第10話 鋭利で怜悧な氷の女王 後編



 ふたりで勉強会を抜け出して、最寄りの駅から電車に乗った。目的地は特にない。僕らの生活圏から、できるだけ離れた場所へ行くことだけが彼女の望みだった。


 水瀬は沈んでいく太陽を車窓から眺めている。何も考えていないような、ぼんやりとした横顔。流れる景色の赤いシルエットを、幼い子どもみたいに目で追いかけている。


 クラスメイトの誰も知らない彼女が、ここに居た。


「わたしね、イラストレーターになりたいの」


 それは水瀬が僕に初めて明かした夢だった。


「今更きみに隠すことじゃないよね。あのノートを見たんだもの、なんとなく察しはついてたんじゃない?」

「いや、全然」

「もうそういうの、いいから」


 分かっているんでしょ、と水瀬が苦々しげに言う。


「あのときは忘れるようにって誓わせたけれど、そんなの無理な話よね。きみがどういう人間か、あの時点ではまったく分からなかったから、わたしは本当に怖かったんだよ。あちこちで言いふらされたりしないか心配で心配で、その日の晩は一睡もできなかった」

「僕こそ怖かった。窓から突き落とされるかと思った」

「馬鹿ね、そんなことするわけないでしょう」

「僕だってあのときは水瀬のことをよく知らなかったよ」


 高嶺の花と、教室のシミ。


 あまりに住んでいる世界が違っていたから、お互いを認識していなかった。知らない相手からは何をされてもおかしくないと思い込み、水面下で警戒し合っていた。それが水瀬から歩み寄っていった末に、今の形になっている。


「きみがあのノートの持ち主だって知っても、本来なら状況は何も変わらなかったんだ。有象無象の僕が何を言ったって、幾つもある噂話のひとつとして埋もれるだけなのは目に見えていたし」

「考えてみればそうだったのよね。ほんと、なんであんなに怯えてたんだろう」

「水瀬の絵、すごく上手かったよ。隠すようなことじゃないと思う」

「ありがとう。でも周りに知られるのとは話が別」


 電車が止まり、慣性に揺られる。乗降口のドアが開く、無機質な音。


 この音を聞くのはこれで何回目だろう。そして、あと何回だろう。


「絵を描く仕事を目指してるなんて、わたしのキャラからかけ離れてる。わたしは優等生として期待されてた。顔も知らないような同級生に憧れられたりもした。それに応えるのは、生半可じゃできない。自分を折ることだって必要になる」

「だから知られたくなかったのか」

「秘密にするのが一番楽だと思っただけよ」


 水瀬は他愛なく言うが、その『楽をする』ことがどれだけ重要であったか想像するのは難しくなかった。学内では過剰な期待と羨望に応え、個人ではイラストの練習とアルバイト。限界すれすれの努力を、彼女は人知れず続けてきたのだろう。なのに頑張って、なんて軽々しくも口にした数日前の自分を呪った。


 現に水瀬は疲弊し、日常からあてどなく遠ざかっている。そんな彼女に、弱い意志でしか生きてこなかった僕が何を言えるというんだ。


 再び動き出す電車。僕はなけなしの言葉をかき集める。


「水瀬は、すごいよ。ちゃんとみんなの期待に応えられている。きみは表向きだけだと思っているかもしれないけれど、その振る舞いで救われている人もいるんだ。それは、僕が保証する」

「演じていたキャラクターだったとしても?」

「だとしてもだよ」


 人が何も演じずに生きていられるなんて思いはしない。それぞれが自分の役目を自覚して演技をしている。それ自体は、特別な行為じゃない。


 でも、その行為が誰かを救うものであるのなら。


「水瀬はきっと選ばれた人間なんだ。僕なんかとはまったく違う、大きな役割を与えられて生まれてきた人なんだ。だから、水瀬が叶えたいと願う夢だって、必ず――」

「きみも、わたしに理想を押しつけるんだね」


 水瀬の声色は、完全に冷めきっていた。


「うん、分かってたよ。夜高がわたしに恩を感じてくれているのも、自分が周りと少し違う役割を持っているのも。だけど……だけどね、わたしにはそんなもの、いらなかった。わたしは、たったひとつの夢さえ叶えられれば、それでよかったのに」


 電話の後に、流した涙の理由。


 僕はまだそのわけを聞いていなかった。


「わたしの絵、才能がないんだって。出版社とか制作会社とかに持ち込みに行って、いろんなプロの人に返事を貰ったけど、みんな言うことは同じだった。高校生にしては上手なほうだけど伸びしろがない、まだ若いんだし他に向いてることがあるんじゃないか、って。ふざけんな、って思った。わたしの本気はこんなもんじゃない。全力を絵に注げば、もっとすごい絵を描いてみせるのに」


 唇を噛みしめて、水瀬は僕の手首を握る。そこから伝わるのは、何重にもかさなったペンだこの硬さだった。


 ここまでやって、まだ全力でないという。なら彼女は、次に何を犠牲にするのか。


「わたしは、みんなの期待に応えようとしてきた。だけどみんなは、わたしの夢を叶えてはくれない。どんなに他人に好かれたって、わたしが一番欲しいものを得られないのなら――今まで何してたんだろうね、本当に」


 みんなみんな、大嫌いだ。


 水瀬ははっきりと聞こえるように、そう言った。


「わたしはここで降りるよ」


 ドアが開く。何の変哲もない駅に、突拍子もなく降り立つ水瀬。


「ばいばい。ここまでついてきてくれて、嬉しかった」


 ペーストされた笑みが閉じたドアに隔てられる。僕はその間、足を踏み出すことも手を伸ばすこともできなかった。ただ黙って、遠ざかっていく彼女の姿を捉えるばかりで。


 やがて訪れた夕闇と、窓に写る自分の顔を見て、ようやく気がつく。


 置き去りにされたのは、僕のほうだ。




 その日を境に、水瀬は僕を睨むようになった。


 それを除けば普段どおり人気者の彼女だった。周りでその変化に気づく者はいない。気づいたとしても誰も言及していないようだったから、同じことだ。


 穿つような視線の意味は以前から変わらず、口封じの釘刺し。僕はノートの中身に加え、幾つかの秘密を抱えることになった。こうして水瀬にとっての澤口夜高は、自分に害をなしうる人物へと逆戻りしたわけだ。


 けれど僕はそこまで悲観していなかった。水瀬が僕を嫌おうとも、何も変わらない。彼女はみんなを嫌っていた。その一部に、僕も含まれていただけの話。


 そんなことよりも、水瀬の夢が叶うことのほうが大事だ。水瀬には周りのことなんて気にせず、夢を追いかけてほしかった。こうやって理想を押しつけること自体が水瀬にとって重荷になるのなら、僕は口を噤み続けよう。水瀬が描いた絵を認められ、やっぱり特別な存在だったと証明されるまで――


 その誓いも、今はただ滑稽極まりない。


 とうとう僕は高校を卒業するまで水瀬と二人で話す機会を持たなかった。僕はそれを気遣いだと考え、彼女のほうも僕を避けているのだと思い込んだ。そんな先入観を抱いていなければ、水瀬があの日何を諦めたのか、もっと早くに気づくことができたかもしれないのに。

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