第7話 因果は冴える狩人の如し



 その日の夜、懐かしい夢を見た。


 高校一年の頃の夢だ。当時の僕は教室のシミのような存在で、視界には入るけれど関わるほどではない、という認識を受けていた。僕自身もまた、その役割に徹することが賢い振る舞いだと信じた。


 だから思い出すような記憶も数えるほどしかない。そのうちの一つが、夢となって再現される。


 それは放課後の出来事だった。教室の戸締まりを任されていた僕は、クラスメイトたちが和気藹々と教室を出ていくのを自分の席で眺めていた。数人の仲良しグループが室内に残って歓談しているのを認めて、図書室で借りたSF小説を読み始める。彼らが雑談に飽きて外に出るまでの、お決まりの暇潰しだった。


 やがて仲良しグループも場所を移し、僕は文庫本に栞を挟む。ようやく独りになれたことに安堵したあと、ぐるりと教室内を見回した。忘れ物があれば職員室にいる担任に届けなければならないが、大抵は忘れた当人がすぐ取りに戻ってくる。


 だが、その日は例外だった。窓際、前から三番目の机の上に置かれたノートに目が留まる。使い込まれて頁がくたくたになっているのが分かった。近づいて見た表紙には油性のペンで『No.8』とだけ記されている。


 僕はそのノートを開いてみたくなった。理由はない、単なる気まぐれ。プライバシーの侵害という言葉も脳裏には浮かんだが、好奇心を抑止するには至らなかった。


 思えば僕は当時から考え無しだったようだ。忘れ物の持ち主がいつ戻ってくるかも分からないのに手を出すリスクはリターンに見合わない。どうせなら内側から鍵をかけておくなどして用心するべきだった。


 果たして、僕は彼女と遭遇する。


 息を切らしてやってきた女子生徒を、はじめは誰だか判別ができなかった。肩まで伸びた黒髪が乱れ、額で汗が光を放つ。整った容姿を持つ彼女は、僕の姿を捉えると整列された机を押し退ける勢いで迫ってきた。


 僕は咄嗟にノートから手を離した。だがもう手遅れだった。彼女は僕の胸ぐらを掴み、強引に窓辺へと押しやる。想定外の状況に、僕は抵抗することも忘れていた。そのまま頭部が窓の外にはみ出るまで、お互いに言葉がなかったのもその一因だった。


「見たよね」


 血も凍るような声音が、彼女の小さな口から洩れる。


「今すぐ忘れると誓いなさい」

「何も見ていません」


 ワンテンポ遅れた僕の否定に、彼女は呆れ果てたようにため息をつく。


 純粋な恐怖だった。これほどの敵意に晒されることも、射殺すような眼差しを受けることも、生まれて初めての経験だ。


 蔑むでも貶めるでもない。この人は僕を、ただ有害なものと見做している。


「ふぅん。きみがそう言い張るんなら、それでいいわ。でも何も見ていないと言うからには、その中身についても知らないはずよね?」


 こくりと頷く以外に選択肢はなかった。


 それでも彼女は僕への威圧を解こうとはしなかった。しばらく品定めでもするかのように僕の顔をまじまじと見つめた後、仕方なさげに一歩退く。足場に余裕ができ、ようやく僕は生きた心地を取り戻す。


「良かったわね、賢明な判断ができて。ところできみは誰だっけ」


 依然として冷たい口調で言いながら、彼女は額に貼りついた髪を鬱陶しそうに剥がす。そのときに僕は、彼女の左目にある泣き黒子に初めて気がつく――だが厳密には、それは実際に見た時点においての初めて。この光景は、僕の記憶を再現しているに過ぎない。


 自覚する。僕はこの泣き黒子を思い出すためだけに、この夢を見ていた。


 髪型や雰囲気が変わっていたからすぐには分からなかった。東田の屋敷の前で見かけたあの女性が、この冷淡な眼をした女子であることを。


 これが、僕の在り様に埋まらない穴を穿った彼女――水瀬みなせ唯衣ゆいとの最初の接点だった。



   *



 四日目、木曜。昨日に引き続き、また珠希が部屋に侵入してきた。


 だが今回は無理やり起こされるということはなく、僕は珠希の訪問よりも先に身支度を整えていた。この早起きは主に寝覚めが悪かったことによるもの。昨夜の夢は、僕にとって悪夢の部類に入る。


 あれが何より恐ろしいのは、過去を再現しただけの夢であっても色褪せない恐怖を僕に与えていることだ。この経験があったからこそ、珠希に強襲されたときにも比較的冷静でいられたのかもしれない。だとしても彼女に感謝なんてしないが。


 実際、珠希が僕に向けて放った第一声は「顔色悪いね。大丈夫?」と心配するものだった。これだけで珠希のことは慈悲深い天使だとさえ思えてくる。


 何にせよ、水瀬唯衣が陽向町に居るという事実だけで僕は及び腰になってしまう。怯えと言ってもいいかもしれないが、実情はもっと複雑だ。あれからもう随分と経っているのに彼女が僕のことをはっきりと認知していたことからも、未だに僕を許していないのは明らかだった。


 ――現れるとしたら、きみ以上はいないもの――


 彼女があのように言った理由を、僕は受け止める必要がある。


「なあ、夜高はどこから来たんだ?」


 部屋に居座った珠希が訊いてくる。


「東のほうだよ」

「もっと具体的に教えて」

「直線距離で、だいたい三百キロメートルくらい走った」

「……あんたって、どっかずれてるよな」


 そのとおりだよ、と僕は答えた。



   *



 珠希の用件はシンプルだった。


「お昼からの予定を空けておいて」


 そう言ってすぐに部屋を出た珠希。当然ながら平日には学校で授業があるためだ。昼頃は僕が連日外出しているのを知っているから、確実に会えるうちに先手を打ったということだろう。


 買い置きしておいた朝食用のおにぎりをひとつ胃に入れたあと、僕も向かうべき場所へ向かうことにした。昨晩降っていた雨が地表で凍りつき、道中で何度も滑って転びそうになる。厳しい寒さと取りきれない疲れも相まって、帰ったら二度寝しようと心に決めた。


 そんな理由から境内へのお参りも省略する。昨日の時点で石段をのぼるのがつらいとヒイロに話したら「軟弱な夜高さんですね」と一旦は呆れ顔をされた。その後で「お供え物は麓に小さな供物台がありますので、そこに置いておいてもらえればいいですよ」と教えてもらった。


 しかし明らかに不満げでもあったので、この手段を使うのはおそらく今回きりだろう。次はきちんと拝殿の前まで行こうと思いつつ、供物台に菓子パンを置く。それから気持ち程度に台付近の汚れを拭き取ったのち、来た道を引き返した。


 さて。


 ヒイロは昨日、僕が因果に引かれ始めていると言った。それ自体は陽向町に辿り着いた時点で薄々勘づいていたことではあるのだけれど、水瀬唯衣を思い出したことでより信憑性が増してきた。茶化した言い方をしてみるなら、この町には役者が揃っていた。


 歳を取らない神様。男装の少女。そして、かつての同級生。


 率直に言ってふざけた巡り合わせだ。あらゆる未来がどうでもよくなって旅に出た僕に、因果律はそうそう容易く現実逃避を達成させてくれない。わざわざ丁寧な追い打ちをかけてくるところに、運命とかいうやつの底意地の悪さを感じる。


 いや――底意地が悪いのは、僕のほうか。


 因果律の機能は本来、一方的に得をした人間から取り立てて帳尻を合わせるためにある。利益は他方へ分配され、また同様にして循環する。そういうシステムが、この世界には確かに存在している。


 それを逆手にとり、損失を被ったふりをして利を得ようとする厚顔無恥。


 不遇に甘んじ、抜け出す努力をせず、いつまでも被害者気取り。


 そんな屑野郎が、本当に不遇な人たちへの救いを滞らせる。


「消えたいな」


 凍えた唇から洩れる、唯一の希い。


 澤口夜高という存在の消滅を、他でもない僕自身が望んでいる。



   *



 珠希は正午過ぎに帰宅して、僕を再び外へと駆り出した。事前通告があったぶん心の準備をする余裕くらいはあったが、彼女の要求を聞いてそのほとんどが無駄になった。


「今日から俺がいいって言うまで、あんたは俺の兄貴だ」

「意味が分からない」

「そういうフリをしろって言ってるんだよ。物分かり悪いな、大人のくせに」


 大人のくせに、は余計だ。


 少し考えれば意図するところは分かった。だが設定的に実兄は無理がある気がする。リアリティがあったほうが良いという提案を僕からして、兄ではなく従兄弟という立ち位置に落ち着く。なんでこんな細かい設定を詰めたのかは自分でも謎だった。


 日中の陽射しで大分氷が融けたのか、今度は滑る場面も少なく道を行ける。珠希にとっては日常的な環境らしく、まったく足元を気にしているそぶりがない。


「学校で聞いたんだけどさ」


 先行する珠希が、ふと思い出したように言った。


「土地神が新しい信徒を連れて町中を歩いてたって。それって夜高のこと?」

「うん」

「うん、って……あんた、神様を崇拝するタイプの人だったの」

「そういうわけじゃないんだけど」

「じゃあ何したらそうなるのさ」

「参拝したら気に入られた。何故なのかは知らない」

「あっそ」


 訊いておきながらあまり興味はないようで、そこから深堀りしてくる様子はなかった。


 しかし、そうか。土地神と余所者が行動を共にしていれば、噂にはなるか。現時点で僕はちょっとした有名人で、話題にされる程度には注目されているらしい。


 しばらく歩いているうちに何人かの住民とすれ違ったが、皆が僕を二度以上見ては挨拶をしてきた。とりわけ高齢者からは深々とお辞儀までされ、危うく自分の立ち位置が分からなくなるところだった。


 彼らは僕ではなく、僕がかしずいた神様に礼を尽くしているにすぎない。そこを見誤れるほどの愚かしさは僕にもないけれど、彼女がそこまで信仰される理由もまた納得しかねるものがある。


 だってあの神様、フーセンガムの当たりを引いたくらいで大喜びするし。


「着いた。ここが目的地」


 珠希に連れられてやってきたのは、陽向町の公民館だった。周りに木造住宅が多かったためか、鉄骨とコンクリートで造られた建物は異質にもみえる。大きさもそこそこあり、頑丈そうな倉庫まで隣接していた。


「俺、中でちょっとお遣い済ませてくるから」

「了解」

「そこでじっとしてろよな」

「僕はペットじゃないんだが」


 見るとリードを繋ぐ鉄柱のようなものがあった。本気か。


 靴を脱いで館内へ入っていく珠希を見送り、ひと息つく。あの子は年上を甘く見過ぎというか、油断が多い。かといって逆らうと僕の社会的地位は失墜してしまうのだが。


 というか信徒として顔まで知られている時点で、既に悪い意味で目立っているような気もする。そこに覗き魔の変態というレッテルまで貼られたらどうなるか。


 下手したら神様への信仰まで道連れにしかねなかった。


 数分待って珠希の帰りが遅くなることを察した僕は、公民館の壁づたいに設置された掲示板に目を向ける。町会費計上などの広報の他に、近隣の山での地滑りを防止する目的で行われている工事の日程などが掲示されていた。


 その中で最も陽に焼けた貼り紙が目に留まる。書かれているのは緊急時に公民館へ避難する際の注意書き。内部構造を描いた図の横に、館内の多目的室や資料室といった各室を開放すると書かれていた。


 ふとヒイロが言っていた資料館の存在を思い出す。彼女の成り立ちを示す資料があるというが、こことは別の場所なのだろうか。


 もう少し珠希が戻ってくるのに時間がかかるようであれば、公民館に立ち入ってみることも選択肢に挙がる。だがさっきも考えたとおり、珠希の言いつけを破ったことが知られると巡り巡ってヒイロの信仰が失墜する。とんでもない桶屋理論のせいで行動に重い枷がついて、笑えない。


 仕方なく冬空を眺めるしかない僕は、東側の坂の向こうからこちらへ歩いてくる人影に気がついた。男女の二人組で、仲睦まじげに話している様子がうかがえる。


 女性のほうは、水瀬唯衣だ。あらためて見るとやはり彼女で間違いない。一方で男性のほうに見覚えはなかった。遠くからでも明らかなほど長身で体格に恵まれ、隣の彼女と並ぶ姿は田舎に似つかわしくない雰囲気を帯びていた。


 二人の間柄は推測に難くなかった。だから僕は彼女らから隠れようと考える。微妙どころか険悪な雰囲気になるのは目に見えているし、男のほうにも接点は作りたくなかった。


 鉄柱から離れるのはやむをえない。公民館内の下駄箱前で待機していれば珠希にも文句は言われないはず。とにかく彼女らから身を隠さないと。


「お待たせ夜高……って、なにその顔」


 最悪のタイミングで珠希が戻ってくる。


「あー、もしかしてあんた、逃げようとしてたな」

「違うって」


 いや違わないんだけれども。


「とりあえず中に入らせてくれないか。寒いんだ」

「知るかよ、今から帰るんだからそれまで我慢すりゃいいじゃん」

「今じゃないと駄目なんだ」

「……分かったよ」


 何かを察したらしい珠希が言う。


「トイレは入って右側だからな」


 そうじゃないんだが――と返しかけたとき、背後に視線を感じた。


 視線なんていう形のないものを感じる器官があるのかと前々から懐疑的な僕だが、今度ばかりはその不可解な感覚を信用せざるを得なかった。原理不明なものに対して受け容れるという姿勢を取れるようになったのは、僕にしては進歩だと思う。


 諦めて振り返る僕。水瀬唯衣に面と向かうのは、五年ぶりか。


 あれから時が経っても彼女は、刺し貫くような鋭い目で僕を見る。


「久しぶり、水瀬」

「……もう水瀬じゃないんだよ、夜高」


 僕は無意識に握りしめた拳を脱力させる。


 予測できたことだった、そんなのは。

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