第9話 鋭利で怜悧な氷の女王 前編
水瀬唯衣はいわゆるスクールカーストの最上位層だった。才色兼備を形にしたような女の子で、同学年までならず上級生からも憧れの的になっていた。彼女の周りには他にも華やかなカーストの上位勢が集まっていて、一般階級の生徒との差は露骨なほどだった。
艶やかなロングの黒髪を持つ彼女は、物語の中のヒロインか何かだと囁かれた。男子たちは水瀬に理想の女性像を重ね、様々な噂を立てた。それらが例外なく好い印象を与えるものだったのは、当時は誰もが彼女のことを嫌っていなかったからだろう。
だが、そんな彼女の秘密を僕は知ってしまった。
水瀬のノートに描かれていたのは、イラストだった。すべて鉛筆で描かれたもので、風景のスケッチから人物画、デフォルメまである。それらの多くはアニメの絵を意識したものだった。
最初にあのノートを見た日、僕はそんな絵たちに圧倒された。クラスメイトにこんなに上手な絵を描く人がいるのだと分かり興奮した。
だがこれを描いたのが水瀬だと知ったとき、僕の抱いていた彼女のイメージとのあまりの噛み合わなさに混乱した。そして、なぜ彼女が僕にあれだけの敵意を向けたかを理解した。僕は学園のヒロインの、最も触れられたくない部分に触れてしまったのだ。
僕は報復を覚悟した。絶対的な地位を持つ水瀬が手を回せば、いくらでも僕を追い詰めることは可能だと思った。教師を含め誰もが彼女の言い分を信用するだろうから、一方的に虐げられても抗いようがない。最悪、退学に追いやられるかもしれないと恐怖した。
しかし僕のネガティブな想像はまったくの的外れになる。水瀬は決してそんな陰湿な仕打ちをしなかった。むしろ公然と好意的に接してくるようになり、僕は大いに動揺した。
もっとも、それが釘刺し以上の意味を持たないことも理解していたから、あのノートについて口外することはなかった。
ただ期せずして僕の高校生活は変わった。水瀬の他にも話しかけてくる相手が増え、教室のシミだった僕はようやくクラスの一員になった。これまでは母の願いに応えるためだけに通っていた学校が、初めて心から楽しいものだと思えた。
水瀬との最初の接点から半年近く経った頃。文化祭や体育祭といった行事で瞬く間に秋が過ぎ去り、気候はすっかり冬に差し掛かった時期。僕はまた、鍵をかける前の教室で水瀬と二人きりになる。
「ありがとう、水瀬」
唐突な僕の言葉に、水瀬は面食らっていた。
「何をありがたがることがあるの?」
「きみが話しかけてくれるようになったから、僕はこの教室に居場所を持てた」
「へぇ、それは良かったわね」
あの日とまったく同じトーンで、水瀬は言う。
「でもやっぱりお礼を言われる筋合いはないよ。クラスで浮いていたきみを気にかけていた子がいたから、わたしはそれの手助けをしただけ」
「じゃあその子の分も礼を言うよ、ありがとう」
「もう、なんなの。今日の夜高、気持ち悪いよ?」
おどけた笑顔をみせる水瀬につられ、僕も笑う。
少し前まではこんな風に笑い合えるなんて思ってもみなかった。水瀬には本当に、感謝しかない。
「戸締まりは僕がやるよ。水瀬は今日もバイト?」
「ええ。テスト期間が近いから、そのあいだはお休みを貰うつもり」
「そっか。頑張って」
「きみこそ、ね」
手を振り合ったあと、水瀬は教室を出ていく。
そのとき彼女が何を思っていたのかを、当時の僕はまだ知らない。
期末テストの三日前。水瀬の主催で勉強会が行われることになった。
集まったのは水瀬や僕を含めて八名。僕らの通う高校はわりと知られた進学校なので、大抵の生徒は塾で勉強している。そうでない生徒はこうして近隣の生涯学習施設に集まり、教え合いのテスト対策を図ることが多い。
僕は家庭が家庭なので塾に通うことなんて無理だ。しかし水瀬が塾に行っていないのは意外だった。反面、自学自習のみで常に学年上位の成績を維持している事実は、ますます彼女の能力の高さを浮き彫りにしている。
結構な頻度でアルバイトをしていたり、学内行事に積極的であったりと、水瀬はとにかく活動的だ。勉強会も今回が初めてではなく、一学期の頃から既に開催していたという。
二学期も終わりに近づいたこの頃には、僕も他の参加者たちとある程度は会話する仲になっている。もちろん多少の遠慮はあったけれど、勉強会としては特に支障なく有意義に過ごせていた。
勉強会の開始から二時間半が経過した頃、それは起こる。
僕が気分転換のために席を立ったとき、共用する机の近くに水瀬の姿は見当たらなかった。いつの間に離席したんだ、と不思議に思いながらも、自習室を出てロビーのほうへと歩く。
静かなクラシックの背景音楽が流れる館内の廊下で、僕は水瀬を見つけた。携帯を耳に当て、誰かと通話しているようだ。いつになく真剣な表情の水瀬に、僕は気を遣って視界に入らないように迂回する。離れた位置にあった自販機の品目を眺め、新商品とラベルの貼られた缶飲料の味を想像して、時を待った。
通話は思いのほか長く続いていた。水瀬が誰もいない空間に何度も頭を下げているのを遠目に見た。電話先の相手に伝わりはしないのに。その無意味な反復が、普段の彼女とはかけ離れていて、僕は少しずつ不安になっていく。
表情は見えない。声も聞こえない。この距離では彼女が何者なのかすらあやふやだ。僕は気づく。水瀬が僕らに見せてきた姿は、彼女にとってありのままではなかったのではないか?
思えば彼女はいつだって優秀だった。非の打ちどころのない、誰からも愛されるような存在であり続けていた。それこそ、絵に描いたような。
ようやく通話が終わる。僕は無意識に水瀬のもとへ駆けていた。
「水瀬」
そう呼びかけた僕は、自分の不用意さをただちに悔やむ。
水瀬の頬は、濡れていた。
「また、見られちゃったな」
貼りつけられた笑みと、凍てつくような瞳。
「前よりは情も移っているだろうし、今度は選ばせてあげる」
「……何を」
「いま見たことを忘れるか、もっと深入りするか」
即断して後者を選ぶ――そうできたら、どんなに恰好良かっただろう。僕にはそれほどの度胸もなければ、受け止める度量もなかった。
どちらの選択肢も選ばず、沈黙した僕は賢明だったかもしれない。
でも、彼女にとっての救世主になる資格は、ここで失われた。
「優しいね、夜高は」
水瀬は涙を拭う。
「だけど嫌いだ。きみの他も、みんなみんな大嫌いだよ」
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