第三章 白昼夢と月光

第8話 繋がる唯一の方法



 水瀬とはあれ以上話すことなく別れた。もう一生会うつもりもなかった相手に再会したところで、語るべき功績を僕は持たない。懐かしい思い出なら幾らでも浮かんだけれど、それは水瀬にとって忘れたい記憶に違いなかった。


 彼女に蛇蝎のごとく嫌われることが、一時期の僕の心の支えになっていたことは否定できない。誰にも相手にされずにいることが正しいと思っていた僕に、水瀬唯衣の存在はひとつの転機を与えてくれた。だから感謝こそすれ、この冷たい扱いに抗議することなんて考えもしなかった。


 わざと嫌がることをして気を引こうとする。それと似た発想を高校の頃にしていたと思うと、我ながら精神の未熟さにがっかりした。あれでは僕が暗に水瀬を好きだと示しているようなものだ。すると彼女には勘違いをさせてしまっていたのかもしれない。そう考えれば水瀬が真っ先にああ告げたのにも説明がつく――なんて。


 言い訳がましい。単に失恋だったと言えば済む話だ。


「すげぇ怖い目で夜高を見てたよな、あの姉ちゃん」


 珠希からも水瀬のただならない嫌気は感じ取れたらしい。僕が落ち込んでいるように見えたのか、帰り道は何度も励ますように声をかけてきた。


「親でも殺したの?」

「物騒だな。そんなわけないじゃないか」

「でもあっちは殺したそうにしてたよ」

「言いすぎだ」


 あの目はそういう目じゃない。彼女は僕を仇として認識したことなんてなかった。彼女にとって、僕はせいぜい虫に刺された跡くらいのものだろう。ほんの数日で綺麗さっぱりなくなるはずのものが何年も残っていたら、不快にもなる。


「けどあそこまで嫌われるなんて、夜高は相当あの人に悪いことしたんだな」


 珠希は少し面白がってもいるようだった。年相応な感性だ。


徹郎てつろうさんもあんたのこと睨んでたぞ」

「隣にいた男の人のことか?」

「うん。東田徹郎さん」


 東田という姓。ということは彼が水瀬の夫で、水瀬は東田家に嫁いだと考えるのが自然だ。あの屋敷に居たことの説明としてもこの上ないように思える。


 水瀬は夫に僕の話をしたのだろうか。話したとしたら、どこまで?


「徹郎さんはすごく優しい人って感じだから、あんな風に人を睨んでるのなんて初めて見たよ。奥さんの敵は自分の敵、ってことなのかな」

「珠希は彼のことを昔から知ってるのか」

「一応ね。東田の家の人だから、年に数回は都会から帰ってきて顔を合わせるんだ。俺みたいなガキにも平等に接してくれる、かっこいい兄ちゃんだよ」

「慕われているんだな」

「そうだよ。だから夜高も見習って、まずは俺の役に立ってね」


 珠希は僕の肩をぽんぽんと叩き、これで慰めは終わりだとでもいうような調子で足を速めた。


 兄のふりをしろだとか公民館までついてこいだとか、それが珠希の役に立つことなのかは疑問だ。だが珠希が徹郎さんとやらの話をしているのを聞いて、何となく兄を欲しがっているようにも取れた。加えて僕は土地神の新たな信徒という特殊な立場でもある。


 有名人を引き連れて虚栄心を満たしたい、なんていかにも子どもらしい発想だ。


 けれど、そんな安易な考えで珠希が僕に「役に立って」と言ったわけではないと確信する。なぜなら速めた足は人の視線から逃れるためで、先ほどから感じる複数人の気配に出遭わないためだったからだ。


 珠希は要求については何も説明しない。彼らから自分を守ってほしいなんて口にもしない。矜持があるのだ。珠希には、珠希なりの。


 だったら僕は察して、応えなければ。


 それが救いに繋がると信じる以外に、方法はない。



   *



 何事もなく帰ることができ、安心したのもつかの間。珠希は僕の部屋までついてきて、一つしかない座椅子の上に陣取った。


「おっ、駄菓子あるじゃん」


 小机の上に置いてあったチューインキャンディを目ざとく見つける。ヒイロに押しつけられたが食べる気が起きずに放置していた駄菓子のひとつだ。


「もーらいっ」


 許可も取らずに包装を破る珠希。無遠慮というか、何だか急に距離を縮められた感触だ。


 とはいえ今までと異なり何も要求がない状況。座椅子を確保された僕は手持無沙汰になってしまい、与えられた客室だというのに棒立ちする羽目になった。


 そのまましばらくして、珠希がキャンディを食べ終える。じっと立ち続けていた僕を見上げて、シニカルに笑った。


「さっきは助かったよ」

「あんなので良ければまた頼まれてもいい」

「何もしてないくせに偉そう」


 珠希の言うとおり、僕はただ付き添っただけだ。身体を張って守ったのでもなければ目的をきちんと理解していたわけでもない。本当に、傍を歩いていただけ。


 でも、そんな僕に助かったと珠希は言う。


「あいつらは俺の友達だったんだ」


 今は違うと強調したげな珠希の言葉に、黙って耳を傾ける。


「ちょっと前まで俺たちはチームだった。学校でも放課後でも一緒に遊んでさ、今日はこれして遊ぼうとか、次は何するのが面白いかとか、ずっと楽しいことばっかりしていられる仲間だと思ってた。……なのに、簡単に変わっちゃった」


 珠希にとってそれがどれだけ大きな衝撃だったか。信じていた仲間からの裏切り。彼らのしてきた楽しいことが、自分にとって苦しいことへと変わる。


 つらいはずなのに、珠希は眉一つ動かさない。アーモンドの瞳だけが潤みを湛えて黒く光った。


「俺、分かんないんだよ。あいつらがああなった理由が分からない。どうして俺が悪口を言われたり、突き飛ばされたりするのかが分からない――」


 俺は、何も変わってないのに。


 その言葉が全てなのだと僕は悟る。珠希も本当は分かっているのだ。そのうえでどうしても認められずに、苦悩している。


 変わることは避けられず、変わり始めたものは止められない。


 成長していく身体は、あまりにも明確だ。


「それが、大人になるってことなんだよ」


 僕は言う。気休めにもならない残酷な常套句を。


「変わらないものなんてない。人も、人との関係も」

「俺はそんなの、いやだ」


 強気な表情を崩さない珠希。


「全部が変わっちゃうんなら、今まではなんだったんだよ。ずっと続くわけじゃないとしても、そう信じられるくらい楽しかった時間はなんなんだよ。どうせ変わるものだから、最初から捨てる準備をしてろって言うのかよ」

「……ああ、そうだ。いくら信じたってどうにもならないんだ。どんなに大事にしていたものだって、時間が経てば大事じゃなくなる。無意味なんだ」


 僕はいったい何を言っている?


 頭に血がのぼっている。珠希を諭すつもりなら、こんな言い方は避けるべきだった。じゃあ僕は珠希に腹を立てているのか。自分自身の変化を認めきれない未熟さが癇に障っているとでも?


 きっと、違う。僕は珠希のことなんて、考えてすらいなかった。


「僕だって、きみと同じだ。変わらないでいられる方法があったなら、どれだけ良かったかって思う。でもな、それは呪いなんだ。変わらない友情とか、色褪せない思い出とか、そういうものはただただ自分の首を絞めるだけなんだ。在ってはいけないものなんだよ――」


 そうして、僕は語り始める。


 今となってはなんの価値もない、手垢塗れの白昼夢を。

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