第11話 寂しいみたいです



「――水瀬さんは、何を諦めたの?」


 ずっと黙っていた珠希が、初めて尋ねた。


「学校で会う水瀬さんは普段どおりだったんだろ。何も変わってないんなら、何も諦めたりなんてしてないはずじゃないの?」

「僕もそう思っていた。だけど違う。何も変えずに現状を維持できるほどの余力は、あのときの水瀬にはもう残っていなかったんだ」


 変わらないでいられる方法なんてどこにもない。


 僕らは失っていくものを補うために、積み上げてきた砂の塔さえも崩す。


「水瀬は、夢を諦めたんだ。卒業式の日に握手したとき、そう気づいた」


 ペンだこだらけだった手のひらが、少しだけ柔らかくなっていた。気のせいと言ってしまえばそれだけの微かな感覚だったけれど、今では確信に近い。


 正確にいつからだったのかは分からない。クラスが別々になった二年以降なのか、以前なのか、それともあの日からだったのか。いずれにせよ水瀬の内面的な変化に僕は気づかず、絵筆を折ったことにも気づけなかった。


「水瀬がそこまで追い詰められていたなんて思わなかった。僕はきっと、勉強会の日に彼女にとどめを刺してしまったんだ。僕にとって水瀬は特別であってほしいと願ったから――水瀬にとっての僕は、あのときに特別じゃなくなった」


 そうして、すべての解釈が変わった。


 僕が夢と理想を水瀬に託したと思っていたのは、廃棄の決まった鉄くずを高値で買い取ったようなものだった。何の役にも立たないものに望みをかけて、何度も心の支えにしてきた。それが空洞だなんて思いもせず。


 ゆっくりと時間をかけて、僕は空っぽになっていく。気づいたときにはすべてが遅く、僕の大部分は空虚が占めていた。


「僕はもう、終わってしまった人間なんだよ」


 それが幾度となく反芻してきた結論。


「一生分の望みを他人の夢に預けてしまった。僕には自分の未来を思い描くことができない。未来に意味を見いだせないのなら、過去にだって価値はない」


 だから僕は、水瀬唯衣という名前を記憶から消そうとした。でも結局消しきれず、こうして再会したことで過去の清算を迫られている。


 珠希には、過去に縋ってほしくない。『あの頃は楽しかった』なんて補整入りの幻で、まだある未来を台無しにするのは間違っている。


「それがもし本当なんだとしたらさ」


 僕の話を聞くあいだ、ずっと考えていたのだろう。しわの寄った眉間を押さえて、珠希が言葉を紡ぐ。


「過去が無駄じゃなかったって分かれば、未来だって捨てたものじゃないってことにはならないか? 夜高は何もかもおしまいだと考えているかもしれないけど、まだ俺にはそういうふうには見えねえよ」

「そうだね、そうかもしれない。未来が誰にとっても最悪だとは僕も思っていないよ。だから珠希は僕の言うことになんか耳を貸さないほうがいいんだ、きっと」


 ここまで話しておいて何を今更、と思われただろうか。僕は珠希を聞き手に選んで自己満足をした。それ以上でも、それ以下でもない。変化を認めて納得させるどころか、失望させてしまったとしても仕方のないことだ。


 何か言いたげな珠希をよそに、僕は立ち上がった。部屋を出てすぐにある洗面所で、顔に冷水を浴びせる。畳んで置かれたフェイスタオルを手に取って、必要以上の強さで水滴を拭う。水気が取れた後も、また水を浴びせては拭くを繰り返す。


 こうしていると、顔の表面がどんどん擦り減っていくみたいだった。どんなに磨いたって僕は何者にもなれない。それならいっそ、ここで終わりにできれば。


 ささやかな自傷行為を、両手の感覚がなくなるまで続ける。


 このまま全部の感覚を洗い落とせればいいのに、とつまらないことを思った。



   *



 夕食の後、僕は外出して境内へと向かった。


 夜の参道は街灯がともっていて意外に明るい。昼間は気がつかなかった灯籠にも点灯していて、まったく別の道を歩いているようだった。足場が気掛かりだった長い石段も、斜面に等間隔で挿し込まれた照明灯のおかげで危険はない。


 灯りに限らずこの町には参拝者への配慮が行き届いている。姿が見えて意思疎通もできる神様が居るのだから当然のことかもしれない。神様から直々に指図されて設備を整えたのか、それとも信者が自発的に設置したのかは分からないが。


 信者の代表たる家系の東田一族――水瀬はそこに嫁入りする。夫の徹郎は東田本家の三男。家督を継ぐ立場ではないそうだが、婚儀は陽向町で行うことを義務づけられているらしく、僕がこの町を訪れる数日前に呼び戻されたばかりだという。


 純二さんから聞いた限りでは、陽向町における東田家の権威は絶対的なものだ。代々『ヒイロさま』への奉納行事を取り仕切っていることから、信仰との結びつきも大きい。


 住民は誰も口にしないが、東田家が何か後ろ暗い行いに手を染めていたとしても、この近隣に住む者であれば糾弾することもできない。それはあくまで仮説の話だが、もし実際にあったら大変なことになるだろうな、と純二さんは笑って話していた。


 その話を真に受けたわけではない。ヒイロと東田家の浅からぬ縁も、余所者である僕には興味のないことだ。


 ただ僕は、ヒイロに確かめたいことがあった。


 石段をのぼりきり、鳥居をくぐる。拝殿の定位置にヒイロの姿はない。軒に沿って回り込むと、ちょうど真裏の縁側にちょこんと座っている人影が見えた。


「こんばんは」


 挨拶をしてすぐ、違和感を覚える。僕はその人影をヒイロだと思い声を掛けた。しかしこちらを向いた女性は、僕の知る彼女と多少違っていた。


 ひとことで言えば、成長している。手足が伸び、髪も伸び、大人びた顔立ちは可憐よりも秀麗という表現が当てはまる。灯籠の朱い明かりに照らされた姿は、文字どおりに神々しく映る。


 そんな彼女が僕をじっと見つめていた。思わず鼓動が高鳴る。


「……ヒイロのお姉さんですか?」

「あっはっは、違いますよぉ。わたしがヒイロです」


 朗らかな声と快活な笑み。まさかというか、やはりヒイロ本人だった。面影があったので推測はついたけれど、説明できない現象を目の当たりにするのはこれが初めてで動揺を隠せない。


「こんな時間に来られるなんて思いませんでした。想定外だったのでお酒飲んじゃってましたよ、あはは」


 そう言って手に持っていた缶チューハイを飲むヒイロ。縁側の床には他にも三、四つほど似たパッケージの缶が並んでいる。


 なるほど、アルコールを摂取するときは成人しているのが前提になるから、大人の姿になるのか。いやまあ理屈が分かったところで不可思議なのは同じなのだが。


「その姿になってもセーラー服なんだな」

「野暮なことを言いますね。学生じゃなきゃ制服を着ちゃいけないって誰が決めました?」

「それを言うならなんで神様がセーラー服なんだって話なんだが」

「なんだかんだと細かいですよぉ、夜高さぁん」


 もしかしてこの神様、既に出来上がっているのか。


 夜に訪れたのは失敗だった。朝は略式で済ませたから、ひょっとしたら機嫌を損ねてしまっているかもしれないと思っていたのだが、これは裏目に出てしまったようだ。


「だいいち、夜高さんは疑り深すぎなんです。わたしが神様だってこと、ちっとも信じてくれませんし」

「いや信じてるよ、今しがた信じた」

「ほんとぉですかぁ?」


 据わった目で僕を見ているヒイロ。「もっとこっちに来てくださいよぉ」と手招きをしてくるので、仕方なく隣に腰掛ける。


 こうして近寄ってみると、このヒイロは僕と同い年のようだった。外見が二十歳を超えているのもそうだが、傍に居るとまるで幼馴染と一緒に居るような懐かしさを覚える。ずっと昔から彼女を知っているような、優しい錯覚だ。


「夜高さんもお酒、飲みませんか?」


 ヒイロの誘いに、僕は首を横に振った。


「アルコールは飲まないことにしてるんだ」

「酔うと何するか分からないからですか?」

「それもあるけど」


 わざわざ言葉にはしないが、そもそも酒を一滴たりとも飲んだことがない。


「飲んでしまったら、子どもだった頃の自分には戻れなくなる気がするんだ。通過儀礼、とはまた違うのかもしれないけれど」

「つまり言い訳を残しておきたいんですね。食わず嫌いと同じで」

「それも違うと思うけどな」


 食わず嫌いは他者から伝え聞いた印象から生じることが多いそうだ。確かに酒に対していい印象は持っていない。父の、酒気を帯びた姿を思い出してしまうから。


 言い訳を残しておきたい、というほうが惜しいかもしれない。酒を飲んでしまうと、何か大切なものを失くしてしまったときに酒のせいにするしかなくなってしまう気がする。


「酔っ払うって、普段大人のふりをしている人が子どもに戻るための最終手段なんですよ」


 したり顔のヒイロが何やら語り始める。


「今まで隠してきた内面を隠せなくして、良くも悪くも素直になるのがお酒の効能なのです。笑い上戸だったり泣き上戸だったりは、その人が元から秘めていた欲求が表出しただけにすぎないのですよ」

「だったらますます、僕が飲むのはまずい気がする」

「あはは、違いありませんねぇ」


 清々しく笑い飛ばしてくれるヒイロ。酒が入っていようがいまいが、つくづく笑顔の絶えない神様だ。


 彼女を見ていると、気分が楽になる。何でも受け止めてくれそうな安心感がある。だからだろうか。使命や信徒であることを抜きにしても、ヒイロのために何かしてやれないかと考えている自分がいた。


 ヒイロは放り出した脚をひらひらと交互に揺らしながら、月のない夜空を眺めている。神様が空を見上げて何を思うのかなんて知る由もない。


 だったら、僕から尋ねなければ。


「知ってたのか? 水瀬のこと」


 ぴたり、とヒイロの動きが止まった。それから程なくして、また振り子のように脚が揺れ始める。


「嘘はついていませんよ。その水瀬という女性を見たことはありませんが、名前は東田の者から言伝に聞いていました」

「どうして教えてくれなかったんだ」

「貴方の心を読んだときに、知ってしまいましたから。彼女が貴方にとってどんなに重要な存在なのか。そして思い出したくもない存在であることも」


 返す言葉もなかった。気づかないふりをしていたのは、僕もそうだ。


 水瀬は僕の希望だった。だけど同時に、絶望の象徴でもある。


 それは彼女が夢を諦めたからじゃない。僕が気づいてしまったからだ。他人にすべて託せる程度の希望しか持ち合わせておらず、あまつさえその望みの重さでは彼女の夢を繋ぎとめることもできなかった、自らの価値の低さに。


 もう一度それを認識するのが怖かった。だから、あの背中を追わなかった。


 僕のそんな心を察して、あのときのヒイロは黙っていてくれたのか。


「神様は、見守るのがお仕事ですから」

「ありがとう」

「お礼を言うなら、代わりに聞いてほしいことがあります」


 そのとき雲の切れ間から、上弦の月が顔を出した。朱い灯りに白い煌めきが混じり、ヒイロの髪飾りがより鮮やかな琥珀色をまとう。そこから帯のように放たれた光がヒイロを包み込み、紺色のセーラーは絹のワンピースへと変わる。


 僕は見惚れていた。


 彼女の姿があまりにも繊細で、綺麗だったから。


「ねえ。消えたいなんて願うのは、やめませんか」


 儚げな笑みを湛えて、ヒイロは言う。


「わたし、夜高さんが居ないと寂しいみたいです。ほんの一日会えなかっただけで、すごく不安になって、滅多に飲まないお酒なんて開けたんですから。笑っちゃいますよね」


 僕は、どう返せばよかったのだろう。


 一緒に笑う――たったそれだけのことも、今の僕にはできそうになかった。


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