ここには目に見える神様が居るからね。ヒイロさまの目の前であれば、どこでも神前式は執り行えるんだ。そのためかこの町にしかないような習わしも多くあって、それらの準備を調えるには時間と、人手が要る」
「町内会総出の式になるのは、そういう理由だからですか」
「うん。私の役目は外注している用具を受け取って東田の家に運ぶこと。特に重要な神具なんかは東田家の倉庫で管理されているから、替えの利くものばかりになるけれどね。それでも責任重大だ。なにせ式は明後日だから」
東田邸に着いた後の荷運びは滞りなく行われた。ひと抱えほどもある段ボールで包装された荷物は大半が割物だったため、常に細心の注意を払う必要があった。思っていた以上の重労働に文句を垂れそうにもなったが、自分が軟弱なだけだと思い直して作業を継続する。それがようやく終わりかけるといったところで、以前見かけた作業服の男たちが屋敷にやってきた。また人手が欲しいと、僕はそちらの仕事にも借り出された。
彼らも僕がヒイロの使徒であることを知っていた。いかにも肉体労働の従事者といった風貌だったが、同時に明朗な雰囲気もあり、余所者である僕にも隔てを感じさせず接してきた。それに対し僕は、もしヒイロの計らいがなくても彼らは同じように関わってくれただろうか、と無用なことを思った。
仕事に区切りがついたのは午後の一時ごろ。作業服の男たちは次の現場があるからと一足先に去っていった。流石は運送業者だと感心すると同時に、自分には到底真似できないことだなとも思う。体力の有無もあるけれど、休憩なしで動けるというのが凄い。
同じ人間の括りでも、個と個にはコンプレックスとさえ思えないほど大きな能力差が存在することがある。そういった人やものに出会うたび、僕は安堵した。
ああ、すべての物事は、僕が居なくても成り立つようにできているんだ、と。
暗い意味ではなくて、世界がそういうふうにできていることを、救いのように思う。
「澤口くん、お疲れさま」
敷地内で休憩場として開放されている土蔵で壁にもたれていると、報告に行っていた純二さんが戻ってきた。
「お疲れさまです」
「今日はすまなかったね、仕事が長引いてしまって」
「いえ、構いません」
「それで実は、もうひとつ用件が残っているんだけれど」
何ですか、と訊くよりも前に僕は目にする。
純二さんの入ってきた戸口。そこに立つ、もうひとりの人物を。
「唯衣さんが、きみに話があるそうだよ」
水瀬は大きなお盆におにぎりと緑茶の注がれた椀、それからウェットティッシュを載せて持ってきていた。普通に考えれば労いの意味なのだろうけれど、僕はどうにも素直に受け取ることができなかった。
相変わらず水瀬は八方美人な振る舞いが自然だ。純二さんに対しても人当たりよく接し、そのうえで気を回させて土蔵から追い出してしまった。
結果的に僕は、水瀬の見守るなかで黙々と具のないおにぎりを頬張る羽目になった。純二さんの分も勘定して作ってきたと思うのだが、あの人は一つだけしか持たずに外に出てしまったので、明らかに多い量を僕ひとりで食べきるような流れになっていた。
だんだんと喉を通らなくなってきた四つ目のおにぎりを緑茶で押し流すと、見かねたように水瀬がおにぎりを一つ手に取った。そして僕と並んで食べ始める。
「塩辛いね、これ」
白米を眺めてぽつりと呟く水瀬が、なんだかおかしかった。
「なに笑ってんのよ」
「きみが作ったんじゃなかったの」
「家政婦さんが勝手に。わたしはそれを運んできただけ」
「じゃあこれは家政婦さんの塩加減か」
僕はそんなに辛くないと思うが。味覚の違いか、生まれ育った家庭での味の違いか。
「嫌だなぁ、キッチンで味が薄いとか文句言われたりするのかな」
「三男坊の若奥様なんだから大丈夫だろう」
「ふん。皮肉を言うようになったじゃない」
二人で協力し、やっとのことでおにぎりを完食する。べとべとになった手をウェットティッシュで拭きながら、先に僕から切り出した。
「結婚おめでとう」
「ありがとう」
「まさか玉の輿に乗るなんて思わなかった」
「そういうつもりで一緒になったわけじゃないから」
水瀬は露骨に嫌そうな顔をした。
「夜高も知っているんでしょ。家督は彼のお兄さんが継ぐし、彼だってまだまだこれからの人だもの。玉の輿とか、そういうんじゃない」
「お金には執着しないのか?」
「……下手くそ。魂胆が見え見えなのよ」
お茶を口にし、軽く息を吸ってから、水瀬は言う。
「嫌われようとしてるのかもしれないけれど、無駄だから。わたしはこれ以上、きみを嫌わない。あの頃のわたしを取り巻いていた奴らと同程度にしか、嫌ってやらない」
それは宣告だった。僕を決して特別には扱わないという、意志表明。
水瀬の秘密を知っている人物として、自分は心のどこかで優位性を感じていた。水瀬は僕に別格の扱いをしていると――実際、そういう場面も何度かあった。
だけどそれは、何度かあった程度でしかない。あの勉強会の日以降そういった機会は一切なくなった。まるでそれまでが、水瀬の企図したものであったかのように。
「わたしのあのノートを、見たのがきみだけだと、本気で思ってる?」
決定的な台詞だった。
「意外に思われるかもしれないけれど、わたしは忘れっぽいの。あれから先も教室にノートを忘れたことは何回かあった。そのうち中身を見られたのは、きみを除いても四回。そのうちの誰かが口を滑らせて、卒業する頃にはそこそこの人数がわたしの夢を知っていた」
それを聞いて、胸を撫で下ろすべきだったのかもしれない。
だが僕は、自分が水瀬の夢を諦めさせたというのが思い込みだったことよりも、彼女にとっての僕が特別でも何でもなかったという事実のほうに、愕然としていた。
清算するべきものなんて、僕と彼女のあいだには何もない。
「きみは、誰かにわたしの夢の話をした?」
「……してない」
「そう。まあ、当時も疑ってはいなかったけれど」
ボブカットの髪を耳にかけ、目を伏せる水瀬。
あの頃には無かったピアスの穴が、生々しく映った。
「絵を描くのをやめたのは、いつだったかな。あの頃はどうしても叶えたかったのに、一度諦めてしまえば、いともあっさり忘れられるものね」
「水瀬は、それで良かったのか」
引き絞るようにしか、声を出すことができなかった。
「そんな簡単に、棄ててもいい夢じゃなかったはずだろ。必死になって叶えようとしたんだろ。悔しくて泣いてしまうくらいに――」
「うるさい。知ったような口をきかないで」
そうしてようやく、僕は引き出すことに成功する。
水瀬の本音を。嘘偽りのない、凍てつくような声色を。
「わたしは夢よりも、現実を選んだの。時間制限つきの夢を見るより、これから何十年も続く現実のために、賢い選択をした。しなくちゃいけなかった」
氷柱のように鋭利な眼差しとともに、水瀬は言う。
「いつまでも子どもじゃいられないんだよ、夜高」
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