第6話 押しつけの救い



 ヒイロを境内まで送り届け、山をおり、民宿に戻る途中で雨が降った。慌てて建物の中に駆け込むと、これまでの疲れが一気に溢れ出てきた。そのまま部屋まで戻り、備えつけの座椅子に深く腰を下ろした。


 見知らぬ土地を独りで渡ってきた。気ままなその日暮らしは初めこそ自由だったけれど、だんだん精神が摩耗しているのを感じるようになった。人は生きているだけで何かを擦り減らし続けるものなのだと、旅中は悟ったような思いに浸ったりもした。


 何ということはない。僕は再確認しただけだ。流れる川が地を削りながら進むように、動き続けることで変化を及ぼすのは自然の摂理。失ったなら、補えばいい。


 でも、それを繰り返した先に、何が待っているのだろう。


 未来のことは分からない。だから可能性に縋る。このどうしようもない人生が、もしかしたら何か意味のあるものに変わるんじゃないか――そんな期待を捨てられずに生き続けることを、僕は嫌悪していた。


 そういう意味では、父の存在はこれ以上ないくらいの教訓を与えてくれた。


 生きてさえいれば、という父の主義は僕とは真逆だった。あるいは父がそういう主張だったからこそ僕はそう思うようになったのかもしれない。どちらにせよ憎い存在であったのには変わりがない。


 生きているだけで常に失い続けなければならないのなら、何を得たところで価値なんてない。自分ではない誰かと分かち合った幸福でさえ、いつかは失われてしまう。その取り立てが他者に及ぶくらいなら、自らの首を掻っ切ってしまったほうがまだ幸せだ。


 先刻聞いた、安楽死を願った女性の話。


 あれは恋人のための願いなんかじゃない。その女性が耐えられなかっただけだ。遅かれ早かれ自分たちを死が分かつという運命を、受け入れられなかった。ならばいっそ愛情がこれ以上擦り減らないうちに、命を終わらせたかった。


 僕には推察することしかできない。本当の心境がどうだったのかは、僕にとってはどうでもいいことだ。


 けれど、ヒイロにとってはそうではなかった。


 僕の失敗は、この暗い想像をヒイロに見透かされてしまったことだった。




 座椅子にもたれて眠ることもできず、窓に打ちつける雨の音を数えているうちに内線の電話が鳴った。応じて食堂へ行くと、純二さんがひとりで待っていた。


「息子さん、今日は居ないんですね」

「部屋から出てこないんです。まあ時々あることです」


 お気遣いすみませんね、と言って純二さんは顎をさすった。


 昨日一昨日と見てきた様子では、親子の仲は円満とは言わないまでも悪くはないようだった。自分の子が女子でありながら男子のふりをしている理由についても知っていて当然だと思われる。


 事情を直接尋ねるのは珠希の要求に反することになる。純二さんから話題を振ってくれれば言い逃れのしようがあるのだが、如何せん気軽に話せることでもない。客人を相手しているのなら、尚更だ。


 箸の運びだけが早まる。相変わらず料理は美味しい。美味しいけれど、少し塩気が多い気がする。自然と喉が渇く。温かいお茶を飲み干すと、すぐに純二さんがおかわりを注いでくれた。


「ありがとうございます」

「いいんですよ」


 純二さんは急須を脇に置くと、神妙な面持ちになって言った。


「珠希のことが気になりますか」

「どういう意味です?」

「さっき珠希のことを息子さんと呼んだでしょう。それが少し不自然でしたのでね」


 隠し事が下手くそか、僕は。


「娘が今朝マスターキーを持っていくのを見ました。詳しくは聞かなかったのですが、あれは澤口さんの部屋にお邪魔していたのですよね?」

「……はい、そうです」

「それは何のために?」


 僕を脅迫しに、とは口が裂けても言えなかった。かといって適当な嘘をついて誤魔化せるとも思えなかった。


 何も話せずにいる僕を見て、純二さんは困ったような顔をする。


「問い詰めているわけではないんです。ただ、娘が自分からああいう行動に出たのは初めてだったのでね。客人の部屋に乗り込んで何をしたのか、気になっただけで」

「少しだけ、話しました」

「……そうですか」

「詳しく訊かないんですか?」

「そうしたいのは、やまやまなんですがね」


 純二さんは両手の指を組んで机の上に置く。委細を問われると思っていた僕に対し、純二さんの態度は奇妙なほどに消極的だった。


「私には娘のことが分からない。だからきみから話の内容を聞き出せたとしても、私はますます珠希を理解してあげられなくなるだけだと思う。あの子の心は、少し特殊だから」

「良ければ、お聞きしてもいいですか」


 姑息にも機に乗じて訊く僕に、純二さんは小さく頷く。


「ありがとう。すまないね」


 礼を言われる道理も、詫びられる筋合いもない。


 けれど陰りのみえる彼の表情に、僕は何も言えず曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。




 槙野珠希が自らの性に疑問を持ち始めた時期は定かではない。それはごく最近の出来事だったかもしれないし、あるいはまだ自覚すらしていないのかもしれない。ただ、彼女が身体的な性を受容していないのは明らかだった。男装は単なる嗜好というよりも性徴に対する抵抗のようであり、頑なに女性らしさを切り離そうとしていた。


 純二さんから見れば、娘の心がどうあろうと娘であることには変わりはなかったし、彼女がどんな生き方を選択しようと認めてやりたいという気持ちがあった。それは自分が都市圏で営業マンとして働いていた頃、実力至上主義と過酷な業績競争に疲れ果ててしまった経験からも思うことがあったからだ。


 珠希は珠希らしくあればいい。男性か女性かというのは珠希の内包する要素の一つでしかなく、他人から強要されるものではないはずだ。男はこうあるべき、女はそうするべき、などという包括的な固定観念を都会ではうんざりするほど見てきた。それらが常に正しいとは、純二さんには到底思えなかったのだという。


 一方で純二さんの奥さんは、珠希との折り合いがうまくつけられなかった。女性視点からでは珠希のその抵抗感を認識するのが難しかったのかもしれない。珠希が男っぽく振る舞うのは幼少から周囲にいた友達が男ばかりだったからだと決めつけた。


 純二さんも、珠希が自分は男だと言うのを直接聞いたわけではない。娘の葛藤が一過性のものであるなら、可能な限り独力で解決してもらいたいと望んでいる。


 だが、もしそうではないのだとしたら。


 娘の苦悩が娘ひとりに負えるものでなかったとき、父親として手を貸さずにいることは正しいのだろうか。理解は難しくとも、思い悩む娘にかけるべき言葉があるのではないか。


 そんなことを考えているうちにも娘は成長していく。これから思春期に入り、父親と娘の関係は冷える一方になると世間ではいう。そうなる前でなければ伝えられないこともあるのではないか?


 杞憂であればいい、などという楽観的思考はとうの昔に通り越していた。今の純二さんは静かな焦燥を抱きながら、娘との距離感を測りきれずにいる。




「どうか、珠希の話し相手になってやってください」


 締めくくるように純二さんは頭を下げた。


「こんなことを頼んで、民宿のオーナーとしても親としても本当に情けないと思っています。それでも」

「顔を上げてください」


 その言葉に感情を込めずにいられたか、僕にはあまり自信がない。


「事情は分かりました。十日間も泊まらせていただく身ですから、そのくらいは頼まれるまでもないことです」


 教科書に載った台詞をそらんじるかのように口を動かす。でないと今にも僕の中身が暴れ出して、取り繕った表面が剥がれてしまいそうだった。


 親側の事情を聞かされることにもっと忌避感を持つべきだったと後から思う。僕はそういうものに、とことん同情できない。たとえ純二さんが悪い人ではないと分かっていても、親からの視点というだけで傲慢にすら感じてしまう。


 結局、この人は何がしたいのか?


「ありがとう。澤口くん」


 テーブル越しに両手を差し出して握手を求めてくる純二さん。ここで断れば信頼を失ってしまうと感じ、素直に応じた。


 あくまで僕は、目の前のこの人のためではなく自分自身のために珠希の話し相手になりたいと考える。珠希が何を思い、何を感じて、何を願っているのか。対話を通してそれらを見極めないことには、僕の使命は果たされない。


 僕は強く確信する。


 押しつけの救いに意味なんてない。己の救いは、自分だけの救いだ。

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